Column & Blog 9


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[No,1~No,39] [No,40~No,79] [No,80~No,119]
[No,120~No,159] [No,160~No,199] [No,200~No,239]
[No,240~No,279] [No,280~No,319] [No,320~No,359]
[No,360~No,399] [No,400~No,439] [No,440~No,479]
[No,480~No,***]

 No,320  【「正しさ」を決める人は誰なのかを考える】
 No,321  【二大政党制は未来永劫日本にはなじまいないのか】
 No,322  【男女共同参画を肯定論と否定論的立場から考える】
 No,323  【金余りの世界経済はどこまで行くのかを憂う】
 No,324  【JR東日本は個人情報取扱事業者として公言すべきでは】
 No,325  【NISAの活用は想像以上に難しいことについて考える】
 No,326  【何をもって景気回復とするかをマクロ的に考える】
 No,327  【先の大戦に負けた今日、日露戦争を少し考える】
 No,328  【現実を正面から捉えられることこそ結果に繋がる】
 No,329  【省エネ商品に群がる安易で愚かな人々について】
 No,330  【小手先のインフレーションを求めることの危険性】
 No,331  【日銀の金融緩和政策には効果が無かったことの証明】
 No,332  【需給ギャップの考え方はそのまま信頼できない時代】
 No,333  【日銀とFRBの違いから米国債暴落のメリット先を考える】
 No,334  【政府の負債と国民の債権から少々考える】
 No,335  【モノやサービスの質の向上と、そこで働く人のレベルについて】
 No,336  【金融商品取引法に関するルール(金融庁HP参照)】
 No,337  【個人投資家はアベノミクスの崩壊に備えることが肝要】
 No,338  【科学と合意の概念は株式投資にも通ずる問題ではないのか】
 No,339  【運という概念に惑わされるうちは投資では勝てないこと】
 No,340  【TPPの問題でクローズアップされるべきは農業なのか】
 No,341  【理科系科目の履修生を減らしているのは国策のせい?】
 No,342  【マスコミは自社に影響を受けない報道しかしない】
 No.343  【1年を経過するアベノミクスの総括を兼ねて】
 No,344  【節約志向は一種の洗脳であり、理想的な姿ではない】
 No,345  【日本の報道が正常化されるのはいつのことでしょう】
 No,346  【円高メリットについて考える人はいるのでしょうか】
 No,347  【節約したお金の行方を考え、節約の意味を考える】
 No,348  【政府はどこまで国民から吸い上げるのでしょう、そして責任は】
 No,349  【投資で求められるのは好き嫌い、そして主観を捨てること】
 No,350  【人類史上最大の難問である人口問題について考える】
 No,351  【投資に向かない人の典型例を発電問題から改めて考える】
 No,352  【年金の理解を求めて~現行の年金制度には無理があること】
 No,353  【株式投資で大切なことは「合意」ではなく「反目」であること】
 No,354  【日本の文化は総じて良く、日本の個々人は投資にむいていること】
 No,355  【三権以外に必要なものは中央銀行の独立性であることについて】
 No,356  【昨今の貿易赤字は日本の国際化の証明に過ぎないレベル】
 No,357  【文部科学省は政府から独立した機関であることが望ましいのでは】
 No,358  【物事の裏を読めなくては投資のスタートラインに立てない】
 No,359  【コピー&ペーストは良いことか、悪いことなのか】

  





 【「正しさ」を決める人は誰なのかを考える】第320回

 「あなたは間違っている」と怒鳴っている人があちこちにおります。「間違っている」と言っているのですから、自分は正しいということが前提なのでしょう。しかし、本人は自分と相手を区別しているでしょうが、第三者にとっては、怒っている人も怒鳴られている人も、同じ人間です。区別はできないのです。つまり、怒っている人は「あなたの考えは私とは違う。どちらが正しいかは不明だが...」と言うべきでしょう。もともと「正しいこと」、「何が正しいか?」は誰が決めるのでしょうか。

 正しいことを決めることのできる第一の人は世界的には神になります。神がこれは正しいと言えば、その神様を信じている人にとっては無条件に正しいのです。その通りにやっていれば問題はありませんし、信者の間には争いは起こりません。しかし、神様が正しいことを決めるというこの方式には決定的な欠点があります。まず、世界中に神様が複数おられることです。もしこの地上に神様がお一人なら簡単で、正しいことを神様にお聞きすればよいのですが、よく知られた神様だけでも、孔子(道教、紀元前に誕生)、イエス・キリスト(正しくはイエスの父、ユダヤ教なら直接ヤハウェ、紀元0年、ユダヤ教なら紀元前2000年程度)、マホメット(正確にはユダヤ教の分派)などがあり、その他、日本の八百万の神、中央アジアのゾロアスター神など世界中を探訪して数えあげれば神様は限りがありません。
 これらの「複数の神様」が同じことをおっしゃっているなら問題はないのですが、実に様々となっております。ですから日常的な行動規範を神様にお聞きしても「正しいこと」自体が違うのです。そして「どの神様が本当の神様ですか」と聞くと、信者は「自分の信じている神様が本物」と言われるので、結局、判らないのです。最近では「宗教間の融和」ということでキリスト教の司祭と仏教の坊主が会議を持ったりしているので、ますます判らない状況となっております。

 もしお釈迦とイエスが同一人物なら、是非両派は宣言をして仏典と聖書の合本を作ってもらいたいと思うのです。もし合併しないのなら、議論を中断せずに、どちらの神様が存在し、どちらはいないという結論を出してもらいたいと思います。もしくは、それが出来なければ、信者の方は自分の信念として特定の宗教を信じるのは良いのですが、他人に強制しないようにした方が良いでしょう。
 私を含む普通の凡人は、異なる時期に異なることを正しいと言っておられる神様がお二人おられたら、自分でどちらの神様が本当の神様かを決められないでしょう。釈迦にしてもイエスにしても、著者より人格も高く、能力も優れております。それは仏典や聖書を読めば一目瞭然です。自分より優れた人がお二人おられるのですから、愚かな私にはそのどちらかを選ぶことはできません。

 そういう経緯で、神というものを頼れないので、王国では王にお願いすることとなります。昔は王は「これをしてはいけない」と決めてくれたので、それを正しいとしていれば良かったのですが、既に王の時代は過ぎ、その代わりをするのが国会です。そして建前としては国会の議決でできる法律が正しいという事になります。しかし、国会の議決も正しいと信じるには少し無理があります。その原因の一つが「民主主義」である。民主主義は社会を修める一つの方便として成立しますが、民主主義が正しく機能する為には常に全会一致でなければなりません。もし反対者が一人でもいると、民主主義で決めたことは正しいということは多数が正しいことを認めなければならないからです。多数が正しいという結論を得ることは論理的には困難なのです。また、国会の議決が正しいとは言えない第二の理由は、国会の議論があまりにも低レベルであることが歴史的に証明されているからです。国民に選出された議員が低レベルの議論をする原因は複数考えられますが、この30年を観ればすでに証明されているでしょう。

 神も王も正しいことを決めることができないなら、偉人に決めてもらう方法があります。偉人が決めたものを日本では普通に道徳と言っています。典型的な道徳は親に孝行、師を尊敬などであり、それを聞くと現代の若者はいっせいにイヤな顔をします。そんなことを強制されるなら正しいことなどは要らないと逃げる傾向があります。また第二次世界大戦以前には道徳を逆手にとって、自分の利益に為に使った人が現れ、そのために現在では小学校でも道徳を教えることができない状態にまでなっていると言えるでしょう。
 最近、小学校で道徳を積極的に教えるべきだという人がいます。確かに、大人にとって見れば、あまりにも見かねるような言動をとる若者に出会うと、そういう気持ちになることも確かですが、道徳と言う名の下に少し前に、酷いことが行われたことも考えなければならないでしょう。残念ながら日本では、既に道徳という言葉は汚れてしまいました。意図は正しいのですがもう一度出直しが必要でしょう。

 神、王、偉人がだめなら、仕方がないから「自分」が決めるしかないのです。これが「信念」というものです。自分の信念は自分が決めるのだから簡単です。ただ、個々人が信念を持つので、それを他人に強制すると面倒なことが起こります。自分で決めた信念の及ぶ範囲は自分だけにしておいた方が良いでしょう。道徳を教えられなくなった最近の日本の学校では、仕方がないので、生徒に自分は自分と教えているらしいのです。
 この方法は正しいことを決めるために良い方法のように思いますが、そうでもないでしょう。全ての行動が自分だけで完結するならよいのですが、他人との関係を生じることがあるのです。つまり信念で正しいことを決めた場合には、他人は他人で正しいことを決めるので、多くの人が集まると意見が異なり喧嘩が始まるでしょう。現実にも、社会の喧嘩のほとんどはこの種のものと言い切れます。だから、信念で正しいことを決める場合には、自分の行動だけに限定する必要があります。現代の若い人は小学校からこの方法を教えられているので、自分が自分のことを決めるのだから何が悪いのですか?と言いますし、年寄りはこれが正しいのだから、こうしろと経験則で言います。だからもめ事が発生します。このようなことが起こるのは、この社会には自分だけに影響が及ぶ行為などほとんど無いからです。

 正しいことを決める最後の手段は相手に聞く、もしくは相手に聞いたらどう言うだろうか?を考えて行動するという規範があり、それを「倫理」といいます。倫理の黄金律は相手のして欲しくないことはしない(消極的黄金律)」と相手のして欲しいことをする(積極的黄金律)」があります。して欲しくないことはしない、という消極型は東洋型、して欲しいことをするという積極型を西洋型と言っても良いと考えております。

 消極型でも積極型でも、相手にして欲しいことを聞くという点では同じなので、相手との関係では「信念」より正確さが増すでしょう。しかし、積極型では得てして相手の意志を無視する傾向が生じます。例えば、歴史的にはキリスト教の強引な布教や民主主義の押し売りなどがあり、キリスト教を布教することは神の命令であり、相手も帰依すればそれが良いはずであるという信念の元に改宗しなければ殺しても構わないというような場合もありました。またアメリカとイラクとの戦争のように民主主義が正しいのだから、我々は君たちの解放軍だといって相手の国に攻めこむことなどがその一例です。このような行為は信念に基づいている場合や、時には自分の利害に関係することを強引にする為の道徳的な理由づけになっている場合も多いでしょう。だから、このようのことを倫理的と呼ぶには少し無理があると思うのです。

 倫理というものの範囲は明確ではありませんが、「倫」という字が「人間と人間が相対している状態」を示した漢字であることから、倫理を相手に聞くということを中心としてもそれほど間違ってはいないでしょう。それに「倫理」とか「道徳」という語感から来る一種のいやらしさは、「自分が正しいのだから、おまえもその通りせよ」という傲慢さが見え隠れすることにあります。実際、歴史的に見ると、倫理や道徳という名の下に倫理や道徳が行われたことより、それを理由にしてその人の得になることを強制するのに使用されたことが多いのです。

 まず「正しい」ことの決め方は次の用にまとめられる。
1. 何が「正しい」かを決めるのは、難しい
2. 誰かが「正しい」と決めないと正しいことは決まらない
3. 「正しい」ことを決める人には、神、王、偉人、自分、相手が考えられる
4. 神、王は現代では適切ではなく、偉人は基準になるがコンセンサスがとれない
5. 自分が「正しい」と決めたことは自分だけに止まらなければ他人に迷惑をかける
6. 相手に聞くのが一番良いが、相手の意志を推定すると、自己決定と同じになる

 ところで、多くの場合「正しい」と思うことは、
1. 自分の利益になる
2. 自分の生い立ちや親に習ったことを正しいと思う
3. 相手に対する競争心や嫉妬心の裏側
であり、それを表面に出しにくいので、隠れ蓑として使われます。

 もともと、人間は動物だから自己中心的な状態が「自然」です。自然のとおり、素直に行動すればどうしても自己中心的になるのです。道徳や倫理はそのような人間の自然状態と人間の文明社会の構造が矛盾していることから発生しています。だからなかなか自己を正当化しないように冷静になることは難しいのですが、それでも「なぜ、自分が正しいと思っていることは正しいの」と自問自答することは役に立ちます。そしてその自問自答は自分の心の中や、親しい友人として、その時にはできるだけ心を平静にすることも相手の意見を理解する上で大切でしょう。また、相手と自分を入れ替えて考えるのも有効です。

 それでも自分の考えが正しく、相手が間違っていると考えてしまいますが、それは、
1. 相手はバカだ、経験がない
2. 相手は情報を知らない
と思うからです。これを克服するには時間がかかるが仕方がありません。1)は仕方がありませんが、2)は「話せば判る」ことです。

さらに、
1. 相手はもしかすると自分の得だけを考えているのではないか?自分は犠牲的なのに・・・というのが最後に残ります。

 人間とはやっかいなものです。自分が可愛い、できれば全てが自分が好きなようになって欲しい。でも、それはできないのです。だからといって自分一人だけでは生きていけないし、第一寂しいものです。人間は自分の意見を強く主張するほどには強くありません。

 学生や若い人が間違うのは、自分が他人を世話したことがないので、自分は自分だけで完結していると錯覚しがちなことです。それが若さというものとも言えますが、逆にその若者を苦しめる結果を伴っています。自分はなぜ人間の中で生活をしているのだ?自分はなぜ腹の立つ相手とつきあっているのだ?と自分で質問してみると、少しは回りが見えてくると私は考えています。そして、最後の最後は、相手に対する愛情が決め手でしょう。愛情を失わなければそれで良いのです。どうせ、憎い人の言うことに同意することは難しいからです。どれだけ理屈を述べても、それは相手に対する好き嫌いだけ、という事もあります。どうしても心が乱れる時には、静かに仏典か聖書、コーランを紐解くと、そこには最終的な解決を神が示してくださるケースもままあります。

<サイト管理人> 2013年 7月29日記述



 【二大政党制は日本には未来永劫なじまいないのか】第321回

 90年代の「政治改革」のきっかけは、金丸信が「佐川急便事件」で追い詰められた為に、その時点で既に竹下登を見限って金丸と組んでいた小沢一郎が窮地に陥り、その打開策を「小選挙区制を軸とする二大政党制」に求めたことに端を発しています。
 この十年間の選挙を見ていると、政党間に対立軸が全くと言っていいほどありません。かつては「資本主義と社会主義」というものがあり、自由党と社会党がありました。ちなみに、アメリカでは小さな政府と大きな政府があって、それぞれ共和党と民主党があたっています。

 現在は共産主義がなくなり、日本人はどうも小さな政府が嫌いで、「お上が指示してくれないと」であるとか「補助金がないと」ということになりがちです。だからこそ自民党から民主党まで政策はほとんど同じになってしまいます。共産党以外政党の名前を見ても区別がつかない状況です。「公明党」や「維新の会」、「みんなの党」と言われても、一つ一つの政策を確認しないと、その党が原発がどうか、TPPがどうかはわからないのです。つまり党名が一般的というのは「すべての党は自由民主党だ」ということになってしまいます。これでは二大政党制など夢のまた夢でしょう。

 今の日本の国会は二つの大きい保守政党があるだけで、二大政党制ではありません。自民党は反社会主義を掲げて発足したのですから、保守主義政党です。一方、民主党は当初社民リベラルを理念にしようとしていましたが、自民党や松下政経塾の出身議員が社会民主主義の看板を嫌い、骨抜きにされてしまいました。理念を失ったため、保守主義が入りこんだのです。この時点で、二大政党制は成り立たないということだったのです。
 なお、こうした机上の空論的なシステムがうまく働かないからと言って、二大政党制を批判するのは筋違いではないでしょうか。戦前の政党政治も二つの保守政党がいただけで、二大政党制ではありませんでした。二大政党制では、存立理念が相反するので、基本的に大連立はあり得ないものです。

 二大政党制にしたいがために、大手マスメディアも協力して小選挙区制を導入した経緯があります。それには理念派政党を育てなければなりません。しかし、二大保守政党が小選挙区で争っている構図は、多様な世論を反映するのが困難で、民主主義を形骸化することでしょう。途方に暮れる有権者も少なくないのが昨今です。脱原発問題が典型なのかもしれません。一方は矛盾だらけ、もう一方はやる気がない状態にあります。英米では小選挙区制で二大政党制で民主主義が活発なのですが、当時日本もそうしようと議員や記者たちが浅はかに考えていたとしか思えません。日本教の理解が全く無いからでしょう。政治が停滞すると、永田町関係者はいつも制度のせいにします。しかし、それは違うのではないでしょうか。ただ制度の何たるかを理解していないだけとしか思えません。政治家に対してマスコミに対しても国民に対しても意識が薄く残念でなりません。

<サイト管理人> 2013年 7月30日記述



 【男女共同参画を肯定論と否定論的立場から考える】第322回

 男女平等ということと、男女機会均等、そして男女共同参画、ジェンダーフリーという4つの語感はそれぞれに違います。男女共同参画というのがまだ目新しい言葉なので、定義ははっきりしていませんが、次のように考えるのが適当だと考えます。

A) 男女平等 男女が役割分担を持つかということではなく、実質的に男女が平等であること。
B) 男女機会均等 たとえば就職の時など、男と女を区別しないこと。現在の男女共同参画とは相容れない概念。女性が損をしても機会は均等。
C) 男女共同参画 男女の特性や能力は別にして、男女が共同で同じ仕事をするべきであるという考え方。就職では、女性の採用枠を決めたりすること。
D) ジェンダーフリー まったく男女の区別をしないこと。たとえばロンドンのトイレのように男女が同じトイレを使うことなど。

 私の好きなゴルフを例に取ると「男女平等」というのは女子ゴルフと男子ゴルフを分けるやり方であり、「男女機会均等」というのは男女が一緒に一つのゴルフの試合をすることになり、女子には結果的に不利になるが機会は均等になります。また「男女共同参画」では男子と女子の差を出しておき、予め女子にハンディをあげて勝負をする方法です、そして最後の「ジェンダーフリー」はもともと男女という区別をせず、服装も男女同じ服装、トイレも風呂も一緒というやり方です。

 私は「権利を問題にする場合、男女の区別をしてはいけない」という否定側の倫理を使っています。「男女は平等であるべきだ」という肯定的な倫理は時としてわかりにくい場合があるからです。倫理の黄金律にも「相手が望むことをしなさい」という肯定的倫理律と「相手がイヤなことはしない」という否定的倫理律がありますが、私は後者を採用しています。

 アメリカやヨーロッパは「相手が望むことをしなさい」という倫理律が好きなようですが、この場合、「自分が良いと思うことを相手にする」という結果になり、例えば「イラクの人は民主主義が良いと思っているのだから、イラクを攻めても良い」ということに繋がります。反対に否定的な黄金律なら「イラクの人がイヤだということはしません。何をするかはイラクの人が決める」ということになるのです。
 これを男女共同参画に当てはめると、男性から見る場合、肯定的倫理では「女性は家庭にいることが良いことだから、社会進出は考えなくても良い」ということになり、否定的倫理では「女性がイヤがることはしないようにしよう。その他は女性が自分たちで考えればよい」ということになります。

 肯定的倫理では
1)「女性」という集団を考える
2)その女性という集団がどのようにするべきかを決める
3)それに沿って行動する
ということになります。

 これに対して否定的倫理では、
1)女性にイヤなことを聞く
2)それを一つ一つ消していく
3)それ以外はあまり介入しない
ということです。

 肯定的倫理をとった場合、「女性という集団」と「その望ましい状態」を決めることが必要となります。しかしこれは難しいことです。なぜなら、女性の中でも、体力と能力がある女性、普通の女性、体力か能力が少し不足する女性がいるからです。体力と能力がある女性にとっては男性と同じ状態で競争出来た方がよい。普通の女性では「男性の仕事として定着しているもの」についてはハンディキャップをつけてもらわないと困ることが多々あります。そして体力や能力が少し不足する女性の場合、男性と同様に競争させられるより、むしろ保護の政策を採ってもらった方が良いことになるでしょう。

 否定的倫理をとった場合は個別対応になります。たとえば、「私は体力が無く、子供を産んで育てるだけで精一杯だから、それを応援して欲しい」となれば、妻の地位を保障し、家庭における子育ての援助をし、酷いことにならないように家庭訪問などの社会的ケアーをすることになります。
 また活発な女性の場合でも否定的倫理では、「私は体力能力共にあるので、子供を産んだらすぐ仕事に出たい。競争も男性と負けないので、区別はして欲しくない」となれば、託児所を用意し、女性を保護せず、十分に活躍してもらうということになります。

 男女共同参画が整っていなくても幸福な女性は多いのが現実です。結婚し、家族に恵まれ、買い物や外食を楽しみ、子供の教育に熱を上げ、子供が長じたら第二の人生を旅行や見物に精を出す・・・という女性です。もちろん万全ではありませんが、男性もほとんどがかなり悩みながら人生を送るのだから、このような女性の人生は男性との比較においても「幸福」と言えるでしょう。

 社会が発展段階にある場合には、肯定的な倫理が有効である場合が多いのです。その極端な例が共産主義体制であり、ともかく食べるものも着るものも不足しています。精神的自由などより、まず生物として必要なものを国民に供給しなければならないという状態の時には国家的な統制の方が能率的でしょう。 しかし社会が成熟し、食べるものも着るものも十分になると、国民は自由を求める傾向があります。そして貧困層には社会保障で応じるという考えになります。

 男女の関係は長い歴史を経て、十分に成熟しています。だから男女の関係もそれに関係する社会体制も成熟しているのです。そこで、男女共同参画については「否定的倫理」に基づき、「多様な対応」をする方が良いと私は考えています。

 「否定的倫理」「成熟と多様性」に基づく手続きは次のようになります。
1)まず女性自体を尊重することが前提
2)次に女性の希望を個別によく聞く
3)その女性の希望を叶えるための社会体制を順次、作っていく
4)男性がマジョリティーな仕事では「女性だから」という基準を設けず、機会均等にする
 
 1)から3)までは賛成な人でも、4)には反対かもしれません。女性は弱いから特別な保護をするべきだという議論ですが、私は長い目で見て、男女は平等であるという立場を捨てない方が結果的に女性のためになると思っております。

<サイト管理人> 2013年 7月31日記述



 【金余りの世界経済はどこまで行くのかを憂う】第323回

 映画「メリーポピンズ」のワンシーンにロンドンの銀行家が少年から2ペンスを貯金してもらうために、「このお金を銀行に預ければスエズ運河ができる」と歌う場面があります。これは個人が節約して銀行にお金を預け、そのお金は銀行から投資家に貸し出され、社会的に有意義なものに使われることを意味しています。スエズ運河ができればそれまでアフリカの喜望峰を回ってインド洋に行かざるをえなかった船舶は恐ろしいまでの近回りができるのです。そして、そのメリットは2ペンスの貯金の成果であるので、2ペンスの元金は当然返ってきますし、スエズ運河からあがる収益が利子としてもたらされる仕組みが成り立ちます。
 ただ、最近よく思うことに「お金というのはつくづく変なものだ」ということがあります。いらないと言えばいりませんし、いると言えばいるのです。有効に使えば富を生みますし、ムダに使えば不幸になります。まさに使い方次第なのです。

 ところで、お金を銀行に預けるとそれが有効に使われるのは「意味のある仕事をするのにお金がいる人たち」が存在するからでしょう。そういう人たちがいれば銀行にお金を預ける意味もありますし、銀行の社会的価値もあるというものです。しかし「意味のある仕事をする人」がいなくなれば、銀行は意味のないことにそのお金を使わざるを得ません。そのひとつの例が2007年に破綻したサブプライムローン債でしょう。少しわかりにくいこの問題は「住宅を買うときに貸し付けるローン」のことで、「サブ」という名前は「借りたお金を返す当てのない人がローンを組む」という意味を持っています。もともと住宅は自分が住むために買うものです。そしてそこで人生を送ります。ただ、社会が歪んでくると自分が住みもしない住宅を買い、それを人に貸すことで儲けようとする人が現れてくるのです。
 資本主義、自由主義の社会ですから、自分が住まなくても家を建ててそれを人に貸すことはシステムとしても倫理としても悪いことではありません。しかし社会全体としては問題が起こるでしょう。

 アメリカにしても日本にしても一億人とか三億人といった人がいると、なかなか簡素に考えることは難しいのですが、100人ぐらいであれば直感的に分かりやすいと思います。そこで以下のように例えてみます。
 ある村に100人の人がいて、そこに銀行があったとします。その銀行にとても積極的な性質の頭取がいて、お札をどこからか借りてきて、それを次から次へと村人に貸しました。お金を借りた村人は自分の財産を作ろうと思ってひとり一軒の家を建てました。その村は元々100人分が住む家があったので、それに加えて新しく100軒の家ができたことになります。最初は狭いところに住んでいる人や古い住宅の人が借りてくれましたが、何しろ100人しか村人が居ないのに100軒も新築した日には早晩、空き家が出てしまいます。造幣局からお金を借りた村人は、自分の家を売ってもすでに新築の家が余っている状態になっていることからどうにもならず、返済不能に陥ります。これが2006年頃の「ヨーロッパ」で露見した「アメリカのサブプライム問題」だったのです。結果論は好きではありませんが、当たり前のことだったのです。

 住宅は住むために建設されるものです。利殖のために建ててもお金が住宅に住むわけではありません。しかし、毎日お金のことばかり考えていると人間は「お金は生きていて住宅が必要だ」と錯覚するのではないでしょうか。そして住む人以上の住宅を建設してしまうのです。アメリカやヨーロッパ、そして日本の一部の銀行はなぜ「意味のある仕事」ではない「サブプライム」などに手を出したのでしょう。それは「国民から預かったお金を使う人がいないから」です。
 かつては国家が成長期にあり、多くの国民がモノを欲しがるので工場をたくさん造らなければならない時には銀行が貸し出す「意味ある仕事に必要な資金」は現実的に存在していました。しかし社会が成熟し、モノがあふれるような状態ではまともな借り手はおりませんし、といって自分の手元には豊富なお金だけがあるのです。だからサブプライムに手を出したとは言えないでしょうか。ファンドといい、意味のわからない債権といい、この先どこまで行くのでしょう。

 もともとお金は「従」です。お金が主人ではなく、お金は人が質素に満足して生活をするために少しだけ手伝うものでしょう。ですから生活や人生をお金で計算してはいけないと思うのです。とりあえず、今日一日お金のことを考えるのを止めてみてはどうでしょう。そうするとテレビも新聞も見ることができません。マスメディアもお金にまみれ、記事の半分はお金なのです。こうすることで、本当に自分がしたいことが見えてくるのではないでしょうか。

<サイト管理人> 2013年 8月1日記述



 【JR東日本は個人情報取扱事業者として公言すべきでは】第324回

 この世には「法律的にどうのという前に、社会的に決まっているもの」があります。そのひとつに「自分が売ることができるのは自分の所有物だけ」ということです。しかし、最近は「個人では許されないことでも、大きい組織なら何をやってもよい」という悪い傾向が露骨に出てきているように思います。単に情報が氾濫しているせいでしょうか。私にはそうばかりとは思えません。

 JR東日本は鉄道に乗るときに使うSuicaのデータ(使用した対象が何歳で性別は男女のどちらか、どこの駅で乗下車したかというデータ)を日立製作所に「販売」されたようです。氏名や住所の式月情報は取り除かれていると言いますが、付加する事は可能でしょう。そのことが現在批判されており「使ってはいけない」という申し出がなければ販売を行える状況になっております。この問題は日立製作所が2013年6月27日に発表した「JR東日本のSuicaの乗降履歴をビッグデータとして活用し、駅周辺のエリアマーケティング情報として提供するサービスを開始する」ことに端を発しています。とても違和感を覚えますが、これに対するJR東日本側の言い分は、信頼のおける企業ならば個人情報でも売って構わないというものでした。

 そもそもSuicaで鉄道に乗車するのは便利だからで、乗車して下車したらその記録は消されていると思うのが普通です。そんなものを記録しているだけも奇妙ですが、さらにそれを別の用途の目的で販売するなどもってのほかでしょう。いろいろな考え方がありますが、まずは「乗車のためのものだから、下車したら終わり」ということをハッキリすること、そして「乗下車以外の目的には使わない」ということ、さらに、もし使うならそれによって得られる利益はデータの所有者(乗車した人)にしっかりと還元することをしなければならないのではないでしょうか。「盗人」とまでは言いませんが、大企業であるJR東日本はいつから低俗な個人情報取扱事業者に成り下がったのでしょう。

 ちなみに、個人情報取扱事業者とは取扱う個人情報の数が5000を超える場合で、下記の法人及び個人を指します。5001件以上の個人情報を体系的に含み、容易に検索できるように構成されたコンピューターまたはその他の情報の集合物を事業に使用している者のことです。明らかにJR東日本も日立製作所も個人情報取扱事業者になります。少なくともそのことを大々的に利用者に説明すべきでしょう。

 どこに行っても何をしても私達の行動が監視され、そしてそれが売り買いされていると思うと何とも居心地の悪い国に住んでいるものだと思います。日本という国の治安が相対的に良いことは確かです。ただ、一企業が個人を監視し、そこから得られる情報が商品となるような社会は私達が求める安心・安全の国でしょうか。JR東日本は「自分たちは偉い人」というかつての国鉄に戻ったのかもしれません。なお、警察等の機関はNシステムなどを以前より活用しており、法人・個人の車での移動はデータとして完全に管理されています。これは犯罪に用いられた車や盗難にあった車両などを追跡する為に用いられております。これも重要な個人情報ですが、その使用目的は明確であり、治安維持の為に導入されたものであり、Suicaの問題とは全くの別物です。JR東日本はいつから警察のような治安維持機関になったのでしょう。

<サイト管理人> 2013年 8月2日記述



 【NISAの活用は想像以上に難しいことについて考える】第325回

 コラムを一旦締めくくろうと考えている今日この頃ですが、最近話題の「NISA」について少し考えてみたいと思います。NISAの有益な点は売却益や配当金が非課税となる点だけと言って良いでしょう。もしもNISAの活用をお考えの方がいるようでしたらこのメリットを生かすような方法を真摯に考えるべきと思います。私は5年間程度の生活防衛資金(1500万円)を確保した人が投資をする権利があると考えておりますから、手元資金に余裕の無い人が小額投資を行うことには反対の立場ですが、とりあえずNISAというものは年間100万円を年頭においた長期投資で売却益や配当金をできるだけ大きくするようなものといえるでしょう。
 配当面から考察すれば、利回りが高い銘柄やJ-REITなどに投資することもあり得ますし、売却益の面から考えれば高成長で今後株価の大きな上昇が期待できる銘柄に投資する方法も考えられますが、将来を想像する投資には無理があります。企業の業績予測などできないからです。甘い考えで望んでは痛い目をみることでしょう。そして小口の投資家を多く募ることの本当の意味を考えれば(裏を読めば)、そう簡単に利益をあげられるものではないと考えてもおります。

 まずNISAのデメリットについてですが、売却損は捨てられますから、売却益や配当金、そして分配金は非課税となる一方で売却損は勘案されません。また、NISA口座以外の一般口座や特定口座で生じた売却益や配当金等とNISA口座の売却損を損益通算することも不可能です。NISAはそもそも一般口座や特定口座と併用して行う取引とは言えないのです。投資では含み損を抱えた際にどう行動するかで成果が大きく変わるものです。通常投資同様株価の下落が続いて塩漬け株になる危険性があります。損切りを回避行うには計画的かつ性格にファンダメンタルズ分析ができる個人投資家でなければならないでしょう。ちなみに、そんな人は私の周囲にはおりません。

 NISAにはまた別のデメリットがあります。売却しても非課税枠は復活しないということです。ある年にNISA口座に預けた100万円分の株式を同年度中に全て売却しても100万円分の非課税枠が再度利用できないのです。つまり非課税枠の使用は1回だけということです。結局NISA口座で保有する株式は売却すればその分の非課税枠は再活用できませんから、売却の機会は一度になるのです。トレンドが下降転換し損切りで終わった場合は、売却損は切り捨てられ、さらに非課税枠も使用済みにななります。そうしたことを考えれば通常の口座で売買した方がよかったということになるでしょう。

 また、税制面の優遇措置があることを理由に自分の投資ロジックを変えること自体私には理解できないのです。結局売却損は捨て一度売却したらその分の非課税枠が消滅するという内容から、NISAは長期保有を前提とした制度と理解できるでしょう。私は相場が大きく崩れた時のリバウンドを狙う投資手法を採っておりますし、小額投資を行っておりませんからNISAにはまったく興味も無く口座の開設も行いません。皆様もNISA口座を開設する前に多くのメリット、デメリットを考えて投資に望むべきでしょう。NISAを全否定はしませんが、安易に投資に走り、自分の生活リズムを崩すことの無いように願ってやみません。

 最後に、これまで2年間コラムを書き続けました。これからも更新することがあるでしょう。投資とはかけ離れた内容も多々あり、不快な思いをされた方も多くいらっしゃることと思います。ただ、私が言いたいのは自分の意見が正しいということではありません。そして自分の意見だけを通してはいけないということです。コラムですから自分の考えを書かなくては意味がありませんのでそうしましたが、書いていて不自然であったり、自分自身納得のいかないこともありました。だからこそ自らの主張とは間逆の人間の考えを聞き、その矛盾点を考え、またそこに含まれる正しさを自分の中に取り込み、バランスのとれた思考を形成することが投資で勝つ為の必要最低条件に思っております。そもそも脳は怠け者なのです。自分の楽な方に考えや記憶を形成する傾向があるからです。

<サイト管理人> 2013年 8月3日記述



 【何をもって景気回復とするかをマクロ的に考える】第326回

 参議院議員選挙時の党首討論において、民主党の海江田代表は「物価が上がっている、小麦粉も食用油もガソリン価格も上がり、国民の生活が困窮している」と発言しました。それに対し理解の乏しい首相は強気の発言で「GDPは上がっている、雇用も改善してきている」と一蹴しました。結局そこから先、海江田は話題をすりかえ、景気回復についての議論はありませんでした。両者とも全く無能としか言いようがありません。そもそも参議院議員選挙の争点は何だったのでしょう。TPPの問題も原発の問題もありましたが、「景気」=「株価」=「物価」的な頓珍漢な論争になってしまいました。一体何をもって景気回復の指標とするべきでしょう。GDPでしょうか、経済成長率でしょうか、企業業績でしょうか、マネーサプライの増加でしょうか、雇用が改善することでしょうか。

 今までの日本では一般的に景気が良くなると企業業績が改善し雇用も連動して増加するものでした。しかし、現在は残念なことにそれが成り立たなくなっています。リーマンショック以降の欧米の状況、特にアメリカを見れば解かることですが、成長率は比較的すぐに戻り、企業業績もすぐに史上最高値を記録しました。ただ、今も失業率は7%程度のまま高止まりしています。つまり、経済の成長が雇用の増加に繋がらないことを証明しているのです。昔とは違いグローバル化した昨今はこのことが特に顕著になっているといえるでしょう。なぜそのようになってしまったのでしょう。欧米の例を考えると簡単ですが、大きな要因は企業のグローバル化とIT化と言えます。
 グローバル化とは工場を新興国に作り、先進国の人間を使うよりも賃金の安い現地の労働力を使って大規模なラインにて生産するという従来からの方法で、現在は中国からベトナム、タイ、ミャンマーなどへシフトしております。南米も中東もその対象になっています。
 それに対し、IT化とは矢継ぎ早にシステム武装された機械をオフィスや工場に導入するというものです。先進国内では人間を使うよりもロボットを使う完全自動化のラインを積極的に導入しています。日本でも全自動ラインは昔からありますが、先進国を考えた場合、国内生産分における企業業績は人間を使うよりも自動化をはかる方が伸びることが証明されております。アメリカが製造業の国内回帰を進めておりますが、それは雇用を増加するものではなく、全自動化のラインを設置することを意味しています。先進国であるが故にIT化されたロボットを使えるからこその国内回帰であり、労働者の賃金水準が下がったからの回帰ではないのです。よく中国の賃金水準の高騰がアメリカの国内製造業の回帰を語る人がおります。確かに中国の賃金はこの10年で3倍程度になりましたが、それが一番の原因ではなく、デジタル化かつ効率化された製造ラインの実現が主要因でしょう。

 現状、日本においては単なる雰囲気から経済成長率の下落幅が減少したことは認めますが、本筋では大中小企業も含めた労働者の賃金が上がり、雇用が増えることが景気回復の一歩でしょう。良い意味でも悪い意味でも終身雇用制が残った日本ではデフレペースを限りなくゼロにし、成長率を高めることが肝心なのです。しかし、超先進国の日本では不可能なことでもあります。
 そもそもアベノリスクには三本目の矢である成長戦略には意味がありませんし、目の前の雇用はマイナスをゼロに戻しつつあるだけであり、そこから先の話はいっこうに見えてきません。本日までに第一四半期の企業決算がおおよそ出揃いましたが、円安デメリット企業がいかに多くあるか、そしてそれらがどれだけ多くの割合を占めているかが解かったことと思います。一部の極端な輸出系企業だけを見て景気回復基調にあるというのはあまりにも安易な報道かつ発想であり、リフレ派を自称する安倍の求める本来の景気の回復とは雇用の増加と賃金の上昇、そして貨幣の回転にあるのです。
 私自身の考えは賃金は現状維持もしくは若干の減少が好ましいと思っております。それは円高による強い「円」を持つことで生活水準は今よりも十分に高いものとなると想定しているからです。1ドルが80円を割るような状況こそが豊かな生活をもたらすでしょう。GDPに対する輸出系企業の割合は18%程度ですから、それらの企業を中心に置くのではなく、内需系企業を中心に物事を考えるべきはないでしょうか。目先の株価で景気を判断するのではなく、世界経済全体、特にグローバル化やIT化について考えることや、本当の意味での景気回復の判断材料は何であるかを真摯に考えるべき時期であると思います。

<サイト管理人> 2013年 8月10日記述



 【先の大戦に負けた今日、日露戦争を少し考える】第327回

 先の大戦で敗れた今日、その前哨戦であり、日本が帝国主義を歩む元となった日露戦争について考えてみたいと思います。まず、「日露戦争」は「日清戦争」と字は似ていますがその内容はかなり違うものです。日清戦争は「朝鮮を独立させなければならないから清と戦争する」といった内容でしたが、「日露戦争」は日本がなくなってしまうという悲壮感をもって始めた戦争でした。ロシアはモスクワからウラジオストックまでシベリア鉄道を敷き、まずウラジオストックを「東方の侵略拠点」としました。そこから満州鉄道利権を獲得し、旅順に軍港を作りました。旅順というのはロシアと中国の国境線からずっと中国の内部に入った地域です。さらにロシアは朝鮮のソウルまでの鉄道利権を求め、日本の隣ともいえる釜山の横の鎮海湾に軍港を作ると宣言しました。当時のロシアの皇帝はニコライ二世でしたが、ロシア帝国は強国でしたから中国は刃向かわずに満州を自由にさせている状態でした。そうした背景を踏まえると、東洋の小国たる日本や朝鮮がロシアに抵抗するとは思っていなかったようです。「日本との戦争にはならない。こちらが戦争をしたくないのだから戦争にはならない」とニコライ二世は言っていたことからも明らかでしょう。

 ロシアはウラジオストックを「東方の拠点」として、そこから満州、旅順、朝鮮、釜山をまず攻略し、さらに佐世保、台湾へと進出する計画を持っていたようです。これは不凍港を持たないロシアの悲願でもあり、もしそれが実現していたら、ロマノフ家は暫く先も安泰だったことでしょう。結局、清と朝鮮は抵抗しませんでしたが、日本が意外なことにロシアに宣戦布告しました。世界中が驚愕するものでした。

 このように日露戦争は日本にとっては広義において自衛戦争でしたが、それでも大国と大国の戦いが中間の小国の地で行われるという当時の例にならって、戦場は満州になりました。当時はまだ朝鮮が日本領ではありませんでしたが、実質的に軍隊も存在しない状況でしたから、日本軍は朝鮮に上陸し、実質的なロシアとの国境である朝鮮半島を越えて満州で相対することになったのです。そして、日露戦争は戦略的な要点が決まっていました。以下の3点です。

1) ロシア極東艦隊を旅順港に閉じ込められるか
2) ロシア陸軍が守る203高地を攻め落とせるか
3) 日本の戦争費用は足りるのか

まず、日本軍は旅順港封鎖に決死隊を出し、203高地では乃木希典大将を指揮官にして、突撃につぐ突撃で攻撃しました。乃木将軍は「利口ではない」とよく言われますが、本質は理解していたのだと思います。つまり、自軍の損害を少しでも減らして敵に勝つのが普通ですが、それ以上に、当時の日本にとっては1万人の「余計な犠牲」を払っても、とにかく203高地を落とす方が大切だったのです。なお、私の曽祖父は日露戦争に将校として従軍しております。元々3給金取りの下級武士の家系であり、明治維新後は軍人一家となっていたからです。曽祖父は怪我なく戦地から帰ってまいりましたが、当時の突撃形態の戦争の悲惨さを後世に続く子孫に言葉として残してくれました。それ以降私達の家系は士農工商でいう工(エンジニア)において生計を立てることとなりました。

 歴史の評価とは難しいものです。203高地の戦いが終わった後では「もっと良い方法があったのではないか」ということになりますが、戦っている際には「最終的に日本がロシアの要塞を落とせるか」がわからないのです。もし失敗したら全体の戦争に負けて日本が植民地になるかもしれないという不安のもとで戦っていたのです。結果的に日本軍が世界最強と言われるロシア陸軍を奉天会戦で破り、東郷平八郎連合艦隊司令長官が日本海海戦で大勝利を収め、ロシアは戦争を諦めたのです。日露戦争からは今なお多くのことを考えさせられます。

<サイト管理人> 2013年 8月15日記述



 【現実を正面から捉えることこそ結果に繋げられる】第328回

 私はいつも今現在というものが正解だと思っています。つまり自分の置かれた状況や地合いが悪いであるとか、環境がおかしいと言ったところで何も始まらないからです。これらは単なる結果論に過ぎません。どこまでも現実は事実でしょう。そして、大切なことは現状を受け入れ先を分析してみることです。そこには必ず何故そうなったかという原因があるからであり、現状を認識して把握したら後は行動(売り買いの処理)をすればよいのです。その行動を起こせない人間を私の基準では現実(投資)の敗者と定義しています。株価の検証は事後のものである一方、未来の行動を決定する必要十分な材料になるのです。こういう言い方をすると経験則で考えるべきとも捉えられがちですが、私はそういう観点からものは申しておりません。

 なお、現実の評価を軽んじては何も進歩がありません。現実から逃げてはいけないのです。確かに今置かれている状況や、これから起こりうる事態において納得いかないこともあるでしょう。こんなはずではない...であるとか、真剣に取り組めば大丈夫...という逃げの気持ちにもなるかもしれません。そういう方は現実の状況(株価に対する含み益や含み損)はすべて自分の行動が作り出したものということを忘れていると思われす。他の誰でもない自分が起こした結果なのです。繰り返しですが、起きていることの原因はすべて自分自身にあります。因果関係は明らかなのです。逃げずに現状分析をすること、そして問題点を解決するための対策を考え、それを実行していくことが肝要です。自分のやるべきことが見えてくれば、愚痴など言っている暇はないことに気づかされるのではないでしょうか。

 ちなみに、何でもただ黙って受け容れ、状況に従いひたすら耐えればよいという思想は現実主義ではありません。現実主義の前提は対象をあるがままに認識することを意味しているからです。我々の観念というものは意識が生み出しています。しかし、その意識は認識の作用によって形成されるものとなります。そして認識は対象を相対化することによって成立しているのでしょう。ですから、現実というのは相対的なものにすぎないのです。これらを認識した上で、その現実をどう解釈し、また、どう対処するかは別問題になってくるとも言えます。認識はどこまでも相対的なのです。決して絶対的なものではなりえないのです。そしてまた認識というものは情報に限界があるように範囲が限られているものです。よって、個人においては必然的に不完全なものといえるでしょう。しかも、現実をどう解釈するかは主観的な問題です。つまり、現実そのものが不完全なのではなく、認識が不完全なのです。これは株式投資における哲学の基本となるでしょう。何を現実とするかは、一人ひとりの認識の仕方によって違ってきます。しかし、投資においては現実は一つに絞らなくてはならないのです。そしてその判断を誤れば敗者になるのです。

<サイト管理人> 2013年 8月18日記述



 【省エネ商品に群がる安易で愚かな人々について】第329回

 省エネ商品と呼ばれる一群の商品があります。この商品を買う目的はふたつあります。まず、第一に環境のために少しくらい損をしても良いと考える場合。そして第二には、電気代やガソリン代が安くなるのならその方が得と思う場合です。今回のテーマは省エネ商品を考え、多くの人々は何を錯覚しているのかを提起したいと思います。あくまで蓄財の観点からであることをご承知ください。

 とりあえず具体的な例からスタートします。まずは省エネテレビを買い変える時の計算です。6年間使った古いテレビの消費電力が120ワットで、新しい省エネテレビは電気代金をを2割節約できるとします。買うときの値段は仮に10万円としましょう。そして、省エネテレビを1日3時間ほどつけて6年間使ったとします。日本はテレビの平均使用年数が6年ですので、それを基準にしています。そうすると、その6年間で節約できるお金(電気代)は3000円程度です。一方でテレビの平均耐用年数は12年程度ですので、古いテレビを我慢して地デジチューナーを取り付けそのまま12年使ったとすると、新しく買うための10万円が必要なくなりますので、省エネテレビを買うより、古いテレビを使った方が9万7千円も節約できます。当たり前のことかも知れませんが、いくら省エネといっても、新しく買うほうがずいぶんお金を使うことが判ります。最近は液晶テレビも価格破壊が進み、9万円の節約はできないでしょうが、それでも5万円程度の節約は可能になるでしょう。なお、家電リサイクル法が施行されているので、テレビを捨てるときには追加料金として6千円程度かかります。結局できるだけ古いテレビを使う方が倹約の面でも環境の面でも良いことになります。
 それでも省エネテレビは電気という貴重なエネルギーを節約できるので、環境のためには10万円を損しても省エネテレビに買い換えた方が良いと思う人もおられるでしょう。この問題は省エネ自動車の話のあと、まとめて整理をします。

 今使っている家の自動車の燃費がリットルあたり15㎞とします。最近、市街地の実走行で1リットルあたり20㎞も走ることができる画期的な省エネ自動車が開発されております。この場合も、テレビと同様に6年間使い、購入価額は200万円で走行距離は六年間で10万キロメートルとしてみましょう。燃費の良い自動車を使うことによって6年間に倹約できるガソリン代は約20万円程度になります。さすがに自動車だけあって倹約できるお金は相当なものです。それでも今使っている自動車をそのまま12年間使うことに比較すると183万円の損になります(※過走行に伴う消耗品の交換費用は考慮おりませんが50万円はかからないでしょう)。つまり、燃費がずいぶん良くなった自動車を買っても購入した際のお金を取り返すには、30年ほど使わなければならないことが判ります。省エネテレビと同じですが、まずお金という点では今使っているものをできるだけ長く使うということが1番の倹約になること、第2に省エネで倹約したお金が買うものの代金を補うまでには何十年も必要ということが判ります。

 古いものを使うのが1番良いのは当たり前だと誰でも思うことでしょう。しかし、省エネテレビの電気代が2割倹約できたり、ガソリン1リットルあたり5キロメートルも余計に走れれば、かなり倹約できるので、購入する代金くらいはすぐ取り戻せると錯覚している人もおられるのではないでしょうか。残念ながらその程度では節約にはならないのです。この点をすっきりさせるために、さらに、極端な場合を計算します。もし電気のいらないテレビを10万円で買った場合は、37年間使えば元が取れることになります。ガソリンがなくても走る自動車ができたとしても、元がとれるまで20年かかります。このように省エネ商品を買った代金を省エネで倹約した分のお金で元をとることができない理由は、現代の高度な工業社会に求めることができます。この原理はリサイクルがかえって環境を汚す原理と同じなのです。

 高度化された社会での生産では作るときの労力がきわめて大きいのが特徴です。例えば、鉄やプラスチックなどの原料はおおよそ、1キログラムあたり数十円です。それに対して自動車、テレビ、パソコン、そして携帯電話など、わたしたちが日常的に使う工業製品を、重さあたりの値段に直しますと、おおよそ1キログラムあたり1万円から10万円の範囲に入ります。つまり、高度な工業製品とはそのものの持つ材料の価値の1000倍程度も高いのです。それに対して、その商品を動かすガソリンや電気は、比べられないほど少ないといえます。それは、ガスコンロのように加工度が低い商品の場合と大きく違ってきます。ガスコンロなどは購入するときの価格が安く、それに対して毎月かなりの量のガスを使いますが、現代の日本のように高度に工業化した社会では、このような商品は少ないといえるでしょう。

 商品は販売量をいかにして増やすかを目的として作られています。当然といえば当然で、メーカーも販売店も少しでも多く売るために日夜努力しているのですから、売るために有利な計算や考え方を採用するのは当たり前です。特に、ここでテレビのことを特に詳しく取り上げたので、テレビメーカーや家電の販売店には申し訳ないと思っております。お詫びしたり、いいわけをするわけではありませんが、日本の家電メーカーは世界でも環境問題に関心が深く、環境を良くしようと考えて商品開発をしていることは同時に事実です。しかし一方では会社は売らなければならないという使命があり、消費者のためにと言えるのは、会社が生き延びることが大前提となります。また、家電メーカー同士の競争もそれに拍車をかけることになります。日本に家電メーカーがひとつしかなく、国民が全部そのメーカーから買うなら、その家電メーカーはできるだけ買い換えない方が環境に良いですよと言うと思いますが、多くの会社が必死に競争しているのですから、そうは行かないのです。

 良心的な会社の従業員で環境を本当に大切に考えている人は「省エネテレビという商品を販売しますが、どうしてもテレビを買い換えなければならないときだけにしてください。少し電気代がかかっても今のテレビを愛用した方が環境には良いですよ」と心の中では叫んでいると思います。私達消費者は何が徳で何が損かをしっかりと考えなくてはエコの罠にはまってしまうことでしょう。株式投資は買い物といった消費活動と同様ですが、トレンドといった空気に流されない平衡感覚を養うことが私達には求められています。

<サイト管理人> 2013年 8月20日記述



 【小手先のインフレーションを求めることの危険性】第330回

 インフレーションが景気の正しい活動によって発生するならば、生産を通したナチュラルな経済現象の結果といえます。しかし、現在の政策はインフレーションを何としても起こして、無理にでも個人の消費活動を促し景気を回復させようという本末転倒のものが多いように思います。そもそも生産の活発な動きが無いままインフレーションになっても、景気が回復するとは断定できないでしょう。実質金利をマイナスにしようというのでしょうか?

 リフレ派が必ず口にするインフレーションになれば景気が回復するという論拠ですが、一般企業や銀行、政府や個人が抱える債務をインフレーションによる名目の担保価値の上昇によって軽減し、これまで好転せずにいた消費や生産などの経済活動を活発化させようという点にあります。よって、インフレーションになれば債務の返済に苦しむ企業は資産価値の上昇を通じて借入れや返済の能力を向上させることができるというのです。銀行にとってはインフレーションによる貸出し先企業の資産価値の上昇から不良債権が減少し貸出余力が生まれ、結果、企業の設備投資にも波及し、生産活動が一段と活発になり、景気が拡大することになるのでしょう。
 これは政府にとっても、インフレーションにより税収が名目的に増加し、赤字国債の発行が抑えられ、歳入増によりこれまでに発行された大量の国債や地方債等の償還が楽になる可能性があります。個人もインフレーションの発生により家のローンと所得の伸び悩みによる苦しみから解放され消費余力が出る可能性もあります。結局、無能なリフレ派の唱える金融主導によるインフレーションによる景気回復の根拠はこうした流れを元にしているのです。

 こうしてみるとインフレーションは良いものにも感じられますが、その裏の弊害を大半の人が見過ごしていると思われます。インフレーションを起こすことは債務を抱える現在の企業や個人、そして不良債権に苦しむ多くの銀行、大量の公的債務に悩む政府、どれも自分のリスクテイクで失敗した当事者を、責任を追及しないまま助ける結果になる一方で、デフレ期に景気の悪化と物価の下落からのリスク回避を図った堅実な成功者に多大な損失を与えることになります。これは資本主義経済においてはあまりにも無責任な行為といえるでしょう。
 また、貨幣の供給を増やして、インフレーションを引き起こすことは、円という通貨価値自体を低下させ、日本の資産を国際的に減価させることに繋がります。結局、日本の立場を後退させるのです。大半の国民には届かないことかもしれませんが、これまで国民が蓄積してきた資産をインフレーションにより目減りさせ、最後は国民が受け取る所得を実質的に減少させることになるでしょう。

 さらに、インフレーションを引き起こしたからといって、景気が回復するかどうかも明確ではありません。これまでの資産デフレーションは世界的に資本主義が広がった結果、モノやサービスの価格がグローバリゼーション化していく過程で日本の高コスト体質の修正を求められた故に発生しています。したがって、インフレーションを人為的に起こしてもモノやサービスの価格が世界的水準になるまでは簡単に上昇しないように思えるのです。この点については鉄鋼製品の価格を観れば解かりやすいと思います。また、 高コスト体質となっている規制を撤廃・緩和しないままインフレーションだけで景気低迷からの脱却を求めても本質的な解決をなされずにこれまで以上に先送りされ、将来さらに深刻化することに繋がる恐れがあります。
 ちなみに、高コストの大きな理由となっている従業員の給与にインフレーションが起きても、企業は簡単にインフレ率にあわせてまで上昇させることはしないでしょう。むしろ、このケースでは世界的競争力確保のために従業員の給与を増やさず、実際には削減を図るのではないかと考えています。結局、インフレーションは経済的強者に有利に作用し、国民の多くを占める経済的弱者には不利になるのです。

 今回の政策である金融主導でインフレーションを起こして景気回復を成し遂げるという考えは、債務や不良債権に苦しむ中の一部の企業や銀行、そして国や地方自治体を助けるためのものであって、決して国民を念頭に置いたものではないと考えております。本来的には経済活動を通じて景気が回復した結果としてインフレーションになることが自然であり、政府や日本銀行は後付けの政策を通じて経済を制御する意味が出てくるはずです。

 人為的にインフレーションを起こすという危険な手法で資産デフレーションという構造的な問題を先送りして誤魔化すことは、政府や日本銀行、ひいては日本国の信頼を失わせることになり、責任のなさと規律の喪失が今後の経済活動を危機的な状況に追い込むことになるのではないかと思います。政府や日本銀行は他にやることがいくらでもあるはずです。その意味で安易なインフレーション待望論の浸透は日本教に染まった右向け右の日本人に対しては危険性を感じてやみません。

<サイト管理人> 2013年 9月10日記述



 【日銀の金融緩和政策には効果が無かったことの証明】第331回

 世の中は東京オリンピックの開催などに浮かれておりますが、オリンピックの為に利益を享受する面ばかりを見て、マーケットの杯を考えない人があまりにも多いことに驚いております。この問題は近いうちに記述できればと思いますが、株式市場が下落傾向を辿れば解説してくれる人が多くなると感じています。
 今私達が最も注意すべきことは、マネーストックの残が伸びない裏で、マネタリーベース残が日銀による国債買い上げの結果あっという間に増加した現実でしょう。5月以降の対前年同月比は連続して30%台後半という高い値になっております。このことは市販のマネー誌を読めばわかります。5月時点の季節調整済み前月比の年率は140%近くになっています。結局、マネーストック残の伸びは、マネタリーベース残増加率の100分の1程度と考えられるでしょう(※用語が解からない方はサイト内の株式投資用語集をご参照ください)。
 そもそも金融緩和政策は意図的にマネタリーベースを増加させることからマネーストックをそれ以上に増加させることでした。そしてそれが需要と供給を緩和し、実質金利が低下することから経済活動に良い効果が及ぶことを期待していたのです。しかし、現状のようにマネーストックが増えない中では金利押し下げ効果がないでしょう。もう少し踏み込めば、昨今の状態では、金融政策が為替レートに影響を与えることはないのかもしれません。教科書通りの理由を挙げれば、為替レートに対する影響は内外における金利差の変化を通じて働くからです。新聞やテレビなどにおいては「日本銀行が4月に導入した異次元金融緩和政策から円安が進行し・・・」という解説が当たり前になっていますし、私自身も当初はそう感じている部分もありましたが、このようなことは現実に発生していなかったのです。結果として円安傾向にあるのは欧州からの資金流入が頭打ちになったことや、海外投資家による円安投機が行われているからでしょう。これをアベノミクスの成果と言うのは無責任な解説です。
 ここで問題になってくるのは、異次元とも言われる緩和政策は効果が得られないばかりでなく、銀行のポートフォリオ(資金運用配分)が不安定な形状となり収益性が低下することです。前述の通り、マネーストックの前月に対する増加額はマネタリーベースの増加額より少ない状況ですから、金融機関の立場からすれば、国債が減って当座預金が増える反面、貸出増が国債減をカバーできないことになります。端的に言えば、収益が減るのです。この半年間のような状況がこれからも続けば、国債という収益の為の資産が減り、当座預金という非収益性資産ばかりが増えます。これは個人投資家の問題に置き換えても不健全なポートフォリオと理解できると思います。金融機関も無能ではありませんから、ある段階で日本銀行による国債の購入に呼応しなくなる可能性があります。そうなれば、マネタリーベースの増加さえ不可能となり、打つ手がなくなるのです。
 8月の月例経済報告は「デフレ状況ではなくなりつつある」でしたが、事実は円安の進行から燃料関連費用が増加し、結果として消費者物価指数の上昇率が高まっているだけです。そこで心配されるのが電気料金の値上げです。現行では燃料費が増加すると電気料金に転嫁される制度になっているからです。電気は全ての経済活動で用いられるので、その価格上昇は生活と産業活動を圧迫します。産業活動の中では製造業が電気を比較的大量に使用するため、大きな影響を受けることとなります。電力会社の体質改善も求められるところですが、早急の対処は難しいでしょう。
 そしてもうひとつ気になることは、円安にもかかわらず貿易赤字が拡大している点です。7月の貿易赤字は1兆円を超えました。現在の状況が続くと、所得収支の黒字で貿易赤字とサービス収支赤字をカバーできず、経常収支すら赤字になる可能性が出てきたのです。確かに輸出数量はこの数ヶ月増加しているものの、これは落ち込みの反動にすぎないと考えております。なぜなら7月の輸出数量指数は2012年9月レベルに戻った程度だからです。自動車の輸出が好調との報道がありますが、7月の輸出台数の対前年比を見ると車両全体で0.2%に過ぎず、乗用車はマイナス0.7%となっております。円安によってこれから輸出が増えていくという見方には安易に賛同できる状況ではありません。

 これまでは、消費税の駆け込み需要で住宅建設が増加し、1月の大型補正予算による公共事業の増加があった。しかしこうした需要は近いうちにフェードアウトします。設備投資に動きが見られるという指摘もありますが、4~6月期のGDP統計では実質設備投資の減少が続いていることが明らかになっています。結局、日本経済は、経済活動が伸びない一方で物価が上昇するというスタグフレーションに突入しつつあります。私がホームページを開設してより最も危惧していた事態が起こってしまったと言えます。さらに悪いことは、この状況を政府の経済政策でコントロールできない点にあります。

<サイト管理人> 2013年10月1日記述



 【需給ギャップの考え方はそのまま信頼できない時代】第332回

 需給ギャップが存在している限り、需要不足から大幅な物価の上昇は望めないという考え方は経済学の基本であり、エコノミストが想像する将来の物価推移の基礎となっております。つまり、需給ギャップが10兆円程度開いている現在、大規模な経済対策を行ってもハイパーインフレは起こらないという論理にも繋がります。しかし、そう簡単な問題でしょうか。考えなくてはならない問題がふたつ存在していると思うのです。

 第1としては、需給ギャップは政府が経済政策を決定するための指標として適当では無いということです。内閣府は四半期のGDPが発表される毎にGDPギャップの推計を発表しています。このデータを参照すれば、2013年1~3月期のGDPギャップは対GDP比でマイナス2.2%となり、実質GDPの523兆円に対して約11.5兆円の需要の不足が存在していることになります。では、物価の下落を抑えるために、公共事業や輸出の増加で、11.5兆円分の需要を生み出せば良いのかといいますと、それほど単純ではないことが解かると思います。
 そもそも需給ギャップ(GDPギャップ)問題を考えるには、GDP実績値と潜在GDPのふたつの推定値が必要になります。発表されている四半期ずつのGDPの実績値にはどうしてもある程度の推計の誤差が避けられません。さらに潜在GDPについても「日本経済の供給力の最大値」とする捉え方と「平均的な供給力」とする捉え方があることに加え、推計の為の方法についても、生産関数を推計する手法やGDPの実績から推量する手法、オークン法則を使って失業率から推計する方法などいくつかの手法があるのです。こうした違いがあるにも拘らず、単なる推計で得られるGDPギャップは大きな差を生じます。著しく大きな需要の不足があれば物価下落を引き起こしやすいことは確かでしょうが、内閣府が推計しているGDPギャップがゼロという水準が需給曲線の均衡点に相当するという訳ではないのです。

 第2としては、インフレが起こる原因はGDPギャップで供給力の不足が発生することだけではないということです。需給曲線を元にした説明では需要が供給を上回って物価の上昇がおこるというメカニズムは確かですが、1970年代ころから先進国は不況の中でインフレが起こる問題に悩まされております。高失業率とインフレが同時に進行するスタグフレーションの発生です。1980年代前半には日本のGDPギャップはかなりのマイナスでしたが、この時期に物価上昇率がマイナスだったわけではなく、今から見ればかなり高い水準だったことからも明らかです。
 スタグフレーションは、硬直的な雇用制度などによって高失業率下でも賃金の上昇が続き供給曲線が右方向にシフトして起こるインフレとして説明されることもあります。しかし、1980年代の欧州では失業率が10%近くで推移するなど、経済全体としては大幅な供給超過の状態にあったはずです。それでも物価上昇率が高かったのだから、GDPギャップのプラス幅が大きく広がらなければインフレの制御に心配はいらないというのは、楽観的すぎるのではないでしょうか。国民の大半はこの簡単な説明のみを鵜呑みにし、アベノリクスを過大評価しているように思います。因果関係を簡単に求めるがあまりの結果ともいえますし、おそらく政治経済に関するテレビ番組では安易な説明をしなければ視聴率を確保できないことが起因しているのかもしれません。今国民には多くの情報の中から信憑性のあるデータを取得し、そこから考えることが求められているのですが、基本的に情報を精査する能力が欠損しているのかもしれません。

 上記の問題に対する答えともいえる適切な経済政策は解かりませんが、少なくとも限りなくゼロに近いデフレ経済である日本においては無理にインフレを起こそうとすれば経済対策予算や日本銀行の金融緩和政策が画政府の負債残高を増加させ、国際的な信任を失うことでしょう。インフレやデフレを論ずる前に、行政改革を推進し、政府の債務圧縮(無駄な支出を抑えること)をもっと優先的に取り組むべきと思います。堅実な白川総裁時代における経済状況は決して悪いものではなかったのです。

<サイト管理人> 2013年10月6日記述



 【日銀とFRBの違いから米国債暴落のメリット先を考える】第333回

 日本銀行の黒田総裁が135兆円の紙幣を印刷し、また、インフレターゲット2%と定めることから、物価が2%上がると考えている人が多くおります。また、政府が消費税を3%上げる決定をしましたので、物価はほぼ3%上がると思われています。なお、消費税を3%上げることで6兆円税収増と計算されておりますが、これは買え控えがないことを前提としての計算です。首相はこの内の5兆円を景気対策にあてるとしておりますが、差し引き1兆円になりますので、政府の借金1000兆円に対して、健全な財政になるのに1000年かかるとも言えなくはありません。リフレ派の方々はプライマリーバランス+国債の利回りについて話しますが、成長を前提とした政府の運営はあまりにもリスクの大きな話です。日本だけが世界ではないのです。世界の中の一部としての日本経済として考えなくてはなりません。
 そもそも、グローバル化された現在、国民の所得が増えることが見込めない中で5%もの物価上昇を招くと仮定すると、購買量は必然的に5%減ると考えるのが自然です。政府は一体どのような計算で増税が財政と社会保障の立て直しをするのかを数値で示していません。おそらく首相は答えられないでしょう。まずは国民のお金を政府がどうにでも使える現在の構造を大きく変えなければならないのですが、日本人の気質からはできないとも思えます。

 さて、アメリカの債務上限の増額に関して議会の了解が得られず、一部の公共施設が運営できなくなっておりますが、アメリカは民主主義が機能していることから、政府が使うお金は国民の代表である議会の承認が必要という図式が成り立っています。さすがに資本主義の国であることを考えさせられます。ただ、アメリカという国は公の上に私が存在している事実はあまり知られていないようです。あまり深く触れたくない話題ですが、今回は少しだけ記述してみます。
 世界の基軸通貨であるドルを発行するFRBは、政府機関のように思われています。日本語に訳すと米国連邦準備制度理事会という名前です。過半数以上の株式を政府が保有する日本銀行とは性質が異なり、FRBの株式をアメリカ政府は保有するようなことはありません。よって、アメリカ政府とは資本的には切り離された機関になります。少々込み合いますが、連邦準備制度は株式を発行していないのに対し、連邦準備銀行は株式を発行しています。そしてアメリカ政府は連邦準備銀行の株式を一株も保有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関が出資(株式の所有)義務を負っています。なお、個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行の株式を所有できない仕組みになっております。そして、個別金融機関による出資額は金融機関の資本規模に比例し、連邦準備銀行理事を選出する際の投票権は出資規模に関わらず一票ずつであるため、大手銀行が主導権を握るといったことはできない仕組みになっています。従って連邦準備銀行の株主の意思が連邦準備制度を動かしていると唱える人の考え方は正しくないと解釈され、法規上または現実においても、連邦準備制度は大統領の指名と議会の承認による連邦準備制度理事会の主導により運営されていることになります。但し、連邦準備制度理事会が政府と法的に関係性のある機関であるのに対し、連邦準備銀行が民間企業の形式を採っているのは事実です。
 このことを簡単に理解するには、日本の紙幣には「日本銀行券」と書いてありますが、アメリカのドル紙幣には「Federal Reserve Note」と書かれていることから、連邦準備銀行の債権証書とも言えます。そして債権にも拘らず利子は一切つきません。ですので、ドル紙幣は一般の通貨と機能は同等ですが、銀行券ではなく連邦準備券になるのです。
 さて、このドル紙幣ですが、これは公的債務や私的債務の支払い手段として使えますから、国家が国債債務の履行を通じてドル紙幣の債務を保証しているという論理が成り立ちます。よって、ドル紙幣は連邦準備銀行がアメリカ政府から受け取った利子がつく巨額な国債を小額の額面表示をした債権証書に分割して流通させている不思議な性質を持っており、連邦準備制度はゴールドといった実物の担保がなくても紙幣の発行が可能なものとなっているのです。
 ここで考えるべきことは、アメリカが財政赤字を膨らませることや、デフォルト懸念から国債の利回りが上昇することで誰が利益を得るかということですが、上記の説明から考えれば答えは連邦準備銀行になるのではないでしょうか。そして完全に民間の銀行であることから、必然的に株主が利益の還元を受けます。
 具体的に説明しますと、アメリカ政府が巨額の赤字を出せば出すほど、政府は国債を大量に発行します。そして、利子のつく米国債を連邦政府から引き受け、同じ金額かつ利子のつかないドル券を発行することで連邦準備銀行は巨額な利子を利益化できるわけです。変な話ですが、連邦準備銀行はサブプライムローン債の暴落やリーマンブラザーズの破綻などの経済恐慌で大きな利益を得たこととなります。事実上政府が管理できる日本銀行の下に暮らしている日本人には理解に苦しむことかもしれません。さて、今回の債務上限問題はどういった形で収束するのでしょうか。債務上限問題が茶番劇であることを実証してくれるひとつの機会になるのかもしれません。

<サイト管理人> 2013年10月10日記述



 【政府の負債と国民の債権から少々考える】第334回

 現在の日本の赤字は1010兆円程度であり、国民ひとりに換算すると800万円の借金になるという放送がありました。この番組は政府の増税に応援する意図が込められているのでしょうが、私自身増税には賛成の立場をとっています。決して有能ではない資産のある国民がお金を回さない以上、強制的にでもそれを行う必要性があるからです。問題はお金の提供先(インフラ整備も含めた運用先)の選定であるように感じています。よって構造的な改革がこれまで以上に強く求められると思いますし、国民の意識レベルも変革の時をむかえていると思います。

 さて、日本国が保有する対外資産、つまり外国に対して有する債権は300兆円程度で、これは政府も発表しております。ただ、「対外純資産」であるとか「赤字国債」という説明は多くの方には理解しにくいようで、結果としてテレビを中心としたマスメディアは政府サイドの番組を作りがちです。ましてや衆参で安定多数を占める与党政権が存在する以上、総務省管轄下の彼らが反政府的な内容の放送を行うことは難しいのが現実でしょう。肝心なことは借金を背負っているのは「日本国」ではなく「日本政府」であり、先述の通り国債を中心に1010兆円の借金が存在していることです。ただし、政府の保有する資産(売却できないものを含む)などを差し引いておりませんので、一応、この額面が政府の借金ということになっています。再三になりますが、これは「政府の借金」であり、「国の借金」ではないことを多くの方は理解しておく必要があります。よって、銀行に預金をしている日本国民は借金を背負う立場ではなく、債権を保有する(お金を貸している)立場にあります。銀行は安定運用資産として皆様からの預金を用いて国債を購入しているからです。なお、外国には国民ひとりあたり約200万円貸付けています。「貸しているお金」がいつ「借金」になったのかは不明ですが、国債の発行残高が500兆円を超えた辺りからそうした説明が流行りになっているように思えます。国営放送のアナウンサーが、国民ひとりあたりの借金は800万円であるなどと言ってしまうのですから、ある意味で理解を誤る国民には責任がないのかもしれません。

 マスコミでは、国債や借入金、政府短期証券の金額を合計し負債総額ばかりを言いますが、忘れてはならないのは、日本は「政府の保有する資産」が、諸外国と比べて桁違いに巨額であることです。まず地方について述べるなら、地方債は200兆円程度ありますが、地方の資産もおよそ200兆円存在していることから、全体でみればこれは除外して考えても問題の無いレベルです。次に国について見ると、国には特殊法人のものも含めて総計で600兆円ほどの資産があるようです。そのうち、150兆円ほどは容易には売れない実物資産だといわれますが、少なくとも残りの200兆円程度は売却可能なものと理解されます(2010年度の国のバランスシートを見ると、有価証券・現預金は100兆円程度、特殊法人等への貸付金・出資が350兆円程度ですから、これは特殊法人の廃止などである程度捻出することが可能です)。

 政府の借金1010兆円程度をどうしても国民の借金とするためには、政府が借りた金を返さず、利払いや償還を行わないことが大前提となります。一般的にはデフォルト状態を差します。この時点で円建ての金融資産に価値がつかない状態になりますので、何が債権で、どれが債務か区別がつかないでしょう。日本発の金融パニックです。そうなることは現状では考えにくいのですが、この20年というもの、その方向に進んでいることは事実と思っています。箇条書きになりますが、これまでの悪い流れを示してみます。

・政府が国民に節約(節電やエコ)を呼び掛ける、
・国民がそれに応じて消費(誤りの節約)をする、
・節約の名の下に多くの国民は銀行に預金をする、
・銀行は民間への貸出しを確保できない、
・銀行は政府の国債を購入して運用する、
・キャッシュを手にした政府は天下り先に配る、
・銀行は償還期限の来た国債を政府に買戻してもらう、
・政府は予算を使い切るので、赤字国債を発行し続ける、
・消費税を5%から10%にして長期的に一定の予算を確保する、
・国民は自分が貯金したお金をもう一度税金として払う、
・上記は主要報道機関ではあまり解説されない、という流れです。

 現状は日本のデフォルト懸念について案ずることはないと思いますし、日本政府の債務は国民の債務ではありません。報道機関の言葉に惑わされることなく、堅実な貯蓄かつ必要な物品の購入等、計画的な生活をされることが第一と思います。以前のコラムにも書きましたが、NISAなどの小額投資を行うレベルの貯蓄残高の人は投資などといったリスクのある金融商品に手を出す必要はありません。まずは十分な生活防衛資金を確保することが優先であり、万にひとつ日本国債の利回り急上昇する(例えば10年物の利回りが3%を超えてくる)ような事態が発生したら、その時が小額でも投資を行うべき時期なのかもしれません。あまり慌てることはないように思います。

<サイト管理人> 2013年10月23日記述



  【モノやサービスの質の向上と、そこで働く人のレベルについて】第335回

    本コラムにおいて何度も解説して参りましたが、昨今のグローバル経済のもとでは「所得が上昇し消費の拡大を招き、物価が上昇する」という論理は成り立ちません。特に、安倍政権が想定する「物価の上昇から所得の上昇、そして消費の拡大」という古い経済理論はなおさら成り立たないでしょう。長くインフレ経済下にあるアメリカやヨーロッパ諸国においても、既にリーマンショック以前からこのループが成り立っていないのです。そもそも、経済学(金融工学)においては想定の積み重ねが多く、無数の前提の上に理論が形成されています。空論とも呼べるものが経済政策や金融政策を動かしている例が多々みられるのは恐ろしいことです。物事の本質から見ると完全に間違っているにもかかわらず、権威ある学者の持論が経済政策や金融政策に反映されるような環境は改善せねばならず、今の日本がその対象といえるのかもしれません。

 まず、世界的に景気が良いと言われていた2005年~2007年の3年間を考えてみましょう。この3年間、日本の名目経済成長率は平均して1%前半しか増加しておらず、給与所得者の平均年収は増加にまでは転じませんでした。ただし、大手企業の多くが2004年から07年まで連続して史上最高益を更新してきた事実があります。ここで誰もが疑問を生ずる問題として、2005年~2007年の間に世界経済が好転していた中でどうして日本人の所得が増えなかったのかということです。これについては以前のコラムでも解説しましたが、今回は別の角度から考えてみたいと思います。
 2005年からの日本ですが、世界的にエネルギー価格が高騰していた時期に、円安が進行したことで製造原価(エネルギーや材料価格)が上昇しました。外需系企業は売上げこそ増えても、製造原価の高騰分をモノの価格に転嫁せずに、製造コストとなる人件費を削減することに重きを置いた経営を行ったのです。問題は経営方針ではありません。経営陣は社員の生活を守る立場にあり、単に賃金を小幅に上げ下げする以前に雇用を守ることが優先すべき使命であるからです。話が逸れましたが、このことはマーケットの拡大が所得の上昇をまねく、ないし、企業収益が拡大することはそこに勤める人間の所得の上昇に繋がるという関係が成り立たなくなったことを意味しています。日本単体ではなく、世界的な問題として為替やエネルギー資源の価格が覆いかぶっているのです。現在巷に溢れている、自国の通貨安から景気が好転するという考え方は間逆のもので、生活ということを一義的に考えると負の要素となってきます。

 今年になって内需系の企業を中心に経営環境の厳しさが増しているように思います。中間決算がおおよそ出てまいりましたが、モノやサービスの質よりも消費者が離れてしまうことを懸念する企業は、製造原価上昇分をそのまま価格に転嫁することはないでしょう。政府が経団連などに賃上げ要請を行っており、一部企業も呼応するような雰囲気を出しておりますが、今後の先行き不透明な経済情勢を以前にも増して意識せざるをえない首脳陣の多くは賃上げに消極的にならざるを得ないでしょう。これは経営者が無能なのではなく、企業を取り巻く環境が日本一国の問題ではなくなってしまったからなのです。事実は大抵の経営者が労働者を守る立場をとっているのです。例として、日本では対GDP比で企業利益が減少している一方で、GDPに対して所得の比率はほとんど下がっていません。これは日本だけの独特な環境で、終身雇用制度のなごりかもしれませんが、他の先進国では企業利益率と労働分配率が反比例の関係になっているケースが多いようで、アメリカの企業労働者に対する利益の分配率が低いことは有名な話です。日本の企業は株主への利益配分をそれほど重視せず、人件費を適度にしか削ってきませんでした。物価の下落と相まって生活環境はほとんど悪化していなかったとも言い換えられます。ただ、日本の企業でも従業員を消耗品のように使っている企業は、直近の利益率を優先的に求め、資本家重視のアメリカタイプの姿に成り代わっています。これでは本来十分に育つ人材も離れてしまって然りです。結果などすぐには出せませんし、投資と同様で、何時までに何パーセントの利益を上げなければならないといった明確な数字の上に進めることは出来ません。もう一度人間を育てること、ひいては社員教育に重きをおいて、モノづくりであり、サービスの提供であり、質の高い商品を提供できる環境を作り出してほしいと思います。
 卑怯な方々は企業の内部留保が悪であるなどということを言いますが、これは税金を支払った後のお金です。それ自体が悪いわけではありません。大切なことはその留保を少しでも多く人材の確保や育成に向けることではないでしょうか。単に派遣であるとか契約社員という陳腐な問題でもなく、目先の賃金を上げればよいという話でもないのです。最も大切なことを見失ってはいませんか。私にはあまりにも結果を求めすぎる人が多くなってしまったように思います。大学などの研究機関で量子学などの基礎研究を行っている方々はすぐに結果が出るわけはないのです。だからといってそれを切り捨てては優秀な人間が育つ機会を失ってしまうでしょう。目先の利益を生まないから切り捨てる、目先の利益に繋がらないから教育を怠るようでは日本に未来はないと思えます。

<サイト管理人> 2013年11月2日記述



 【金融商品取引法に関するルール(金融庁HP参照)】第336回

    今回は金融商品取引法の内容について簡単に触れてみます。高齢者の金融商品に関する被害が増大する中で、私も含めた皆様がその対象とならないために参考となれば幸いです。
 私の周囲でもFXの自動トレードソフトを買ってしまった人や、本人の意図しない金融商品を購入しているケースが多々あります。条件付の元本保証契約などには特に留意が必要です。一流銀行員が薦める金融商品には安心感を覚える人が多くおられますが、相手がどのような社会的立場であれ、消費者である私たちは約款等をしっかりと理解しなくてはならないのです。これらの解約は民法またはその延長である消費者契約法によって対処すべき問題であり、錯誤無効による契約の無効を主張するのがひとつの方法ですが、これについては機会を改めて解説したいと思います。基本的には弁護士の範疇の問題です。

「適合性原則の関係」
1.適合性の原則は、顧客の知識、経験、財産の状況、商品購入の目的に照らして不適当な勧誘をしてはならない、というルールです。顧客の状況を総合的に考慮して、それに見合った勧誘をすることを求めているものです。
2.したがって、証券会社・金融機関がなどの対応をとることは、必ずしも制度の趣旨に合いません。
 ・一律に高齢者にはリスクの高い商品を販売しない
 ・一律に高齢者には一度目の訪問では販売しない
 ・一律に高齢者には親族の同席がなければ販売しない
3.それぞれの顧客の状況に応じた、きめ細かで柔軟な販売・勧誘が行われることが、利用者、証券会社・金融機関の両方にとって望ましいことと考えられます。

「説明義務の関係」
1.証券会社・金融機関が商品を販売する場合には商品の仕組みや、リスク・手数料など、顧客の投資判断に必要な情報を説明している書面を交付するとともに、書面だけでは形式的対応で済ませるおそれがありますので、顧客の知識、経験などに照らして理解してもらうことのできる方法・程度で書面の内容を説明することが求められます。
2.投資経験が豊富な顧客に販売する場合と投資経験の少ない顧客に販売する場合とで説明内容・方法を一律とする必要はないと考えられます。
3.過去に同じ商品について説明を受けたことのある顧客がその商品の内容、リスクについて現在も十分に理解していると認められる場合には、証券会社・金融機関はその顧客に対して比較的短時間の説明で販売することも可能です。

「広告規制の関係」
1.過去には、商品のリスクなど顧客にとって不利益となり得るものを著しく小さな字で書いている広告も見られましたが、利用者の視点からは、商品の特長とリスクがバランス良く書かれていることが重要と考えられます。
2.金融商品取引法では、広告の中でリスクや手数料について、明瞭、正確に書くことを求める。
3.リスク情報(元本欠損や元本超過損が生ずるおそれ等)を広告中の最も大きな文字と著しく異ならない大きさで表示しなければならない。利益の見込み等について著しく事実に相違したり、人を誤認させたりするような表示をしてはならないこととされています。
4.なお、広告の中のリスク情報に係るポイント数は、指定されていません。一方、契約締結前交付書面には、リスク情報を12ポイント以上の大きさの文字・数字で枠の中に明瞭かつ正確に記載すること、それ以外の情報は8ポイント以上の大きさの文字・数字で明瞭かつ正確に記載することが義務付けられています。
5.広告における文字の大きさに係る規制は、特長とリスクをバランス良く表示する、という点に主眼があり、「最も大きな文字の何割以上で表示すべき」といった形式的な判断よりも、利用者の視点に立った、利用者にとって見やすいものになっていることが重要です。
6.例えば、枠を用いたり、装飾を施したりするなど、見やすさの観点から工夫をすることが大切です。

 今回は金融庁のデータを参考にまとめましたが、機会があれば消費者契約法の観点から投資における留意点をまとめられたらと思います。

<サイト管理人> 2013年11月19日記述



 【個人投資家はアベノミクスの崩壊に備えることが肝要】第337回

   政府は月例経済報告で景気の総合判断を上方修正しております。これはアベノミクスが成功したとして捉える向きがありますが、果たしてそうでしょうか?欧州やアメリカのタイムズといったの著名雑誌が「アベノミクス」を特集しており、原文を読みましたが、性急なアベノミクスに富国強兵の影を見るエコノミスト誌は、アベに対して先進国の国々を煩わすなと苦言を呈しております。
 現状、日本経済における設備投資はまだ弱く、前年同月比で比較しても最悪の状態から回帰しつつある段階ですから、とてもレベルの低い段階での指標となります。ニュースには個人の感覚を麻痺させる裏があるのです。昨今のアベノミクスの成功?は「株高」や「円安」に集中している傾向がありますが、市場を誘導しようとする政府高官の発言に市場が付き合って儲けを追求しているという姿に過ぎません。
 ここにきて、長期金利の下落が目立ってきましたが、これは多くの国民にとって良いことで、利回りが少ないということイコール貨幣価値の向上につながり、預金が強い状態を示しております。問題は円安です。自国通貨安を求めることは国力の低下を意味しておりますが、この円安については少々制御が効かなくなっている感があります。円安誘導の手段は知っているものの、手段の収束方法は身に付いておりません。そんな支離滅裂なところが露呈している昨今です。
 私が思うには、短期間の金融商品を中心とした資産バブルは起こるものの一般物価デフレは終わらず、国民生活は一過性の円安状態から生活必需品の高騰が起こり、生活水準が低下するものと考えております。また、最悪の場合アベノミクスによっていくつかの悲劇が起こる可能性があると考えていますが、現在生じ始めているスタグフレーションです。メディアでは「この金融緩和をきっかけに、設備投資や消費拡大が起これば、日本経済は本当の意味で復活する」といった報道がなされていますが、これは完全な間違いでしょう。安倍+日銀が目標とするのは、資産バブルによるデフレ抑制です。つまり、彼らは企業が設備投資を拡大したり、私たち庶民の消費が拡大したりすることを、そもそも狙っていないのではないと思えます。金融緩和の結果、株や一部不動産などの資産であるカネの世界にだけバブルに沸き、私たち庶民の毎日の生活に関係するモノの世界ではデフレが続くという、本来ならば起こりえないはずのことが、日本経済で起こってしまうのです。実際にはもう既に起こっているでしょう。これはグローバル化された状況を考えれば明らかです。
 結局のところ、この政策で恩恵を受ける個人は、差し当たり株や不動産を持っている人つまり、ごくごく一部の富裕層だけということになります。さらに怖いのは、富裕層ではない人々(5年程度の生活防衛資金を確保できない人)も、投機性の強い株や不動産に手を出しかねないということです。低金利の中で将来に備えて、アベノミクス相場に乗ってみては...。そのような安易な発想で投機へと普通の市民たちが誘導されてしまうのが恐ろしく思えます。こうした流れが形成されたところで、現在の悪性バブルが崩壊した時は個人ならずとも国家的にも最悪の状況を迎えるでしょう。結局痛い目をみるのが安倍政権だけならいいのですが、そうはなりません。現状1ドル=100円水準にありますが、国債の利回りが安定していることが唯一の救いです。

 これまでも私は市場を追いかけることの危険性を常々訴えてきました。グローバル化、複雑化した市場をコントロールすることは、明らかに不可能です。市場をコントロールしようとすればするほど、市場に振り回され、身動きが取れなくなるのが常でしょう。製品価格やサービスの価格は日本一国では決められない状況にあるからです。
 資産バブル崩壊のカギを握るのは、このバブルで儲けようとしている多額に資金を運用する投資家たちです。彼らは当然、このバブルがいつか終わることを知っているのです。要するに彼らは売るために買う人々ですから、大きな相場を作ることでそれだけ大きな利益が上げられるのです。そしてカモは国内の個人投資家ということになります。今は売り時を考えているところではないでしょうか。「株は上がる」という掛け声に押され、投資に手を出した個人が損をするという悲劇が、なるべく小さくなることを祈るばかりです。そして、アベノミクスが崩壊したときが2007年以来個人投資家の絶好の投資タイミングになると考えております。日本国債10年物の利回りを見ても、今は投資の待ち時ではないでしょうか。私はそれを実践しております。

<サイト管理人> 2013年11月19日記述



 【科学と合意の概念は株式投資にも通ずる問題ではないのか】第338回

    科学は時としてまだ事実を明らかにできないことがあります。簡単な例えとして、地球が宇宙の中心なのか(天動説)、それとも地球が太陽の周りをまわっているのか(地動説)が真面目に議論された時代を考えれば明らかでしょう。しかし、科学はやがて事実を明らかにし、今では「地動」であることを疑う人はおりません。つまり”説”が外れれば初めて科学として確定するのです。私は原子力発電所の再稼動や新規建設には反対ではありませんが、被曝と健康という現在の科学的テーマはまだ”説”がついてまわる状況であり、科学的には何も確定しておりません。このような状態ですから、原発などのように事故が起これば被曝するようなものは熟慮期間を設け、被曝と健康について”説”がなくなるまで待ったほうが良いのでしょうが、そこには巨大なマーケットが存在しているので「事故は起こらないだろう」として見切り発車している経緯があります。

 昨今において早急に対処すべきことは、被曝の基準は作ることでしょう。そこで一部の識者は科学的には確定していないものの「このぐらいだろう」という感じを「合意」しておこうであるとか、「合意ができれば原発も運転できる」ということで、専門家が検討し、国民の合意を得てスタートしました。つまり「安全だから1年1ミリ」と決めたわけはないのです。まして1年20ミリシーベルトであるとか100ミリシーベルトまで安全などという「科学的データ」は存在しておりません。そのような中、IARAは専門的に「耐えられる限界」」ということを決め、多くの学者が納得できる数字が「一般人については、1年1ミリシーベルト以下の被曝」となったのです。もちろん、科学には達していないので異論はあります。しかし異論を言う人も法的には「合意」に従う必要があります。ですから、異論のある人はそれを「科学」まで高めれば良く、それが医師や科学者の役割なのではないでしょうか。合意もされていない自分の説を勝手に社会に言うのは、具体的な障害が出たときには責任をとる必要があるでしょう(イタリアの地震予知裁判の有罪と同じことです)。そして、この合意がなければ、原発の設計もできません。たとえば正常に運転していても原発の敷地境界では一般人が歩いたり生活をしていたりするので、そこに人がいても1年1ミリシーベルトを超えることのないように設計しなければならないといえるでしょう。
 
 福島第一原発で事故が起こった際、1年20ミリシーベルトまで仕方がないと言った人もおられましたが、この仕方がないというのは、多くの人が死ぬことを許容してのことです。日本全体ではなく福島県だけだから良いではないかという人もおられますが、交通事故でも何でも1万人死ぬというのは日本全体のことで、少ない県もあれば多い県もあるでしょうが、全体として日本全体で1万人も死ぬような産業は許さないというのがコンセンサスでしょう。

 1年1ミリシーベルトは「科学」ではなく、あくまで「合意」です。そうしなければ原発を運転できませんから、単なる合意をしたに過ぎません。だからこそ、1年1ミリシーベルトの合意を変更するときには、年間20ミリシーベルトで良いとかそういうのではなく、犠牲者が多く出る可能性があって良いのか?と言わなければならないのです。自分で原発を進めるのに「合意手続」をしておいて、事故が起こったら合意がないようにいうのは実に愚かで、日本人の誠実さが見られません。繰り返しですが、一般人が1年1ミリシーベルトと決めたのは、「日本社会の合意」であって、それは「多くの犠牲者」ということを意味しております。「科学」と「合意」の区別もできないような人は他人を危険に陥れるので発言を控えてもらいたいと私は思います。
 1年1ミリシーベルトは厳しすぎるであるとか守らなくても良いという人はその前に、社会が合意している他のこと、たとえば飲酒運転はしてもよいとか1リットル0.15ミリグラムのアルコールで酒気帯び運転とするのは厳しすぎると言ってからにしてほしいものです。本来この日本は野蛮な国ではなく、約束を守る国なのです。

 原発問題においても株式投資においても同じことが言え、確定的ではないことに関してはリスクをとらないことが一番の安全策です。いつでも投資を行う人はリスクの観点が欠如しており、閾値が定められない人のことを指します。そしてゼロサムゲームに陥ります。自分にとって都合が良いから、社会的な風潮によれば...という人は投資における利益の確保は刹那のもので、長期的には結果として大きな損失を被ることでしょう。くれぐれもご留意願います。

<サイト管理人> 2013年11月19日記述



 【運という概念に惑わされるうちは投資では勝てないこと】第339回

    大半の人が「今日は運がいい」「何やら最近運が悪い」という言葉を使います。私も以前は多用しておりましたが、現在は意識の内にはありません。話を合わせる上で使用しても、その時は本心から対話を求めていない時でしょう。運という言葉を使う人は、自分にとって良いことがあっても、悪いことがあっても、それは「運」であるとか「運気」、さらには「運の流れ」などという表現で、自らの境遇を認識する傾向があります。そして、株式投資などのトレードをする際は、各々この傾向が顕著に現れるように思います。投資は何も考えなければ丁半の賭け事(ゼロサムゲーム以下)となりますから、投資雑誌にも「ツキが回る」であるとか「流れが来る」といった表現が多く出てきます。当たっても外れても運という幸福感や恐怖感は商売になるからです。この底にあるのは、運というものが私たちの現実の裏側を並走しており、時に自分の側に寄って来たり、離れたりする認識があるからでしょう。しかし、本当に運などというものが存在するのでしょうか。結論はNOです。そして運という概念は言い訳に使われますから、投資を行う人間にとっては禁止用語(概念)ではないでしょうか。

 そもそもこの世界には確率と統計があるだけです。運を手にしたいが為に、運気を呼び寄せる呪いを自分に課することや、幸運アイテムを収集する人がおりますが、そのようなことをするならば、確率と統計を学んで、生活の中に現れるさまざまな確率(ポアソン分布)を理解すべきでしょう。微分方程式を解く必要があり、実際に計算できない人が大半と思いますが、概要だけ知っておけば良いと思います。
 例えば比較的暇なお店に多くの客が突然やってきたり、宇宙から隕石が飛んできたりと、ポアソン分布に従う事象は多々あります。「しばらく電話が来ないから、そろそろ来るだろう」というような「結果によって次の確率が変わる」ことはありえないのです。そしてここが重要なポイントとなります。確率が教えるところによれば、これは単なる偶然なのです。偶然を運命と認知しているに過ぎません。何らかの事象がほぼ一定の間隔で襲ってくるならば、その方が不自然ではないでしょうか。一定間隔で偶然の出来事が起きることのほうが、一度にやって来るよりも稀有と思います。

 実際に多くの事物があると、偶然からその一部が寄り集まっており、そこには何の傾向も因果関係も無いことに気づかされます。私たちはランダムの罠にはまって、本来は偶発的な出来事であるにもかかわらずパターンや関係性を見出してしまいがちです。確率論者はこの現象をポアソン・クランピングと呼びますが、あらゆる物事に因果関係を求めることは遺伝子に組込まれた仕組みなのかもしれません。なお、厳密な事象の確率は1800年代にフランスの数学者シメオン・ドニ・ポアソンが初めて計算をしました。私の最も尊敬するひとりです。

 投資において留意すべき点は、因果関係を作りたがる自分を抑えることであり、いつでもあらゆる状況に対処できるだけの余力や準備をしておくことなのです。ある人は自制心と言うのかもしれませんし、別の人は哲学的に捉えるのかもしれません。しかし裏を返せば簡単な数学の問題に帰結するのでしょう。

<サイト管理人> 2013年11月21日記述



 【TPPの問題でクローズアップされるべきは農業なのか】第340回

    農業より医療やその他のソフト系(知的財産や制度など)の方がTPPの問題点としては大きいと思っています。たとえば医療ですが、日本の医療は「国民皆保険」という世界的にも特殊な制度を採っており、効率的に運営されています。ただ、日本でもある程度のスパンを考えると医療の負担はかなり膨らんでおり、近年40では兆円程度になり、近未来を考えるとGDPの10%を超えることは間違いないでしょう。国民は一般の税金で20%、医療費で10%を支払い、その他の水道光熱費を考えると、収入の約半分近くが「徴収金」のような形になってしまいます。つまりTPPがあろうとなかろうと、あまり明るい未来は開かれていないことがわかるのではないでしょうか。確かに人は現在の知識レベルで未来を予測しますから未来は明るいものではありません。しかし、相当のイノベーションが起こらない限り、現在の行き詰まった状況を打破できるとも思えません。
 TPPで文句を言っている人が多くおり、私もその一人ですが、それではTPPがなかったら農業も医療もうまくいく方法があるのかというと「ない」というのが現状です。日本では高齢者の比率が増えている一方で、医療費のかかる高度医療が進んでも「治療は諦めなさい」と言わない訳ですから、国民皆保険は維持できないことと思えます。しかし道義的な問題として、高齢者に対して「諦めなさい」と言えるのかどうかが問題です。そうなると結局は「お金がある人には厚く治療する」ということで妥協せざるをえない可能性が高いのではないでしょうか。よって、TPPを導入してもしなくても結果は同じかもしれないのです。
 今以上に国境という概念が低くなり、自由に投資が行われるようになると、国の制度を変えただけで個人の会社が大損害を受けることになります。例えですが、アメリカ企業が日本に1000億円の投資をして仕事を始めたとします。ところが日本の国会がその企業にとって不利な制度に変えてその企業が大きな損害を出したらどうするかということです。もともと、その国に産業は普段から政治献金やロビー活動、人脈などを通じて自分の産業に有利になるように必死で活動するものです。しかしサービス業も含めて全産業が完全に自由化されると、各企業は全世界の国で宣伝活動、政治活動をしなければならないでしょう。しかし、現実的に無理があります。そうすると、ある国の制度が変更され、その国に投資していた外国企業が損失を被ると裁判に訴えることになる。それがISD条項というもので、これが大きな問題なのです。
 確かに、日本の制度を変えるのは日本に主権があるのだから勝手なのですが、それによって外国企業が被った被害を補てんしなければならないことから、事態は複雑です。ここがTPPの「肝」ではないでしょうか。つまりモンゴル以来、外国との関係で少しでも自分の国が有利になるようにという原理原則で考え、さらに「平和に限る」とすると、ISD条項は必然的に出てくるものなのでしょう。
 「主権を持つ国が存在し」「貿易が自由」ということになると「ISD条項は必要」ということになり、今のところ代案はありません。つまり、
 1)戦争はしたくない、
 2)自由貿易で日本は繁栄してきた、
 3)産業はソフト化した、
 4)国は残すが産業は今以上にグローバル化させる、
ということになると、ISD条項以外に今のところアイディアはありません。修正案を出すとしたらその企業の母国の裁判所ではなくTPPに関する貿易紛争裁判所を国際的に作る必要が出てくるでしょう。私はTPPのISD条項に反対なら、国境を下げて貿易を盛んにし、国家主権を守って投資会社に損害を与えない制度や国際裁判所を提案するべきと考えます。交渉が進んでいる現在においてもまだ批判をしているくらいならば「自由貿易はできない」と一日も早く宣言したほうがよいのではないでしょうか。

<サイト管理人> 2013年11月25日記述



 【理科系科目の履修生を減らしているのは国策のせい?】第341回

   子供の理科離れが進んでいると言われて久しい現在です。高等学校で物理を履修する子供が10分の1になったとも言われます。裏付けはとっておりませんが、話半分でも随分と大きな問題に思えます。少子化状態が続き、高校レベルでの理科離れが拡大すると、社会人になってから理科系科目の教育が求められますので、企業サイドの負担は今以上に大きくなるのではないでしょうか。日本では工業製品を作れなくなるとまでは言いませんが、最近ではこの重要な問題について関心が集まっているようで、児童・生徒が物理などに関心を持つように理科の楽しみを教える教育が行われております。しかし、私はそんな目先に問題があるのではなく、子供たちは直感かつ正確に将来の日本を見ているように思います。

 明治時代から昭和の初め頃、日本は重工業の技術立国を目指しており、技術者の生涯賃金は事務系の職種に比べて10%程度高く設定していました。政府と産業界が協力してこの政策を進め、その結果、親は「できれば子供は理科系に進ませたい。就職も安定している上、給料も高いから・・・」という風潮が生まれました。それに呼応して難関大学に進学することや、大学では勉学に励むことが理科系では当たり前になりました。先述の通り、就職状況が安定しており、給料が高いことに裏打ちされていたわけです。ここで重要な問題は、教育にかかる費用がその人が生涯に得られる所得に比例していることです。それこそが授業料の決め方にも繋がってきます。現在では高等学校や大学で社会人としてのマナーや就職のためのセミナーが平然と行われているので、本来の教育・研究の場という目的を見失っているようです。授業料納付=就職先確保という意味不明な構図が出来上がっているのかもしれません。
 さて、話が時代背景から逸れましたので戻しますが、日本では戦後も技術系履修生が優位の状態が続いてきましたが、石油ショックなどとともに、マスコミが技術系の職場をキツイであるとかキタナイなどと呼んだことからそうした職場に少しずつ魅力が失われていきました。全体としても高度経済成長の成熟から新規技術や新規産業が出にくくなり、製造工程における自動化が進んできたことも技術系職場の魅力を失わせていきました。
 日本が世界に最たる技術立国になったのは、単に官民の号令によるものではなく、それに応じた人材を教育機関が輩出してきた部分も大きいことでしょう。高等学校、高等専門学校、そして大学から排出される技術系の若者は毎年10万人程度で、これはアメリカの6万人と比較しても約2倍であり、人口比では4倍にもなるのです。
 これまで日本には常に250万人のエンジニアが存在しており、日本の研究、開発、技術を下支えしてきました。これらの人たちは工場や研究所で真面目に働いていましたが、成果に比する程クローズアップされませんでした。そうした経緯もあって、文科系の管理職の方が優遇され、20年前には技術系の生涯賃金は文科系の卒業生を下回り、就職率も低下しました。中教審などは比較的純粋な気持ちで若者に理科の面白さを教えようとしているのでしょうが、経済の流れが理科離れの方向に進もうとしているので、簡単に若者を理科系に進ませるのは少し考えものかもしれません。

 今後を考えてみますと、日本政府は現在の一次エネルギーの消費量を今以上に下げようとしています。他国が上げようとしていることとは間逆であり、日本は「縮小社会」を目的としているようです。結局、日本は懸命になって「工業国」から「サービス産業国」への転換を図っているとも言い換えられます。この転換が望ましいかという議論は一切なく、単にエネルギーを消費することによる「温暖化」であるとか「効率化」という面ばかりを問題にしてしまいます。簡素かつ論点が稚拙であることが好まれるのでしょうか?ただ、近い将来大きな結果に直面することは明らかです。つまり、現在進行形の技術の後退をもたらす政策が若者に理科離れに繋がっているのですから、日本は本当に架空の仕事で繁栄しなくてはなりません。ギリシャを目指しているのでしょうか。既に学生は理科系科目から離れるという行為でそのことを支持しているように見えてなりません。

<サイト管理人> 2013年11月28日記述



 【マスコミは自社に影響を受けない報道しかしない】第342回

    今回話題になっている秘密法が検討され始めたのは民主党政権ですが、日本のマスコミは実質的に損害を受けないので、あまり報道しませんでした。そして法律が成立することが確定した「間に合わないタイミング」をはかって激しい反対に転じました。それはこの法律が現実にマスコミに影響を与えることはないからでしょう。その実際の例を3つ上げてみようと思います。

 記憶に鮮明なのが「尖閣諸島に迫った中国漁船を日本の海上保安庁の巡視艇が拿捕する動画」の公開で、政府は当初「秘密かどうか判断していなかった」ので一部が漏えいした状態でしたが、それを海上保安庁保安官であった人がネット上で公開しました。この情報の公開は「新聞、テレビ、週刊誌などのメジャーな情報機関」ではなく、ネットという新しい媒体でした。その時に、政府は「海上保安庁の職員が秘密を洩らした。規則違反だ」という態度をとりましたが、毎日新聞は「国家公務員が政権の方針と国会の判断に公然と異を唱えた『倒閣運動』」とし、朝日新聞は「政府や国会の意思に反することであり、許されない」と論評しました。
 この報道は、1)秘密は政権が決める、2)国会については虚偽の報道、の二つからなっていることを意味しているように思います。政権の方針や政府の意思によって秘密が決まるならば、今回の秘密法には毎日新聞も朝日新聞も賛成しなければならないでしょう。また、この時、国会は「判断や意思を示していなかった」のだから、この部分は虚偽報道に値します。現実は元保安庁職員が動画を公開し、この公開は必要なことと多数の人が認めましたが、結果的にはご自身は退職され、今でも英雄にはなっておりません。私は彼を最近の日本人の中ではもっとも日本に貢献した人のように思っております。安易に歴史的背景を学ばず、中国や韓国を非難する人もいますが、試金石ともなる重大な情報を自らのリスクで行った勇気ある人とは言えないでしょうか。

 2番目はこれも多くの人が「日本のマスコミはどうしようもない」と思った「原発報道」です。2011年の爆発直後には、1)爆発映像を公開しない(外国では公開されている)、2)付近の人が逃げるときにもっとも大切な「風向き」を隠した、3)政府に追従して健康に影響がないと言い、自分たちの記者は総員、福島から引き揚げさせた、4)土壌の汚染、食材の汚染についてほとんど報道しなかった、5)日本の被曝基準が1年1ミリとなっていることを隠ぺいし、ウソの数値を言った、など枚挙にいとまがありません。この一連のことは報道陣としての魂を失い、保身に走ったことを意味しています。NHKは認可を恐れ、民報はスポンサーの顔色をうかがい、新聞は「被曝地域以外の人は人ごとだろう」と判断したともいえるでしょう。それが間違いだとわかっていても政府の発表通り行動するなら、今回の秘密法より秘密が多いことになり、しかも国民の健康や生命に直接影響があっても報道しないのですから、そのマスコミが今回のことで打撃をうけることはありません。
 
 3番目としては、少し古いことになりますが、毎日新聞の記者が沖縄密約を暴いたとき、当の毎日新聞以外の新聞は、時の官房長官が言った「情を通じて情報を得た」という言葉に飛びつき、密約を暴いた記者をバッシングし、社会から葬ったことです。これについて最高裁は「著しく社会的な不正によって得た情報は漏らしてはいけない」という判断をしました。この場合の「著しい不正」とは「不倫」のことであり、それによって暴かれた事実は「日本とアメリカの間に国民に知らされない密約があった」ということでしょう。
 これに対する判断は個人によって違うと思います。まず「不倫」が「著しい不正」かどうかということと、「不倫と国家間の密約」のどちらが重いか、さらには「国家の秘密を暴くのがマスコミ」という考え方に対する是非だからです。日常生活の中で「不倫」は発生しますが、刑事罰を受けることはありません。かつて不倫によって死刑になった時代もありましたが、現在では不倫は好ましくないけれど個人の問題として離婚とか慰謝料として解決されています。

 今回の秘密法では秘密を洩らした公務員の罪は10年の懲役刑ですから、不倫とは社会における犯罪の重さが違うでしょう。これまで「マスコミの役割」と言われていた「権力が隠そうとするのを暴く役割」はすでに無くなったと考えられます。そうすると、この社会には権力が秘密にしようとするものを暴くメカニズムがないことに繋がります。2013年でも、スノードン氏のアメリカ機密の暴露事件と国際的な亡命、アメリカ情報当局によるドイツ首相などの盗聴などの事件があり、このような暴露が時々、行われることが社会の正常な発展に寄与すると考えられています。 
 すでに、「秘密を暴露するマスコミ」は日本には存在せず、むしろマスコミは「秘密にするべきことではなくても報道しない」という存在になり、取材は政府に行くだけで事実を丹念に調べる取材費にも事欠いています。だからこそ、秘密法も「間に合わないタイミング」で反対を始めたと考えるのが筋ではないでしょうか。

<サイト管理人> 2013年12月22日記述



 【1年を経過するアベノミクスの総括を兼ねて】第343回

   昨年の12月26日に安倍内閣が発足して1年になります。この間に期待も含めた「アベノミクス効果」で株価は急上昇しましたが、日本経済は本当によくなったのでしょうか?まだ途中経過に過ぎない側面もありますが、ある程度総括する必要があると思っております。
 日経平均株価は1年前に比べて50%以上も上昇し、6年ぶりの高値をつけている状況です。これは世界の投資家から無視されていた日本株が見直され、円が下がって割安感が出たためというのが通説です。しかし株価はドル/円とも大きく乖離し、資産バブルともいわれるアメリカの株価よりはるかに高い状況になっています。

 この株高が実体経済を反映しているならば異論はありませんが、今年7~9月のGDP速報値では、実質成長率は年率1.1%と今年前半から大きく下落しました。個人消費は0.2%増、設備投資は0%増、輸出は0.6%減です。増えたのは公共投資ばかりで6.5%と突出して大きく、住宅投資の2.6%増がそれに次いでおります。他方、貿易赤字は17カ月連続の赤字になり、2013年度は通年で約12兆円の赤字になる見通しです。このように円安でも収益が拡大しない最大の原因は、日本がもはや「貿易立国」ではなく、輸出産業が海外生産に移行していること、グローバリズムが進行していることでしょう。製造業の海外生産比率は約20%で、今やテレビも9割は海外の工場で製造した輸入品になっています。
 このように一般的に言う「空洞化」が起こっても、付加価値が日本に還元されればいいのですが、そうはなっておりません。日経平均に組み込まれている輸出産業の収益は大きく上がったものの、輸入コストの上がった中小企業の収益は下落し、日本経済の「二重構造」の格差は拡大したとは言えないでしょうか。

 アベノミクスの実態は、日銀の量的緩和にのみ帰結します。この1年でマネタリーベースは130兆円から190兆円へと増加し、GDP比では世界一になっております。金融政策の効果を示すコアCPIは、マネタリーベースを50%も増やしたのに、0.3%しか上昇しませんでした。日銀の指標とするコアCPI上昇率も、0.9%と頭打ちです。日銀の黒田総裁は「2%のインフレ目標達成への道はまだ遠い」と認め、2014年末という期限を先送りしたが、先送りしても2%は無理とみる専門家が多いのが現実です。

 そもそも株価の動きは、単調にマネタリーベースを増やしてきた日銀の金融政策とは無関係に、為替レートやアメリカの株価などの動きを拡大した形で動いております。内閣参与の浜田宏一氏も認めたように「景気がよくなればインフレなど必要ない」のです。しかし株価が1年で50%以上も上がる現象は、1980年代後半の資産バブル期にもありませんでした。上昇率が最高だった1986年でも47%に過ぎないのです。今の株価は絶対水準では資産バブルとはいえませんが、上昇率だけ見れば異常なのです。そもそも80年代後半の実質成長率は、年率5%以上だったことからも明らかです。
 要するに「アベノミクス景気」は、円安・株高による「期待」で資産価格が上がっただけで、実体経済は1%程度の低成長にとどまっている状態です。これは危険な兆候ではないでしょうか。長期的にはどこの国でも、株価上昇率は名目成長率との相関が高いわけで、80年代後半に日経平均は3倍になったが、名目成長率は30%しか上がりませんでした。このギャップが、90年代のバブル崩壊で調整されたと言ってよいでしょう。

 偽薬も効果を見せる時がありますが、病気は治りません。偽薬で症状を抑えているうちに、病気が悪化することもあるのです。雇用規制の緩和は先送りされ、薬のネット販売はまた禁止され、原発はいまだに動かない。来年になって偽薬の効果が切れると、病気がぶり返すのではないでしょうか。私たち個人投資家はしばらくその真偽を観察する必要があると思います。

<サイト管理人> 2013年12月24日記述



 【節約志向は一種の洗脳であり、理想的な姿ではない】第344回

   日本人は節約好きな人が多いようです。特にここでいう知識人や女性の方の中では固く「節約は善」と信じている人が多いようです。しかし裏には深い意図があること、自分の財布を狙っている人たちの一種の作戦であることについて整理をしたいと思います。
 1956年から1990年までに政府が「高度成長」や「バブル経済」と言っていた頃は、マスコミも日本人も「三種の神器」などという標語を使い、多くの物を買い、消費をして、生活を充実させていったのですが、1990年代に経済が停滞すると「節約」や「もったいない」という人が増えた経緯があります。「資産バブル」から「もったいない」へ変化したのですから、生活における信条が180度違います。それも「考えがない」と批判される若者ならまだわかりますが、中年の分別ある知識人が真逆になるのですから驚きです。もともと1956年から続いた日本の高度成長というのは、「ヨーロッパ並みの所得、ヨーロッパ並みの質の高い生活」だったのですから、1990年に「ヨーロッパ並みの所得」が得られるようになって、日本人の生活の目標は「つつましい生活」ではなく、「質の高い生活」でした。ところが、社会は急に「節約ムード」になり、同時に年金システムが崩壊し、日本人は将来の不安に駆られて貯金を始めました。

 収入が減ることや、将来が不安で貯金するなら問題はないのですが、思想的に貯金を始めてしまったのです。なぜ日本の知識人(キャリア)は「もったいない」と言い出したのでしょう?それは貧乏だった自分が、「収入が高くなって楽な生活ができる」ようになったからです。自分が豊かになると、まだ生活が苦しい人がいるのにコロッと変わるのが知識人というものですから、この変化は当然でもあります。この後、知識人はある作戦に出ます。自分は所得の多くを使い、その他を貯金して「質素に生活している」ということを他人に見せて、さらに、他人には「将来のために節約しろ」と指導します。そのために使われた言葉が「もったいない」、「日本文化」、「石油の枯渇」、「ゴミがあふれる」というものでした。これらのすべては一般の人にわかりにくいので、知識人の独占的知識になったのですが、それがほとんど作り話であったことに社会は気づきませんでした。
 このようにして作戦を練った知識人以外の日本人の高い所得は貯蓄に回り、それが赤字国債という形で政府に回ります。知識人が「節約」を呼びかけた目的はこの「政府のお金」が欲しかったのです。政府はお金をためておくことはできませんから「補助金」という形で知識人に還元され、官僚の多くは天下りをしました。つまり、日本の経済成長が一段落した1990年。知識人はお金を得る次の方法として「国民のパイ全体をこれ以上大きくすることは難しいことから、人のパイをもらう」という作戦を立てたのです。かくして、一般人はせっかく高度成長して得られた所得を「節約しなければならない」という知識人の教えに従って貯金し、取り上げられてしまったのです。

<サイト管理人> 2014年1月7日記述



 【日本の報道が正常化されるのはいつのことでしょう】第345回

   日本の報道はどうしてここまで意固地になったのだろうと常々思っています。円安を善とし、インフレを後押しする内容が多く散見されるからです。年金受給者の生活レベルはどうなるのでしょう。逆ピラミッド型の人口構成である日本ではデメリットが多くありますし、低所得者や内需系の基幹産業にも打撃を与えています。本コラムでも再三に渡り記述している通り、日本のGDPに対して外需系産業の割合は20%以下なのですから、この国は内需産業によって成り立っているのです。地球温暖化の問題も然りです。かつて、温暖化を主張するいい加減な学者に騙されたことは仕方のないこととしても、そんなことにいつまでもこだわらないで、正確な情報を伝えてほしいものです。

 現在アメリカは大寒波に襲われ、各地で日本にも影響があるような被害が出ています。ニューヨーク市で氷点下16度を記録し、各地で例年の平均気温より14~19度低く、ロイター通信によると、寒さによるとみられる全米での死者は10人以上に達した模様です。また、石油スーパーメジャーのエクソンモービルは寒さにより石油精製が一時的に停止し、南部のオクラホマ州ではプロパンガスの供給が底をつき、ファリン州知事が非常事態を宣言しました。無許可の運送業者に対してさえもプロパンガスを輸送することを認める措置を取った程です。
 南極は記録がある範囲(約40年)でもっとも氷の面積が大きくなり、観光用砕氷船が氷に閉じ込められ、アメリカから救難砕氷船が向かいました。北極の氷はやや減り気味ですが、南極の氷は増え続けているのです。地球全体としては「極地に氷がある」という状態は、地球の歴史から言えば異例の寒冷期に当たっていて、氷があること自体、地球が極端に寒いことを意味していますが、北極・南極を合計した氷の量はこのところほとんど変化していないのです。IPCCのレポートからも解ります。
 このように、気温の変化や地球の状態は大きな目で見なければならないのに、北極だけ、しかもここ30年ぐらいだけを見て「ホッキョクグマが可哀想」というような幼稚園レベルの報道が続いています。日本経済新聞は2014年1月6日に、「地球温暖化により北極を覆う海氷の縮小傾向が続き、絶滅の恐れが指摘されているホッキョクグマの生存が一層の危機にさらされている。北極の海氷は2012年夏に観測史上最小を記録。専門家からは、人工的な給餌や本来の生息地からの移動など、抜本的な対策を取らなければ絶滅から救えないとの声も出始めている」と報じましたが、地球の気温がこの15年間、やや低下気味であり、温暖化が進んでいないことには触れてはいないのです。
 また「経済」という意味では、アメリカの寒波や南極の観光等の方が重要であるのに、これまであまりに誤報を続けたので、それから逃れられなくなっているのでしょう。この裏には東大教授が「9月には北極の氷は史上最低になるという間違いがあるのです。つまり「間違いに裏付けられたまがい物の報道」まで進んでいるわけです。

 北極の氷は全体として少し減っていることが確認できますが、冬は全面結氷であり、夏は2割ぐらい減少した状態で危機的な状態ではありません。もっとも北極の氷が少なくなっても地球の平均気温は下がっているのだから、地球全体に及ぼす影響はほとんどありませんし、ましてや日本にはまったく影響がないレベルです。日本のマスコミは過去の間違いを認めるか、認めないで誤魔化してさえも良いですから、一日も早く中立的な報道に戻る必要があるのではないでしょうか。常に国民のための情報提供に徹して欲しいものです。また、正確な事実を伝えることによって、事実の認識を統一し、何が対立点なのかをはっきりさせることが大切でしょう。私たちは「合意を目指して事実を確認する」ことが重要であることを知らなければならない時期にきています。ダイオキシン報道の二の舞を踏まないでもらいたいと思います。

<サイト管理人> 2014年1月17日記述



 【円高メリットについて考える人はいるのでしょうか】第346回

   日本の戦後を大雑把に振り返りますと、日本という国の経済力はアメリカを基準とした円ドル相場で大まかに理解可能です。円クロスドル相場はブレトンウッズ会議で1ドル360円と決まり、それが1970年ごろまで続いておりました。ところが徐々にアメリカの力が弱まり金本位制を放棄して経済力や生産力、技術力で決まる為替相場に変わりました。自由貿易の結果、日本の国力が強くなったので、当初から現在の100円程度になりました。一年前を思い起こせば、一時的には80円ぐらいまで円高になっておりました。日本が一流国になった確固たる証拠です。こうした経緯は、日本の産業構造も変わり、かつては農業漁業が主力でしたが、そのうち工業(第二次産業)が盛んになり、現在ではそれを引き継ぎながらサービス業である第三次産業が注目されております。つまり「物」から「サービス」へと産業が変わったことをある側面では意味しているのでしょう。

 円が80円を切ったとき、これは大変だと大騒ぎになりました。今度は円が100円を超えるとこれも大変だといいます。全体としてみれば円は高い方が良いのですが、なぜ、どちらに振れても大変だということになるのでしょうか?短期的な損得を別にすると、急激な為替変動以外は私たちの生活に関係がありません。ニュースの解説を変える時期でもあるのではないでしょうか。
 余談ですが、戦後しばらくして、それまで1ドル360円だった円ドルが、一気に240円ほどに急に円高になった時期があります。これは一大事であるということで時の水田大蔵大臣が昭和天皇の所に急行し、「陛下、大変な円高になりました。これは日本の危機です」と言ったそうです。それをお聞きになった昭和天皇は「そうか。日本人の価値が上がったと言うことだね。問題があるのか」と言われたということです。水田大臣は答えることもできず、冷や汗をかきながら退出したとされています。その後、さらにもう一度、円高があり120円になりました。そうしたら日本に入る輸入品が3分の1の価格になり、日本人はお金持ちになり、日本の産業は大いに栄える結果となりました。これは利権団体を背後にしている大臣と、日本国全体を見ておられた陛下の大きな差が現れた一場面だったように思えるのです。今ではすっかり利権サイドの放送を続けるマスコミに全国民がすっかり洗脳されてしまったように感じられます。大局で物事を見てほしいとも思います。

 内閣府が公表しているデータからも解るように、日本の人口は2048年に1億人を切ると推定されております。日本にとって今後大切なことは技術立国であること、産業大国であること、サービス大国であること、そして、強い通貨を持つ国であることではないでしょうか。直接金融立国を目指すことは適当とは思えません。現状、輸出産業がGDPに占める割合は17%程度ですから、内需大国であることは明らかであり、未来における就業者は外国人に頼る場面も出てくるでしょう。社会保障においても同様要素が含まれていると思います。「円」が強ければ年金支給額が減額されても生活必需品は安価で手に入りますし、海外でのスローライフも可能になります。なぜそこまでして円安にこだわるのでしょう。急激な為替変動は好ましいとは思いませんが、緩やかな円高は産業界にとっても経済界にとっても良いことのように感じられます。現地生産が加速し、ロックフェラーセンタービルを三菱地所がかつて買収したように、日本の企業が世界の資本を買い取り、席巻していくことは望ましいのではないでしょうか。

<サイト管理人> 2014年1月23日記述



 【節約したお金の行方を考え、節約の意味を考える】第347回

   ある主婦が月30万円で家庭を切り盛りしているとします。家族で節約して27万円で済んだので、3万円を銀行に預けたとしましょう。銀行は金庫にお金を入れておくわけではなく、すぐに運用もしくは貸付を行いますから、そのお金は使われています。結局誰が使ったかは関係がありませんから、それで30万円分は使われることとなります。また銀行に預けた人は後にそのお金を引き出して使うことが考えられますから、その場合は33万円が使われます。もしも節約を意識して3万円の預金を意識しているのなら、それは個人レベルの話となります。もちろんマネーストックが伸び悩んでいる中ではこの方式は成り立ちませんが、基本的にはこの考え方でよいと思われます。もともと銀行というところは社会のお金の回転を良くして消費を増やすためにある機関ですから、銀行に貯金するのは節約と反することです。つまり、現代社会では収入を減らす以外に節約する方法がないのです。

 年収300万円なら300万円を使うか貯金していますし、3000万円なら300万円の人と同様に結局3000万円を使っています。節約は良いことであるとか、それは日本文化に根ざしたものだという人は経済学の基本から学ぶべきではないでしょうか。その意味では、高給取りで知識人ほどウソをついて結果として多く消費しているにも関わらず、大多数の他人に「節約」を呼びかけるということをしているのですから、厳しく言えば「節約が大切だという人は偽善者」になります。私たちはグローバリゼーションの中にいるのですから、他国とあまり大きく違うことをして苦しむことはないと思います。資源に関してもし石油が枯渇するなら、アメリカや中国が節約しないと、日本人が節約しても全く意味がありません。というのは石油の生産量は日本人が節約しても変わりませんから、その分だけ中国人が使って楽な生活をしたり、国が栄えたりするからです。その意味で「世界的なもの=石油の消費+温暖化阻止」などは、日本が節約すればするほど、日本の将来は危うく良い例です。

 人間が自然の中でつつましく生きるのは大切なことで、それを否定はできないと思います。しかし、その人が生を受け、才能や生きがいを伸ばすうえで電気をつけたければつければよいのではないかと私は思います。物を粗末に扱うことには賛成しませんが、でも人の人生、目標、満足のために適切にものを使うことは正しいと思うからです。
 また、人の人生というのは「資源を節約するため、生きるだけのため」に生きているのでしょうか? たとえば、スポーツ、つまりラグビーでもサッカーでも、野球でも意味がないと言えば意味がないのですが、やはりそれも人の生きがいになります。スポーツは原則として物質としては何も生み出さないので、超浪費と言えば浪費です。そういう意味において歌でも、オーケストラでも「物を生み出す」ことはありません。しかし、スポーツも芸術もすべて上辺の「節約」に反するから「無駄」であるとか、「自分はスポーツが好きだから良いけれど、ほかのものはダメだ」ということになるのでしょうか?「人はパンのみで生きているのではない」と言われるように、人間の価値は生きることそのものより、浪費するスポーツなどが経済的にも大切だと私は思います。

 女性がケーキなどを食べていると、私は「なんて無駄なことをしているのだ」と感じます。それが1つ500円と聞くとびっくりして、「お弁当が買えるじゃないか」とも思いますが、その女性にとってはお弁当よりケーキなのでしょう。他人が自分のお金で好きなものを買っているのですから、これも結局無駄でも何でもないのです。「自分と同じ生きがいを持て」、「自分がいらないからお前も使うな」ということは通用しないと思うのです。

 中国の文化大革命のとき、「人民製鉄」という運動がありました。巨大な製鉄会社ではなく、国民が一人一人で自給自足をしなければならないので、製鉄所をつくるというので小さな製鉄所が膨大な数作られました。今は無残な残骸になっています。精神活動は時に重要ですが、バッシングを伴うような精神活動は多くの場合、人を苦しめるだけで無意味です。また、ペットボトルのお茶が登場するまで、職場の女性はお茶くみが仕事でしたが、今では会議の時にはペットボトルで済み、女性がより重要な仕事ができるようになりました。一人ひとりの人がより楽しく、豊かで、充実した人生を送ってほしいと思います。そのためにこそ私は微力ながら努力してきたのに、多くの人が「節約」などという虚像に洗脳されて悲しいという気持ちは消えません。貯蓄は悪いとは思いません。しかし、その貯蓄は節約にはならないのです。無駄にものを使うということと、豊かで充実した人生を送るというのは決して相反することではなく、私たちはあくまでも「人」を中心とし、「物」を重視して人を殺すようなことをしないほうが良いと思います。

<サイト管理人> 2014年1月24日記述



 【政府はどこまで国民から吸い上げるのでしょう、そして責任は】第348回

    先日に財務省が発表した国の財務書類では、日本政府の財務は、負債が資産を上回る「債務超過」で、2011年度からさらに17・7兆円増えて477兆円となったとされています。この金額は2012年度の名目国内総生産(GDP)の473兆円さえも上回るものです。債務超過の理由は、日本政府の資産が640兆円なのに対して、負債が1120兆円あるからですが、その理由は、基礎年金とかつなぎ国債などいろいろなもので不明瞭にされています。

 日本政府は国民からほぼ1000兆円、その他の人から100兆円ぐらいを借りております。普通の会社なら債務超過になると、その会社にお金を貸した人がいざという時に回収できないことから貸しません。そこで倒産という事態が発生します。ただ、民間会社で一時債務超過に陥っても、売り上げや収益が伸びていれば、銀行などの貸し手も資金を融通するケースがあり、今の国の状態はそれと同じでしょう。
 銀行は国債の購入を通じてGDPを超えるような債務超過を起こしている日本政府に貸し続けています。財務省も債務超過なのにさらに赤字を重ねて安倍さんが外国に行けばお金を配り、財界の人が来れば補助金を配っています。なぜ、これほどの債務超過なのに銀行がお金を貸しているのでしょうか?

 考えられる理由は以下の通り単純なものです
1)赤字になったのは収入に見合う財政をせず、構造改革をせず、むやみに使ったから、
2)赤字になっても使った1000兆円の何パーセントかを中間搾取で役人や政治家がポケットに入れたから、
3)景気が大幅に回復すれば租税などが増えるから理論上は返せる、
4)債務超過がある程度になれば、まずは日銀がお札をどんどん刷る(無能な金融政策)、
5)円を刷っても、ドルも刷っているし、ユーロも刷っているので、国際的にはそれほど破壊的にはならない、
6)租税などが増えずに政府の借金が返せなければ、消費税を上げる。まず2014年に8%、それから10%、さらに20%まで税を上げれば、債務超過は消える(国民への責任転嫁)、
7)もともと国民から借りたお金で債務超過になったが、その債務を返すために増税しても、「子孫のため」と言えば、国民は理解できないので賛成する(国民への詐欺)、
8)あとは国営放送を抱き込めば、その機関が「政府の借金」を「国民の借金」と言ってくれることで国民は騙され、そこに出演する経済の専門家には研究費などを渡しているから政府にとって不利益なコメントをすることはない、

と、こういう考えなのでしょう。問題は政府に債務ができたということではありません。債務は時として発生しますし、それを返す当てがあればよいのです。でも「アウトロー」の方法で返そうというのはダメです。会社の社長が債務をどうして返済するか聞かれて「泥棒します」という答えはダメということ同等です。今、日本政府に「債務をどうして返すのか?」と聞いたら「踏み倒します」と答えるでしょう。これはつまり国民から借りたお金を、税として国民から取り立てて返す=踏み倒しであるから、アウトローなのです。これではムラ的で穏やかな日本教の日本人を破壊することに繋がるでしょう。

<サイト管理人> 2014年2月5日記述



 【投資で求められるのは好き嫌い、そして主観を捨てること】第349回

   人はなぜか「不幸」になりがたる癖があります。「そんなことはない。自分から不幸を望む人はいない」と反論を受けそうですが、そうでもないのです。実際に「嫌い」が好きで、「好き」が嫌いという人が多いのです。人と付き合うとしばらくして、その人が「嫌い」になって盛んに悪口を言ってみたり、ある国の記事を読んでいるうちに腹が立ってきてその国が「嫌い」になる、職場でどうも仕事のやり方が遅い人がいるとイライラしてその人が「嫌い」になるといったことも同様でしょう。
 人と付き合っても、その人の良い点だけを見るようにすれば嫌いになりませんし、嫌いになりそうなら自分からその人との距離をとればあまり関係性が深くならことから嫌いにもなりません。たとえば、嫌いになりそうな人がいれば「会うのに3時間はかかる」であるとか、「1年に1度も会わない」ようにすれば、嫌いになりようもありません。ある国が嫌いになりそうだったら、その国の人の立場にたって物事を見てみると意外に納得できることもあるものです。仕事の遅い人がいても、その分だけ自分の能力が評価されると思えばよいのです。

 このように言う私が親からもらった性質のうち、もっとも感謝しているのが「人を憎くならない」という鈍感さです。私は「嫌いな人」という人が限りなくゼロに近い性質で、誰でもおおよそ好きになります。しかし、都合の悪いこともあります。自分が相手を嫌いにならないので、相手が自分を嫌っている時にそれが理解できないことが多くあるからです。相手が自分を嫌いならばできるだけ会わないようにしないと失礼にあたりますが、自分が相手を嫌いではないので、つい接近してしまいます。ただ、人間というのは相手の感情が反映することがあり、私がおおよそ相手を憎むことがないので、最初のころは私が嫌いでも、少しずつ関係が良くなってくることもあります。相手が自分を憎むのは自分の感情の鏡のようなところがあるのでしょう。

 私が相手に対して憎しみを持たない一つの理由が、「自分が正しいと思っていることはいい加減だ、相手の方が正しいかも知れない」と考えているからかもしれません。これまでも、私は自分が間違っていたことを多く経験しました。自分が間違っているのですから、自分が正しい、相手が間違っていると言って腹を立てること自体がナンセンスになってきます。人は身近な人を嫌いになったり、自分の大切な人に強い感情が湧いて嫌いになったりします。自分と関係のない人は適当なことを言いますから、好きになり、自分のことを親身に考えてくれる人は苦いことも言うので嫌いになる、これは哀しい人間の性です。思春期に親が憎くなるのがそれで、この世で自分のことをもっとも大切に考えてくれる親がうっとうしく、憎くなり、自分のことなどたいして考えず適当なことをいう友達を好きになることは普通のことでしょう。だからこそ、もし「人を嫌いになる」ということが「嫌い」になり、「人を好きになる」ということが「好き」になれば、人間関係の多くは解消するでしょう。そのためのもっとも重要な心の持ち方は、裏切られたと感じても、「ああ、そうか」と受け取って、決してその人を恨まないという覚悟です。難しいことですが、可能ではないでしょうか。なぜなら、私たちは多くの人がいて、ある人と近くなったり、ある人と距離を取ったりができるからです。投資における行動でも同じ感覚が求められるのではないでしょうか。

<サイト管理人> 2014年2月8日記述



 【人類史上最大の難問である人口問題について考える】第350回

   人口の増加について考えるに際しては、まずメドウスの成長の限界について知る必要があります。成長の限界とは、ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、マサチューセッツ工科大学のデニス・メドウズを主査とする国際チームに委託して、システムダイナミクスの手法を使用してとりまとめた研究で、1972年に発表されました。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしたものです。増えすぎた人口をどうするのか。これは人間活動を中心とした環境収容能力問題を説いているのです。一部定義には誤りがありますが、人口増加に関しては予測どおりに推移しております。現状の地球では大型の霊長類が住む場所はありません。大鷲でも虎でも象でも、大型の哺乳類は住む場所など殆ど残されていないのです。未だにそれらの動物を愛護する団体もおりますが、それらの方々にとっては人間の愛護は二の次であり、感情論で動いているに過ぎないと私は考えています。さて、地球上の人口ですが、この400年で以下のように推移しております。

 400年前4億人
 200年前8億人...この間200年
 100年前17億人...この間100年
 30年前36億人...この間70年
  今年71億人...この間30年

 上記からわかることは、時間が半分で人口が倍々になっており、指数関数的に増えているということです。ローマクラブでは2020年から人口収容能力が破綻するとしていますが、既に2010年の時点で人類が克服した飢餓がまた発生していていることも事実です。投機マネーが穀物価格を上昇させている側面もありますが、絶対的に不足しているという現実にまずは目を向けるべきです。よって、日本はおろか世界中で食物(主要品目)を如何にして確保するのかが重大なテーマとなっております。
 そのような中、人間の数をどうやって調整するのかという問題が顕著化しております。そこに立ちはだかる壁はヒューマニズムでしょう。日本における少子高齢化は正常な流れであり、日本に今求められるのは人口の緩やかな減少と、それに伴う生産力の縮小だと私は条件付で考えております。技術立国及び金融立国であることは必要要件であり、円高がそこに大きく寄与してくることでしょう。安価にて食料やエネルギー資源を確保できると共に、強い円は海外のあらゆる産業を買収にも寄与することから、世界の支配的立場に立てることに繋がるでしょう。円安による国内製造業の復興などというものは日本単体の人口構成を考えれば無理な話であり、外国人就労者を確保するにしても円安が足かせになってきます。こうした観点からも円安を肯定する立場には立てません。
 余談ですが、日本において化石燃料なしの自然エネルギーで電気をまかなえるのはせいぜい3000万人と言われています。現在の技術レベルではそうですが、今後増えたとしても5000万人程度が必要とする量しか確保できないのではないでしょうか。確かに現在の環境で未来を見れば暗いものとなりますが、人口増加の問題はこれまで人間が対峙したことのない大きな問題です。ローマクラブは、そうした経済の変化、時代環境の変化に即応する格好で、新しい視点を提示し、世界的な規模での論議を活発化させようとしている向きがあります。国内の少子高齢化にばかり目をとられないで、地球全体でこの問題を考える時期に来ています。そして金融市場の肥大化に伴う投機マネーがもたらす穀物相場の乱高下は必要悪ではなく単なる悪なのです。経済の裏表が出来てしまった昨今ですが、健全な生産性や技術力、資本による資本主義というものが一日も早く訪れるよう、また強いリーダーシップを発揮してウエーバーの提唱する資本主義の精神といった原点に回帰することを切に願うばかりです。

<サイト管理人> 2014年2月11日記述



 【投資に向かない人の典型例を発電問題から改めて考える】第351回

   日本教に染まった多くの日本人は簡単に憑つかれる特徴があり、太平洋戦争の時でも「勝てるのだろうか?」と心の底で思っていても、周囲が「戦争をしなければ」と言っていると体制に逆らうことに抵抗を感じ、そのうち、自分自身も取り込まれてしまう性質があります。こうした気質のようなものを持つ日本人はトイレットペーパーを買う時に、それが日本の木を使ったのか、外国の木を原料にしたかを気にしません。地球全体の資源を考えれば重要なことですが、私の周囲で関心を持っている人はおりません。当たり前ですが、自動車を買いに行くにしても、そこで使われる自動車板金がどのような方法で作られたのかをまず質問しませんし、鉄鉱石はどこから輸入したのかも尋ねません。値段と性能やスタイルを見て買う自動車を決めることでしょう。トレンドの裏を読まず、トレンドに流されているだけなのです。
 つまり、日本の消費者というものは「今風で安そうで品質が良さそう」なのが第一で、「製法」や「原料」にはそもそも興味がありません。それにも関わらず「電気」問題となると、「石炭火力か、天然ガス火力か、原子力か、はたまた太陽光発電か風力発電か」という議論に熱中する不可解な面が顕著化してきます。
 そもそも電気の作り方は、製鉄と変わりません。外国から石炭を買って溶鉱炉で燃やせば鉄が溶け出し、石炭を発電所で燃やして水を沸かせば電気が作られるわけです。鉄鋼業はすそ野が広いことから簡単に言い切れませんが、鉄鋼業自体の出荷額は約14兆円ですから、電力各社の売上合計額とほぼ同じとなります。電力産業は金額としてみれば大した産業でもないことがわかります(ここではインフラという概念は除いております)。また「外国からの石炭を使う」といっても、それは鉄鋼でも、自動車でも、その他産業でも全く同じなのです。それなのになぜ日本人は「電気を何で作るのか?」であるとか、「原発を動かさないと日本の経済は崩壊する」などと言うのでしょう。そして太陽光発電に膨大な税金を投入してみたり、買取り制度を作って高い電気代をさらに上げるのに賛成するのでしょう。これにはトリックがあると思うのです。つまり国民に「どういう方法で電気を作るか」に関心を集めさせ、「何をすべき」という議論を巻き起こし、それが馬鹿らしいことであると気付かせないようにして、税金を投入し、企業は補助金を取り、キャリアは特殊法人に転向でき、政治家は利権を得ているわけです。
 消費者は「どうやって電気を作るかなどに関心はありません。安くていつでも使える電気があれば良いのです」と言えば、原発はなくなり、電力会社の独占も解消し、税金も安くなるでしょう。実に錯覚とは恐ろしいものです。将来のために太陽電池や風力発電などと言われますが、電力も鉄鋼も、自動車も全て同じ土俵に立っています。それなのになぜ、エネルギーや電気となると他の産業と違うように感じるのか、それが大きな問題です。このような偏向に囚われる人々は投資には向きません。自分や大勢の論理に踊らされ、8割の投資負け組に入ってしまうことでしょう。なお、私は原子力関連技術の研究には大いに賛成であり、日本における原子力発電所の稼動には反対です。電気も所詮製品であり、コストを中心に考えているからです。

<サイト管理人> 2014年2月13日記述



 【年金の理解を求めて~現行の年金制度には無理があること】第352回

   日本に年金システムが誕生した時、当時の厚生省の年金課長は、次のように言っておりました。「年金を払うのは先のことだから、今のうちどんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行困るのではないかという声もあったけれども、そんなことは問題ではない。 貨幣価値が変わるから、昔三銭で買えたものが今五十円するのと同じようなことで、早いうちに使ってしまったほうが得する。」しかし、これはどういうことでしょうか?
 そもそも1961年から日本の年金制度が本格的に始まりました。その前の日本人は歳を取ったら子供に面倒を見てもらうのが普通で、特別な軍人恩給などを別にしたら、家族単位で生活をしていたのです。以後、年金に加入した日本人は自分でお金を収め始めました。政府は「揺りかごから墓場まで」というキャッチフレーズで「年金を収めていれば生涯、安心して暮らせる」と言いましたが、現実にはそれは夢物語であることが当時からわかっていたように感じられます。冒頭に記述したとおり、国民から収められた年金は、厚生省のどこかの金庫に納められます。そしてほぼ40年後に年金を収めた人に対する年金が支払われるわけです。しかし、現実には「インフレ」が進むと予想されることから、1年に7%のインフレが40年続くと、物価は15倍になります。実際に1970年代の日本は年率で7%程度のインフレ経済下にありました。よって年金課長の感覚では40年で貨幣価値は1000分の1ぐらいに勘定されていたのでしょう。つまり、年金資金として積み立てられたものは不動産といった現物に置き換えることで運用する(使ってしまう)ことを考えていたのです。
 現在は為替が影響して一時的にインフレ率が2%に迫っていますが、この絵空事が続けば40年で貨幣価値は2.2分の1になります。つまり100万円年金を納めても運用しなければ受給する際には45万円相当になるということです。また、現在のように日銀がお札を135兆円も増やすと、数年で貨幣価値が半分になることもあるリスクも理解しなくてはなりません。そういうことから、年金課長が言っているように「早く使ったほうが得をする」論理が成り立ってしまうのです。
 よって「国民が年金を積み立てても、それを集めた厚生省は、年金制度が発足した時から国民のお金を使い込むつもりだった」という事実を納得しなければならないのです。道徳的にも、倫理的にも、役人が公僕だということを考えても、理解に苦しみますが、これは「感情」の問題ではなく、現実に日本社会で起こった「歴史的事実」だからです。結局現行の年金制度はインフレーション下で成り立つロジックです。そして現在の金融主導のインフレーションはスタグフレーションに繋がり、著しく国民生活を困窮させるものであり、その先の破綻リスクを同時に背負っているのです。賦課方式だから成り立つという安易な発想も構いませんが、そうした人々はちゃんと大規模増税も含めたインフレーション社会を受け入れなくてはならないのです。

<参考:厚生年金保険制度回顧録>
<サイト管理人> 2014年2月15日記述



 【株式投資で大切なことは「合意」ではなく「反目」であること】第353回

   日本で「お祭り」が全国各地で行われます。多くは「その地域に住む人ならだれでも参加できる」という特徴があり、「踊り、音楽、若干の無理、裸、だし」などがキーワードになります。冬になると決まって裸の男たちが寒さに震えて海に入って禊をし、その後、火祭りをするというようなお祭りがあります。終わったらみんなで酒を交わして親睦を深め、この間、難しい話は一切ありません。ただ規則に従って、だれもが同じことをするのです。
 普段の仕事では利害関係もあるし、身分にも差があり、お金持ちや貧乏人として区別されることもあります。しかしお祭りのときには誰もが同じになる特徴があります。日本になぜこれほどお祭りが多いのでしょうか。それは狭い日本国土の中で「和を以て貴しとなす」ということを実現する一つの方法だったように思えるのです。

 これと正反対の世界が「ネット社会」ではないでしょうか。顔は見えない、気軽に罵倒できる、ウソでも咎められない、「人間のクズ」と平気で言ったり、「死ね」と言うことさえもできる場所です。人間の心は複雑だからこそ、人を不幸にすることが喜びになることもあるのです。このネットの「反目文化」が日本社会をむしばみ、本当は真面目に相手を非難することなくじっくりと議論しなければ片付かない問題・・・戦争評価、隣国問題、経済成長の方法、教育、選挙制度・・・これらはいずれも途中で罵倒合戦になって、泥沼化しております。私もこのコラムを書いていると、まだ「事実の確認」をしている段階であるにも拘らず、「お前は何を考えているのだ」というおしかりを受けることがままあります。まだ私自身の判断をしていないのに、事実のみを書いているところで、「おそらく私はこう思っているのだろう」と先回りして中傷されることも多くあります。「まだ事実の確認をしています。この記事であげた事実のどこか間違っているところはありますか?」とお聞きすると、それは「無い」と言われる。「でも、私は違う」とご返事が来るのです。

 合意を目指すためには、まず「事実で共有できるものはどれか」をはっきりさせ、もしすべての事実を共有できたら、次に「同じ事実なのになぜ違う考えになるのか」を議論すればよいのです。これだけでずいぶん、すっきりするものではないでしょうか。反目するより合意する方が穏やかになれますし、気分も良いものです。良いことばかりなのに、そして事実を共有できたら、本当に考えは同じになるかも知れないのに、それを拒否する人が多くおります。なぜでしょうか。

 人間は25歳の時に、自分が「正しい」と考ええることが固定して、それ以後、60歳ぐらいになるまで考えを変えないというのが通説です。それは一人の人間がある確信をもって人生を送るために必要なことなのかもしれません。自分が正しいと思っていることが人の考えを聞くたびに変わったら、矛盾だらけの行動になって収集がつかなくなる可能性があるからかもしれません。しかし、25歳というとまだ勉強が終わったばかりで、ほとんど人生経験などはありません。私は経験に重きを置きませんから教養が不足している状態と言い換えても良いと思っております。だから後になって自分が「正しい」と思うことが間違っていたと感じることも多いことでしょう。25歳までの勉強と教養は大切なのですが、なかなか教育で60歳までの正しいことをすべて知り、理解し、判断できるまではいかないのが大半の人々でしょう。いっそのこと、昔からのしきたりがあれば楽だと思うこともあります。お祭りがその一つですが、細かいことまでしきたりで決められているから意見の相違もないし、それに従っても自己否定にはならないのです。

 この矛盾をどう解決すればよいのでしょうか?それが反目の社会を合意の社会に変える決定的なことでしょう。これにはいくつかの方法が思い浮かびます。自分の人生の統一性を保ちながら、新しい事実を共有し、他人と議論し、新しい自分の判断を作り上げていく・・・その具体的な方法を発見すれば、仲たがいも離婚も、紛争も大きく減ることでしょう。ただし、株式投資においては一度組み立てた投資ロジックなどというものは未来永劫に渡り変更の必要の無いものではありません。そこには統一性も共有も無いのです。状況は日毎に変わっているのですから、毎日ロジックを組み立てなくてはならないのです。「正しい」と思うことに固執せず、生涯をかけて望むべきものと思います。よって、自己資金の大半を投資にまわすようなことはせず、のんびりと教養を得ながらじっくりと望むべきではないでしょうか。

 <サイト管理人> 2014年2月27日記述



 【日本の文化は総じて良く、日本の個々人は投資にむいていること】第354回

   日本の文化には世界的にも「良いもの」が多いでしょう。「道を聞かれれば教える」であるとか「借りたお金は当然に返す」などといった資本主義の精神的なものが民衆の文化になっています。やや制度とも関係する文化ではありますが、「罪を問われたら、正直に白状する」という部分もあります。
 ところで、日本文化のうち社会全体に及んでいるものに「奴隷階級がいない、平等な社会」があります。アメリカやヨーロッパの国に行くと、日本とは違って「仕事の内容が限定されている」ことに驚かされます。レストランに行って床を静かに掃いている人に「ちょっと、注文したいのだけれど」と呼びかけても返事もしませんし、こちらを振り向きもしません。黙々と掃除をしているのです。そのうち、テーブルに水を持ってきた店員に「注文は」と聞いても、水だけを置いて行ってしまいます。つまりレストランには、日本流に言う「店員」という人はいないのです。掃除する人、テーブルを整える人、注文を聴く人とそれぞれに役割が分担されているといえるでしょう。日本でもレストランなどでは役割が決まっている場合もありますが、どの店員に聞いても「ちょっと待ってください。すぐ係りを呼びますから」と言うのが通例です。店が繁栄することが自分にとっても大切と思っているものの、アメリカやヨーロッパの人は「契約に基づくことをすれば、給料は同じ」という感覚に過ぎないのでしょう。どうして欧米との間にこのような差ができたかというと、アメリカやヨーロッパは奴隷制度や身分制度が厳しかったので、「掃除だけすればよい」、「掃除しかできない」という人が多い社会だったからなのかもしれません。

 なお、「士農工商+α」という身分制度は「職業の種類」であって「人間を階級に分ける」ものではありませんでした。「農民がある時に取り立てられれば武士」になったこともあります。人間自体の身分制なら、職業が変わっても身分は変わらないのです。カースト制度を考えれば解ることです。そして、この平等意識が明治維新になってから日本に大きな力を与えました。よその国が1割の指導層と9割の「ただ生きている人」だったのに対して、日本では9割の人が文字を読むことができました。その一つの現象として、ヨーロッパの学術、文化の書籍を次々と翻訳したことに繋がるのです。そもそも身分制の国は、指導層が特権階級を維持するための道具として必要なものですから、外国の優れた書物は自分たちだけの知識にするために母国語には翻訳せず、自分たちが外国語を学び、外国に行き、それで権威を保ったのです。よって日本とは180度違うのです。この原因は日本が島国であるのか、天皇陛下がおられて「天皇と国民」という二階級があったのか、それはまだ不明です。いずれにしても大きく違う文化の中で、今、私たちが問われているのは、異なる外国の文化を輸入するのではなく、自分たちで人生や社会を考えなければならないということでしょう。自分たちで考える、突き詰めれば自分で考える、そのことには一定の教養レベルが求められますが、その能力なくして客観的に日本を観ることはできません。日本はおろか、金融商品のリスク度すら考えることはできないでしょう。私が株式投資とはかけ離れた内容をコラムに書いているのは、金融商品の勉強をしたところで狭い世界しか見えないからです。一義的に対価を求めるのはあまりにも安易過ぎるからです。社会学的な能力を身に着けて初めて株式などの金融商品の購入に望めると考えております。ビットコインの問題であれ、かつての牛投資や円天の問題であれ、最低限の社会常識があれば踏み込まずに済む些細な投機対象に思えるでしょう。そしてそのような商品に手を出すことは無いでしょう。国債の30年物の利回りよりも運用益が高い商品など本来ありえないのです。読み書き及び資本主義の精神が生まれながらに備わる土壌に育った日本人には理解できて当然のことと思います。

 <サイト管理人> 2014年3月3日記述



 【三権以外に必要なものは中央銀行の独立性であることについて】第355回

   そもそも日本銀行が発行する銀行券は、法貨として無制限に通用する(日銀法46条2項)ものです。よって日銀は、日本で唯一の発券銀行となっております。ここで重要なのは、法貨と言う事と、無制限に通用することでしょう。このことによって、中央銀行が発券銀行であるという事が明確に定義されているともいえます。中央銀行の役割には、発券銀行の他に、銀行の銀行。第三に政府の銀行という三つがあります。この三つの機能によって中央銀行は、資金の管理を行っているのです。
 資本主義を成り立たせているのは、資本主義の精神は言うに及ばず、収益と資本です。同時に、収益と資本は貨幣の時間的価値に関係する関数にもなります。現実に資本主義を成り立たせているのは、収益と資本ですが、実際に経済を動かしているのは、資金になってきます。その資金を司っているのが中央銀行なのです。

 さて、資本主義の基本的運動は、資金を調達し、調達した資金を直接消費するのではなく、何等かの生産手段に投資し、それを運用して収益を得て、また、その生産手段を担保して新たな資金を得ることです。それによって資金力を増幅する。それが何度も解説してきた乗数効果なのです。そして、この背景にあるのは、負債なのです。負債が生み出す金利こそが、貨幣価値に時間的価値を与えるのです。また、同様の機能を持つものが資本であり、資本が生み出す収益でしょう。
 公共事業は、直接消費されずに何等かの生産手段に再投資されれば、乗数効果が現れてきます。公共事業も直接消費されてしまえば乗数効果は現れません。よって、中央銀行の重要な役割は、金利によって貨幣の時間的価値を調整することにあるといえるでしょう。貨幣が金利によって時間的価値を持つと言う事が中央銀行の役割を考える上で重要な意味を持つのです。この様な点を考え合わせてみると中央銀行の役割が見えてくると思います。

 なぜ、行政から中央銀行を独立させる必要があるのか。それは、貨幣の機能に隠されているでしょう。貨幣は交換価値を表象したものであり、市場に流通するのに見合う量が市場に流通している必要があります。貨幣が適正な交換価値を維持するためには、市場に流通する貨幣の量を一定に保つ必要があるのです。昨今のように、貨幣が必要以上に流通すれば、貨幣価値は下落することとなります。
 政府が、紙幣を無制限に発行しうる場合、政府は必要な量だけ紙幣を印刷すればいいことになります。これが政府紙幣の話にも繋がるのですが、これを行うと税の必要性すらなくなる大きな問題です。問題点は政府にとって必要な量であって、市場が必要な量ではないことです。また反面、政府による紙幣は無制限に発行できる反面、税による回収がなされないことから、貨幣の循環は起こらなくなる上、流通する量を制御する事ができません。
 このことが意味するのは、政府が直接貨幣を発行するというのは、発行者と消費者が同じであることを意味しており、貨幣価値を絶対的な基準に嵌め込んでしまうことを意味しています。必要な時、必要なだけ発行すればいいのであり、そして藩札のような物は、不足分を補助するだけの機能しか果たせません。商品券も同じで直接消費されれば消化されてしまい、貨幣そのものに時間的価値を附加することができません。貨幣に要求される最大の機能は、交換価値の表象であり、交換する権利の担保である。交換価値というのは、元来が相対的な基準であり、実物的裏付けがなければ、その機能が発揮されなくなります。だからこそ紙幣は、何等かの実体的な裏づけを必要とされるのです。その為に考案されたのが本位制度でしょう。
 現在日本銀行(中央銀行)が政府から独立していると言っても、中央銀行の権威の後ろ盾は、国家、政府であることには変わりありません。中央銀行の信認は、財政によって保障されていると同時に、貨幣価値の信認でもあるのです。繰り返しになりますが、なぜ行政から中央銀行を独立させる必要があるのか。それは、貨幣そのものが交換価値を表象したものであり、市場に流通するのに見合う量を市場に流通させる必要があるからです。貨幣が適正な交換価値を維持するためには、市場に流通する貨幣の量を一定に保つ必要があるのです。政府の指示で国債を引き受ける(市中からの引き受けを含む)などというのは望ましい姿から相当の乖離があるのではないでしょうか。

 <サイト管理人> 2014年3月5日記述



 【昨今の貿易赤字は日本の国際化の証明に過ぎないレベル】第356回

   私は経常黒字や貿易黒字が国力を示すとは考えておりません。国外に巨額の資産を持ち、そこから発生する金利や配当の受け取りで所得収支は黒字になり、世界中からモノやサービスを輸入して収支が赤字になる状況では、日本国民は多くのレジャーを楽しみ、非常に豊かな暮らしを送ることができると考えております。また、経常収支と資本収支を足すと定義上ゼロになることから、アメリカのように経常収支が赤字であっても、世界から投資資金が流れこんできていることの証明に過ぎない場合もあるのです。問題は現在の日本の貿易赤字が将来的に所得収支の黒字を食いつぶし経常収支も赤字になる可能性です。これらは明確に悪性の貿易赤字であり、最悪の経常赤字だともいえるでしょう。

 冒頭で述べたように、根本的なことを言うならば、日本の貿易赤字を増やし続けている要因は日本の産業が国際化していることの証しであり、国内の産業の空洞化現象が起こり始めていることを同時に意味してもいます。財務省などのホームページからも解るように、こうした構造的な変化は日本の貿易赤字を長期化させる可能性を否定するつもりはありません。
 1980年代の日本では、海外への大型な生産移転が発生し、円安と日本政府の政策が企業の海外進出を一層後押しした経緯があります。21世紀に入り国内の投資環境は悪化し、企業は海外への生産移転の歩みを自然と加速しました。現在では自動車、電子、機械といった日本の基幹産業の海外生産率は40%から60%程度といわれております。マブチモーターのように100%に達する企業もあります。こうした状況下では日本の金融経済情勢が良くなる程に輸入も増えることでしょう。今年上半期の情況を観ると、企業の生産が活発になったため、生産に必要な原材料や部品の輸入が大幅に増加しました。同時に国内でほとんど生産されない衣類や雑貨、家電製品、IT製品がこれまで以上に国外から入ってくるようになっているのです。私は円安を全く好みませんが、円安は輸入コストを増大させるものの、国内の販売さえ好調なら、そこから生まれた利潤が為替差損をおおむね補填することが可能です。

 現在おかれている環境から考えると、貿易赤字を高止まりさせている複雑な原因が今後短期間で大きな変化を生み出すことはないでしょう。地学的リスクその他から日本企業の海外進出の歩みは止まらず、日銀の悪い金融政策から円安傾向をくい止めることも難しいのかもしれません。しかし、内需が成熟した日本の国内販売が好調なうちは貿易赤字などたいして大きな問題とはならないでしょう。

 <サイト管理人> 2014年3月12日記述



 【文部科学省は政府から独立した機関であることが望ましいのでは】第357回

   政府に所属する機関には、経産省や財務省のように政府の政策を強力に進めるための役所と、文科省、環境省のように政府の政策とは一線を画して行動しなければならない任務を持つ役所もあります。さらには、会計検査院、検察庁のように、政府自体のお金の使い方をチェックしたり、首相までも逮捕できる役所があります。つまり、政府が行政機関だからといって、すべての省庁のすべての業務が首相の命令の下に動くというものではないのです。
 会計検査院はたとえ首相の経費でも、不適切な経費は調査して公表します。総理大臣が命令したから、どんな豪華なものでも、国政に必要のないものでも購入してよいということではないのです。税金の使用用途というのは実に限定されていて、そのチェックは会計検査院が全権を持っております。その点では検察庁も同じでしょう。田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された際、国会は田中派が多数を占め、時の政府は田中派に抑えられていたといっても良い状態でした。しかし、検察庁は収賄の容疑で田中角栄氏を逮捕したのです。私は田中先生を尊敬しておりますが、悪事は悪事、法律は法律が哲学であり、それが厳然と守られることが日本の発展になることについて合意をしております。

 最近では憲法解釈を巡って内閣法制局が政府の命令を聴くべきかどうかの議論がありますが、ここでは文部科学省は政府の政策に従うべきなのかということについて整理をしてみたいと思います。
 今から70年ほど前に大東亜戦争が起こりました。戦争をするべきかどうかは政治の問題であり、戦争をすると決めたら国民は一致団結し、戦争に勝つべく努力しなければならないことでしょう。しかし、こうした有事の際において文部省はどう動くべきでしょうか。陸軍省や海軍省、通産省、大蔵省などは懸命に戦争遂行に向かって働かなければならないでしょうが、文部省は「未来の子供たち」の教育を担当しております。基本的に戦争は数年で終わるものですから、子供たちには「戦後」に向かって、戦争にならないように他国の知識や国際情勢を教えておく必要があると思うのです。事実、第二次世界大戦が開始されてすぐに、アメリカとイギリスを中心として自由貿易体制が議論され始めました。戦後に有名になったブレトンウッズ体制は、日本が戦争を始めた年である1941年に始まっていたのです。戦争を始める時に、戦後の計画を立てるというのは進んだ思想ですが、戦争はある理想や概念のために戦うのですから、戦後の計画無くして戦うのは何のために戦っているのかがはっきりしないので、敗戦に繋がりかねません。
 つまり、政府はベクトルの違う目的に沿った政策を並列に行える構造を持つことが大切で、内閣総理大臣の意のままに政府が100%動くのは適切ではないということです。そして、政府の仕事には直接政策を進めるものと、政府の活動をチェックするもの、さらには未来に向かって活動を続けるものの3つの要素があるのではないでしょうか。文科省は未来を担う子供たちのために現在の政府のスタンスとは一線をおいて活動すべきであり、このような並列構造の概念が日本に定着することが大切だと思います。自分を政府と置き換えれば、この問題は何やら投資と似ているように思えませんか。

 <サイト管理人> 2014年3月13日記述



 【物事の裏を読めなくては投資のスタートラインに立てない】第358回

   20代の知人がフーガ(自動車)を前にして「すごいでしょ、この車の燃費は3000ccクラスの中で最高で、ガソリン代がさほどいらなくて経済的なんだよ」と言っておりました。私も大型排気量のセダンに乗っておりますが、彼に聞いてみると車は父親に買ってもらったということでした。この人は車を買った時に全体として必要なお金を知らないのです。車は親父が買ってくれるし、税金や車検代も払ってくれる。だから、日々かかるガソリン代だけがすべてと錯覚していることがわかります。しかし、この人間も家庭を持ち、サラリーマンになると違ってくるでしょう。購入代金から税金、車検、それにガソリン代を計算して、総合的に考えることができるようになります。良い大人が何もせずにお金をもらっているという状態は、人間をダメにしてしまうのかもしれません。

 先日あるニュースで六甲のケーブルカーに補助金を投入して1億2000万円を使って回生式にして「節電」してエコを達成したという記事がありました。節約できるお金は1年で26万円とされるから、投資に対する回収までに460年もかかることになります。補助金という財政出動政策には反対をいたしませんが、節電という表現でケーブルカーのニュースを締めくくるのは実におかしな話です。設置した電気回路や機械類の寿命が46年とすると、何の役にも立たないものを「省エネ」とか言って囃していることになります。なぜなら、電気というのは「ケーブルカーが走るときだけに使われる」ものではないからです。
 そもそも1億2000万円の電気や機械の設備を作るのにはそれなりの電気を必要とします。エネルギーと言うのはほとんど製品のコストに比例していることから、1億2000万円の値段をする設備は、それだけの電気を使うことを意味してもいます。だから、ストレートに460年分ということはできないのですが、少なくとも200年分ぐらいの電気を使って装置を作り、それを460年かけて回収することになりエネルギー資源の無駄遣いは酷いものとなります。ここまで来るとたちが悪いというような気もしますが、同じようなことが原発再開の問題でも起こっております。
 発電の種類をどうするかについて「原発はCO2を出さない」として、CO2対策費を石炭と天然ガス発電だけに加算して「原発が安い」としているのです。誰にでもわかることでしょうが、原発と言うのは作るときに大量のCO2を出します。なにしろ、セメント、鉄鋼、銅線などでできている原発だから、それらを製造したり、輸送したりするのに大量の化石燃料を使うのです。特にセメント、鉄鋼、銅精錬などは「エネルギー多消費型素材産業」で製造されるので、多くのエネルギーを使うのは当然のことです。
 とは言え、原発推進には奥の手があります。お役人の考えそうなことだが、「鉄鋼やセメントを製造するときにでるCO2は、それらの産業でカウントしているから、原発に入れるとダブルカウントになる」という屁理屈です。実は、「ダブルカウントになる」というのは国が産業ごとにどこでCO2を出しているかを調べるのに産業とCO2の排出量をだすのであって、発電方法の相互の比較では、実際にその発電をするまでに出るCO2をすべて足さなければならないわけです。
 このトリックは一時、電気自動車に使われたことがありました。電気自動車はCO2を出さないと放送しておりましたが、あまりにも科学とは違うので、今では電気自動車は走行時にCO2を出さないと言い換えております。しかし、その時にはすでに多くの人が電気自動車はCO2を出さないと錯覚していたのです。

 バリュー投資に望むことは否定しませんが、物事の本質を読めなければ何時梯子を外される状態にならないとも限りません。私がバリュー投資かつ短期投資を推進するのは上記のような経緯があるからです。トレンドという偽りには関わらないことです。あくまで企業の資産価値や安定した業績を残している企業のリバウンドを狙った短期投資しか自分を守る手段は無いのでしょう。

 <サイト管理人> 2014年3月16日記述



 【コピー&ペーストは良いことか、悪いことなのか】第359回

   ネット社会になり、どこかにあるサイトや論文のページをコピペ(コピー&ペーストの略:以下コピペ)して、それをパソコンで貼り付けることをする文化が一般的になっています。これは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。STAP細胞論文や博士論文で、コピペがあったというのでマスコミは無条件に「悪いこと」という前提で報道し、理研や学者もそれに追従しております。でも本当なのでしょうか。これは単なる「空気」とか「村の掟」ではないでしょうか。日本は法治国家、近代国家なので、故なきバッシングは望ましくないと思うのです。
 原則として学問で得られた結果は人類共通の財産ですから、だれがどういう形で利用しても構わないのです。つまりコピペは自由で、ましてや良いことになります。なぜ良いかというと、人類共通の財産を積極的に使うことを推奨しているからです。
 ただし、例外として学問で得られた結果のうち人類共通の財産にしない場合として知的所有権が定められていて、1)著作権(創造物に適応)、2)特許権、3)意匠権、商標権などがあります。もともと人間が生み出した知的なものは「人類共通の財産」として誰でも使えたのですが、18世紀になってイギリスで著作権が生まれ、続いて特許権も登場しました。特許権は、「発明はみんなで利用しても良いのだが、そうすると発明の意欲がなくなるので、審査をして期限を区切って権利を与える」という概念で、これは今でも変わっておりません。
 まずは、知的財産について法律(知的財産基本法、平成14年)を見てみましょう。第2条:この法律で知的財産とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう(条文はネットからコピペしました)。つまり、1)創造的活動、2)自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるもの、であることがわかります。自然科学には創造的活動はないので、2)だけの問題となります。そしてそれが何かを書いてネットに出したり、学会の論文として提出しただけではダメです。なにしろ権利ですから、1)権利を主張するのか、2)権利の範囲を示す必要があり、特許庁に自分の権利を主張することが求められます。その時に「権利の範囲」と「産業上の利用可能性」をはっきり書かなければならないでしょう。

 この問題はさらに議論する余地がありますが、とりあえず、学会に提出した学術論文には著作権はなく(創造物ではないから(注1))、権利の範囲が明確ではないから特許権もないということです。だから、コピペは自由ということになるでしょう。
 自然現象の「発見」はもともと自然の中に当然としてあったものですから、もちろんそこには創造性はありません。自然現象を利用した発明も発見であるとされていて、もともと自然にあるものを組み合わせて人間に有用なものにしたのだから、創造性はないと解釈されております。したがって、専門の書籍にも、裁判でも「理系の学術論文には著作権は及ばない」とされております。
 私のコラムにおいても内閣府のデータやといった事実を流用すると共に+識者のコメントに加筆することがあります。基本的にこれらの著作物は事実であるため著作権が発生しないものと考えており、そして、私のコラム・ブログの引用も自由に認めております。

 <サイト管理人> 2014年3月19日記述




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