Column & Blog 5


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[No,1〜No,39] [No,40〜No,79] [No,80〜No,119]
[No,120〜No,159] [No,160〜No,199] [No,200〜No,239]
[No,240〜No,279] [No,280〜No,319] [No,320〜No,359]
[No,360〜No,399] [No,400〜No,439] [No,440〜No,479]
[No,480〜No,***]

 No,160 【現代の投資における成功者の言葉から考える】
 No,161  【大いなる政治家田中角栄は二度と現われないのか】
 No,162  【二国間紛争について少々考える】
 No,163  【金融緩和によるインフレ経済移行の危険性】
 No,164  【世界中が日本の一人勝ちを認めざるを得ない状況】
 No,165  【海洋大国国家」としての日本と株式投資】
 No,166  【私が底割れ銘柄を買わない理由と美空ひばり】
 No,167  【クローン技術とiPS細胞の問題について考える】
 No,168  【スピリチュアルブームの問題点と株式投資】
 No,169  【勝ちながらも失敗を知ることの大切さ】
 No,170  【結果として長期投資に移行することの原因】
 No,171  【資産バブル世代や団塊世代の感覚がもたらす弊害】
 No,172  【インデックス投資と個別株投資から考える】
 No,173  【タバコ問題で洗脳される日本人の安易さ】
 No,174  【資産を作るためのステップについて考える】
 No,175  【学ぶこととは何かを改めて考える】
 No,176  【鉄鋼業と電力業から考える日本の発電政策】
 No,177  【そもそも不景気がなぜ悪いのでしょうか?】
 No,178  【日本ではなぜ「節約」が推奨されるのか?】
 No,179  【命とお金は比較に値しないことについて】
 No,180  【安倍発言から考えるインフレーションの副作用】
 No,181  【褒められると伸びるという現実の捉え方】
 No,182  【幻想病と両価性精神病について考える】
 No,183  【鉄の起源と神の時代から今の日本を憂う】
 No,184  【日本教という呪縛について考える】
 No,185  【資本主義の精神をウェーバーから考える】
 No,186  【指導者の資質・指導力の条件を考える】
 No,187  【日本の行方についてもう一度考えるべきこと】
 No,188  【神は存在しないのか、それとも神はいるのか】
 No,189  【折角ですので仏教について少々考える】
 No,190  【世界各国のGDP等から日本の立場を考えること】
 No,191  【孔子の言葉や儒教について少々考える】
 No,192  【東日本大震災と日本人の愛国心を考える】
 No,193  【藤田庄市から学ぶ「修行」とは何かについて】
 No,194  【昔読んだ角田光代さんの文章から少々】
 No,195  【丸山眞男と現代日本について少し考える】
 No,196  【量子物理学から国のあり方を考えてみる】
 No,197  【バッシングでは社会が良ならないことについて】
 No,198  【ねじれ国会が悪である風潮と解説員の資質】
 No,199  【なぜメディアは信用できないのかについて】

  





 【現代の投資における成功者の言葉から考える】第160回

 本節では現代の著名投資家の名言に私なりの解説を加えて、投資に関する考え方や姿勢をまとめてみたいと思います。

『マイケル・マスターズ』
 アメリカの株式投資家であり、独立系ファンドの創業者です。トレーダーの父の影響から幼いころに株式投資に興味を持ち、大学での投資学の講義受講を機に投資の世界へ進むことを決意しました。大学卒業後は株式ブローカーとして営業回りをしながら自分の資金を運用し、高成績を叩き出しトレーダーとして独立を果たしました。

・マイケルマスターズの名言・格言
「現金で残すことでトレード運用成績が安定する」
 彼は投資家にはふたつの目的があると考えています。資産を提供する投資家のために稼ぐこと、そしてその資産を守ることです。全資産の半分程度をキャッシュとして常に保持することで、株式投資の成果に安定がもたらされるというものです。ヘッジファンドの運営におけるリスク管理の観点からも、大口投資家への換金にせよキャッシュの保有は肝心で、個人投資家が自らの資産を運用する場合にも適う大切な問題と思います。大切なことは相場全体の急落局面における対処及びリバウンドを狙った買いの出来る資金を常に手元に保有することではないでしょうか。

「投資家は全員、自分の投資哲学を書き出すべし」
 彼が投資哲学を書き出した文章は数百ページになるそうです。それは実に骨の折れる単純な作業だったでしょう。しかし、その過程は売買手法の向上にとって非常に貴重なもので、どんな投資家にとっても、そうした哲学を記すことは大いに価値ある行為であると私も信じています。私のコラムは哲学とは程遠いものですが、毎回のコラムを通して自分の考え方というものを詰めて行こうと心がけております。私自身は短期トレードを基本としておりますので、中長期トレードの方には向かない内容ですが、いずれそうした方面の投資手法を確立し、掲載できればと考えております。


『ジョン・ベンダー』
 アメリカの株式投資家であり、オプション取引主体のファンドを運営しています。ペンシルバニア大学で生物物理学を学びましたが、株式投資の分析手法や研究に興味を覚え、自分の職とすることを決めました。その後、個人トレーダーとして活動し始め高成績を残し、自らのファンドを持つに至りました。

・ジョン・ベンダーの名言・格言
「その企業が知的財産権を持つかが投資成功のカギ」
 知的財産権を伴う製品を作るのでなければ、やがては企業の利益がゼロになります。ネット社会では企業の参入障壁を低め、知的財産を除けば競争にきりがありません。今や誰でも費用をほとんどかけずしてウェブサイトを立ち上げ、老舗企業と同じ製品を売ることも出来ます。手軽に運海空運業者を使えば、マーケット部門も流通センターすらも必要ないのです。大切なのはいかに価値ある製品を生み出すかにかかっていると彼は説いています。東アジアや東南アジア、南米の各国企業が台頭する中、日本の一流と言われる企業が苦戦をしております。エルピーダメモリにせよ、ルネサスエレクトロニクスにせよ、シャープにせよ共通して言えることは見せかけのハイテクに固執し価格競争に走ってしまったことが現在に至った理由なのでしょう。

「ポジティブ・フィードバック・ループ現象」
 ITバブルではポジティブ・フィードバック・ループという歪みが存在しました。インターネット株が上がれば更なるインターネット株の買いを誘発し、さらに株価が上がり続けるという循環です。この状態が長く続いても、次に来るのはネガティブ・フィードバック・ループに過ぎません。つまり、天井はわからなくても必ず底に向かうのです。ここで大切な問題は天井と底を捉えようとしないことではないでしょうか。株価の上昇に焦らず、株価の下落にも焦らず、手元資金を常に確保し、冷静に対処できる手法を皆様が独自に考えられることをお勧めします。

<サイト管理人> 2012年10月2日記述



 【大いなる政治家田中角栄は二度と現われないのか】第161回

 田中角栄という政治家を知らない世代も多くなりました。ロッキード事件の人ですか?であるとか、田中真紀子の父親、政界のフィクサーといった程度の話で終わってしまいます。どれだけの人が真の田中角栄を知っているのでしょうか。
 そもそも角栄があれだけの権力を握ったのはそもそも法律が作れたからに他なりません。戦後の政治家で法律を作れる政治家は田中角栄しかいなかったともいえるほどです。大臣になる前の10年で33本も議員立法を行ったのは有名な話ですが、これ自体に対して良いか悪いかと言うレベルで話す人はデモクラシーの内容を全く把握していない人でしょう。
 道路三法を作って全国の悪路を改善したことも重要ですが、国民に選ばれた政治家が自らの能力を活かして立法する。これこそが本来あるべき国会議員の姿でしょう。角栄がいなければ、日本は大都市圏のみが発展し、地方が衰退する現在よりも都市偏重型の日本になっていたかもしれませんが、そうしたことはここでの議論の対象とはなりません。大切なことはそもそも国会が立法府であり角栄が多くの立法をしたことなのです。少なくとも角栄以後の日本では法案を官僚が作っています。私は官僚が無能とは思っておりませんが、それは全く民主主義ではないのです。当たり前の話ですが、アメリカ合衆国では完全に立法府が法案を作っています。
 なお、角栄問題を議論する時には必ず金権政治が出てきますが、大いなる政治家には二義的について回った些細な事柄に過ぎないとも理解できるでしょう。当時の貨幣価値でも数十億円といったお金はたいした金額ではないのです。注目すべき点は彼の汚職ではなく、デモクラシーにとって重要なこと、再三になりますが、国会議員が自らの能力で立法できる能力を有することなのです。

 現在の日本にはデモクラシーが存在しません。「政治家は公約を守らなくてはならない」という当たり前のことを多くの人が理解していないのです。公約を違えてもその政党を、またその政党からなる内閣の支持率は0%にはなりません。公約の是非に関わらずそれを違えた場合には直ちに辞職するのが筋になります。この点はアメリカやイギリスではありえないことで、日本独自のいびつな文化なのでしょう。この国の人々には明治維新のようなデモクラシーの初歩の心すら無くしてしまったのかもしれません。公約ひいては約束を守らないことへの責任感が欠損してしまったのかもしれません。どうやって日本人を分解しても日常生活レベルにおいてすらも約束を守るということができないのであれば、民主主義制度の適用に難があることになります。決してそのようなことはあって欲しくありませんが、現実でしょう。
 極論になりますが、日本に民主主義を確立させるには独裁国家や軍事政権が成り立った方が良いのかもしれません。そうした独裁的な政権を妥当する動きこそが本当のデモクラシーであり、そこまでいかなければ日本は変らないでしょう。しかしその機会は現在において残念ながら皆無と言って良いでしょう。日本は先の大戦に負けたのです。戦争に勝っていれば軍事政権がいっそうの権力を増し、軍人が威張り返り、その暴圧に耐えかねた日本国民によるクーデターが起きることから真の民主化が起こ得るのかもしれません。そして歴史は繰り返すように、いつしかまた軍事政権ができるのかもしれません。そしてまたクーデターに発展するのです。真の民主主義とは国民の総意によって現在の状況を打破することから始まります。しかし、日本の国民に意識(意図した見識)など無く、かく言う私も以前のコラムに書いたように選挙権を放棄しています。それだけ魅力が無いこの国に何かを期待すること自体に問題があり、私も含めた個人の資質に問題があるのです。投票ではなく自分で議員になる度量を多くの人が有することが肝心なのでしょう。それが新たな角栄を生むデモクラシーの始まりなのです。

 さて、話を戻しますが、私が角栄について何かを話す時には必ず「もしも」や「仮に」がどうしても多くなってしまいます。それは田中角栄が故人であること、現在の政治家で田中角栄の指先程の人間がいないことが起因してのことです。それだけ角栄が力のある魅力的な政治家であったということでしょう。彼の存在そのものがデモクラシーであり、日本が唯一近年において生きていた時代なのかもしれません。
 彼が目指したものはアメリカとの軍事同盟を保持しつつ経済関係では敵対、日中、ひいてはソ連との経済での同盟、軍事での対立という壮大な中間的な立場をとる計画だったのかもしれません。当時のソ連は経済は最低の状態でした。ですから、ソ連への多額の円借款で十分な利回りを確保できた可能性もありますから、消費税などという脱税税を作る必要がなかったでしょう。また、北方四島どころか樺太までをも返還させしめることも可能だったかもしれません。さらに角栄は国民の意識革命をもたらそうとしたのかもしれません。最終的には善と悪とは何かを考える事、それを絶えず追求して行く事、今自分の行っている事は宗教的、人道的に正しいかを国民が考えて行く事でなのでしょう。

 株式投資は資本主義経済における個人の内的資質(民主主義)に根ざした行為です。自らの意思を確立し、トレードに決まりごとを設けるといった立法にも通ずる行為を通して、行政ともいえる買い入れ及び売却を行うというある意味で政治的な行為です。皆様も田中角栄に学んでみませんか。

<サイト管理人> 2012年10月4日記述



 【二国間紛争について少々考える】第162回

 さて、今回考えたいのは竹島問題です。この数年竹島は日本の領土と主張する報道が日々なされておりますが、私なりの解釈を記してみようと思います。ちなみに、私は竹島問題は二国間では永久的に解決できない問題と考え、第三国(アメリカ合衆国)に仲介をしてもらわなければどちらの国にも帰属できない領土と考えております。ですから、直ちに日本のものであるとか、韓国のものであるとかの断定的な思いはありません。願わくば歴史的経緯から日本のものと評価されるべき気持ちでいる状況です。なお、1951年に韓国政府はアメリカ政府に対して日本が竹島に関する全ての権利を放棄するよう要求したことがありましたが、これに対してアメリカ政府は「竹島は韓国の一部として取り扱われたことがなく、1905年頃から島根県隠岐庁の管轄下にあり、この島は朝鮮によって領有権の主張がなされたとはみなせない」として韓国の要求を却下しております。

 そのような経緯の中、昨日のニュースで竹島に生育している常緑低木のマサキを天然記念物に指定したとの報道がありました。マサキという木は韓国国内に多く自生してものですから、本来指定の対象とはならないのでしょうが、韓国政府は「国土の竹島を100年以上守ってきた象徴的な価値が高い」と説明しております。そもそも韓国政府は1982年に竹島自体を天然記念物に指定しておりますので、今更木一本を天然記念物に指定したことは末期的な政府の政策的なパフォーマンスと捉えるのが一般でしょう。しかし、木を天然記念物に指定したことで、改めて竹島全体を記念物に指定して20年以上経っていることを直感的に考えさせられるのは私だけでしょうか。

 日本の法律で考えると、20年以上もの支配となると、取得時効に値する期間になります。民法162条に規定されている通り、取得時効は、他人の物または財産権を一定期間継続して占有または準占有する者に、その権利を与える制度になります。消滅時効とともに時効制度の一つです。少々解りにくいと思いますので具体的な例をあげますと、AさんがBさんの土地に勝手に家を建てて20年間住み続けた(占有)とします。この場合、AさんはBさんに時効が完成したことを主張して、本来は他人(Bさん)のものであった土地の所有権を取得することができるのです。ちなみに、取得時効により権利を取得することを時効取得といいます。日本国において所有権を時効により取得した場合、既に竹島が登記済みならば、仮に時効取得が成立したことによって申請できる登記は所有権移転登記になってきます。
 ただし、時効取得は占有者が所有の意思をもって平穏かつ公然に他人の物を占有することによって成立すると書かれておりますから、日本政府の対応によって取得時効の成立は永久的に適わないことになります。つまり、占有というのは一定期間にわたり平穏に継続しなければならないわけで、占有者が任意にその占有を中止したり、他人によってその占有を奪われた時には時効が中断するのです。現状占有が平穏ではないことから、時効取得という考え方は成り立たないと思います。
 ここで考えなくてはならないことは、単に竹島は日本のものだと叫ぶことだけではなく、韓国が1953年からはるかに20年を超える期間を占有支配している恐ろしいこと自体を冷静に受け止め、国際司法裁判所への単独提訴を続けることの意味も踏まえ、具体的な対応方法を考えることでしょう。繰り返しになりますが、既に日本国において竹島は日本固有の国土としながらも、所有者は韓国になるという構造になりかねない期間が経っているのです。

 日本政府の対応として理解できないのは、竹島の所有者名と、登記簿謄本、固定資産課税台帳といったものすら出さないことです。つまり、竹島の所有者に関しては国有地であるとか、個人所有であるとか明確な根拠を示すデータがありません。登記簿は島根県の法務局で閲覧出来てしかるべきと思いますが、現状それは可能なのでしょうか。私は出来ると聞いたことがありません。日本国政府の対応といいますか、竹島は日本のものだと叫ぶだけの日本人ののんびり度合いには納得がいきません。
 恩と義理という概念は旧来より日本に根ざした美徳でありますが、義務と権利という概念が日本人にとって馴染まないものであるならば、日本人の釣り好きが竹島でイシダイ釣りが出来るようになる日は永久に来ないことになります。

 「株式投資のつまらない話と領土問題を同じにするな」と言う人も多いでしょうが、あえて綴りますと、両者の間には恩と義理は一切通用しません。恩と義理は大切な心の話ではあるものの、具体的な行動の為には自分の中に買い入れる条件(閾値)とも言える義務を徹底付け、利益確定や損益確定という権利を行使するものなのです。全ては自己責任なのです。株式投資でも領土問題でも不利益を被った際に悪いのは誰々のせいだというのは実に情けないことではないでしょうか。

<サイト管理人> 2012年10月5日記述



 【金融緩和によるインフレ経済移行の危険性】第163回

 昨今では、マスコミを通して「デフレーション」こそが悪であり、「インフレーション経済になれば必ず良い将来が訪れる」という考え方が正しいと国民が洗脳されているように思えます。仕事を探すのが難しいのもデフレ経済のせいであり、インフレ移行すればこの最悪の状態から抜け出すことができると宣伝しているのです。

 しかし、冷静に考えてみてはいかがでしょうか。現在名目上日本銀行で行われているデフレ対策は、日本銀行の積極的な金融緩和によって市場に資金を大量供給し貨幣価値を低下させることでインフレを引き起こすというものです。しかし、このやり方では、インフレになったところで、無借金の資産家だけが喜ぶ結果になります。住宅ローンを抱える人や経済的に困窮している人々の状態は改善しないと考えられますし、むしろ極端に悪化するのではないかと危惧しております。

 以上のことを順番に説明してみます。
 まず、インフレには、現物によるインフレと、貨幣操作によるインフレの二種類に大別されます。現物によるインフレは、細かく言えば需要側による要因と供給側による要因に分けられます。簡単に言いますと、前者は実物経済の好転、つまり、需要増加が牽引するインフレであり、後者は鋼材価格が上昇するなどにより発生するインフレです。日本経済に本来必要なインフレーションは、前者の需要サイドの要因によるインフレであり、これならば、雇用環境も改善し、未来は明るいものとなるでしょう。また、このタイプのインフレの場合、物価が上昇したら需要が弱まるという相関関係にありますので、必要以上に物価は上昇しないため、ハイパーインフレには繋がりません。

 インフレーションを大別したケースの、もう一つのパターン、つまり貨幣の発行を伴う要因によるインフレーションは、単純に貨幣価値が下落することで発生させるものです。結局政府の政策はこのパターンのインフレを狙っているからこそ問題なのです。このインフレは同じインフレでも決して良い結果をもたらすものではないでしょう。

 貨幣の価値というものは、際限なく下落します。その価値は、それに対する人々が価値を認めることによって成立っているからです。極論ですが、お役所に札束が積んであり、これをいくらでも持っていって良いとなれば、誰も1万円札の価値を認めなくなるわけです。
 また、こうした状況では、企業による雇用は増えないでしょう。来客が増えるばかりでなく、売値も上がるような状況ならば企業は将来の売上げや利益を見越して雇用を増やすと考えられますが、近い将来の価値すら保証のないお金を持ってくる人が増加しても、製造原価そのものの先行高騰から儲けが見込めません。よって雇用を増やす機能は果たしません。

 ここまで書いてもまだ納得できない人の為に、政府主導による金融緩和のインフレを期待することがいかに愚かであるかをもう少し説明します。

 日銀にさらなる積極的な金融緩和を求める人々は、この種の貨幣価値の低下によってインフレを発生させることを求めているとしか思えません。金融緩和で貨幣価値を微妙に下げること(実質的には1〜2%のインフレーション)は、とても至難の業なのです。大量の貨幣供給を目の当たりにして、人々の貨幣に対する価値観が集団の心理で変わり始めたら、その変化は一度に爆発する可能性が高いでしょう。そうなれば、個人金融資産の過半を占める預金は大きく目減りするばかりでなく、金融商品を始め、貴金属投資といった投資行動に拍車をかけ、預金引きおろしの取付け騒ぎにすらなりかねません。
 さらに、インフレになれば所得が上がることから、豊かな生活を送れると解説する人もいますが、名目に過ぎない給与がいくら上昇しても、物価がそれ以上に上昇することを考えれば、実質の所得は低下し、購買力は下がるのです。言い換えれば、生活は今より遥かに貧しくなるでしょう。インフレ兆候が見られてすぐに、インフレ率以上に就労者の給与を上げる企業はまずないでしょう。


<貧富の格差が広がることについて>

 「貧富の格差」が拡大している要因をデフレーションに求めるコメンテーターや学者もどきの人もいますが、これは完全に的外れです。過去二十数年以上資産価格が上昇しない状態が継続していますが、このことに苦悩しているのは資産家なのです。デフレーション環境下では、資産のほとんどが銀行預金である人と資産家の格差は逆に縮小しているのです。
 インフレーション状況の方が、資産家の富は増え、貧困層の購買力は低下します。よって、インフレ経済の方が、貧富の格差は大きくなってきます。常識のない富裕層で、保有資産に対する銀行預金の割合が大きい人は、インフレーション経済に移行したら自分が困るということを認識されたほうが良いでしょう。

 インフレは本来、日本が抱える構造的な問題の改革や税制改革、様々な規制緩和などで需要を呼び起こすことから起こすべきものです。政府主導の金融政策による貨幣価値の低下からないし、国民の預金価値を下げることから起こすことはあってはならないのです。

 私が株式投資を行っているのはデフレーション下でもリバウンドを狙った利益を得られることと、間違った金融緩和政策による最悪の結果ともいえるハイパーインフレへの備えの為です。たいした資産もない私ですから、対処するといってもできることは限られていますが、この問題は資産額の大小ではなく、多くの皆様がインフレーションに対する認識をしっかりと持ち、事実を知ることから始まるものだと思います。

<サイト管理人> 2012年10月6日記述



 【世界中が日本の一人勝ちを認めざるを得ない状況】第164回

 2008年のあからさまな経済不況以降、世界中が日本の一人勝ちを認めざるを得ない状況にあり、日本に助けを求めている現状があります。

 アメリカ合衆国は深刻な財政赤字を抱え、ドル安から輸出を増大させる政策をとっています。環太平洋パートナーシップ条約への参加を日本に求めるのも、日本の巨大な経済力を利用して自国を立て直そうという考えがあることは確かで、オバマ大統領が国内向けに雇用増加を強調した裏にあるのは自由貿易による景気向上なのです。

 そして言うまでもなく大きく弱体化したのは、ユーロ加盟国です。第二次世界大戦後、日本がアメリカと肩を並べるまでに成長したヨーロッパ市場は霞んでいました。そこでマーケット規模を優先するという考えから、各国の市場を統合すれば世界のマーケットの一角を担えると加盟国家を増やしていったのですが、もともと経済規模の小さく生産性の少ない観光立国ないし金融立国を多く取り込んだEUはアメリカ合衆国とは比べ物にならない程の打撃を受けたのです。リーマンショック前まではドル建てからユーロ建てへと取引の決済が移行していた状況からすれば、惨憺たる状況です。よく2008年のサブプラムローン債の破綻はアメリカ合衆国の仕組んだ罠というコメントを耳にしましたが、そういう経緯があったからこそ生まれた幻想なのかもしれません。
 なお、現在の状況をEU加盟国内でクリアできないとなれば、IMFを頼るしかありませんが、そこで大きな力を持つアメリカ合衆国には資金を出す余裕がなく、頼みの相手は日本と中国だけといってよいでしょう。しかし、中国は出資の為の担保などの条件を付けていますので、EU諸国としては利回り以外たいした要求をしない日本に出資を願い出るのは当たり前のことなのです。

 出資可能な大国である中国は、日本の開発技術力を何とか得ようとしています。正当なる対価を支払わずにいかに技術を盗みえるかが課題という変わった国柄(領域)なのです。
 世界の工場と呼ばれて久しい中国ですが、現在のことろ世界の組み立て工場」の域を抜け出ていません。電化製品を始めとした多くの製品の核になる部品は、日本製なのです。ハイテクと言われる部分を完全に抑えているといっても過言ではありません。
 日本は中国に対し、モラルを守れない、世界標準を理解できないならば工場誘致を含めた投資をしないといえる地位にあります。しかしそうさせないために、友好親善と、領土問題を含めた右傾化への懸念という対応を交互に使い分けて日本にプレッシャーをかけます。そろそろこの無意味なループから抜け出すと共に、東南アジア諸国への更なる生産シフトを行う必要があるでしょう。

<サイト管理人> 2012年10月9日記述



  【海洋大国国家」としての日本と株式投資】第165回

 前回のコラムの通り、現在の世界各国は日本が頼りになっていますが、そこで日本はどのように対処・対応するべきか、今後の戦略を練るのかという問題に発展してきます。

 そもそも「戦術」とは概念として、一般に一個師団やそれ以上の大戦闘単位の軍事行動を計画・組織・遂行するための通則を指します。国家戦略や企業戦略のように非軍事的な分野に応用されることも多くなっています。
 よって日本のとるべき戦略は「ただ誰に寄り添えば済む問題ではなく、相手の国を自らの望む方向に誘導すること」であるのですから、相手が欲する状態や、相手が擦り寄ってくる時は絶好のチャンスであり、こちらの言い分を主張する貴重な機会になります。まずは救済融資の担保には何を取ればよいかを、あらかじめ考えておくのも重要な要素になるでしょう。前回のコラムに付加すれば、中国という領域に対しては「日本の技術がほしいのであれば相応の支払いを」と直接求めればよいのです。こう書くと、「そんな話が中国に通用しますか?」といった反応が日本国民からすぐに返ってきます。もしくは、「中国が大きく反発する」と心配する人も多くでてくるでしょう。
 実際にやってみる度胸がないのが「戦後派」の特徴ですが、その「戦後派」も東日本大震災を機に日本社会から後退していくでしょうから、これからの日本は優位戦を戦える人材が出てくるものと思います。これは日本にとって明治におけるデモクラシー以来初といってもいい状況なのです。

 日本は世界第一の軍事大国であるアメリカの同盟国です。そのうえ誰もが認め恐れる経済大国なのですから、日本政府及び日本企業の正当な主張が通らないと考えるほうがおかしいのです。これまでも、世界からはなぜ日本は国力に見合う主張をしないのかと思われ続けているのです。

 しかし、「戦後派」の日本人には震災前にはわからない問題だったのではないでしょうか。国土の狭小さゆえにか、あまりにも自身を小さく見る癖があったのです。謙虚にすぎるのです。私が思うに、それは冷静な分析に立ったものではなく、一種の美徳・文化ともいえる態度で、ドイツやフランスなどのヨーロッパの列強が、相互の国力比較をまず領土面積から始めたのを見習ったにすぎません。東西南北に広がる海洋は広大な勢力圏で、進出可能な領域はとても広いのです。日本は「海洋国家」として見れば、もともと大国なのです。

 株価の低迷が続いておりますが、企業の財務内容の悪化は事実です。しかし、それ以上に日本の国力が強大な為、為替が強い状況にあることからの円高から日本の株式は割安ともいえないのです。よって株価の大きな反転は期待しずらい状況にありますが、為替を注視すると共に、実体経済を反映しない大きな相場の下落は絶好の投資のチャンスと捉えられるでしょう。ですから今現在の日経平均株価やTOPIXが割安と勝手に思い込むのは危険でしょう。

<サイト管理人> 2012年10月11日記述



 【私が底割れ銘柄を買わない理由と美空ひばり】第166回

 美空ひばりという歌手が亡くなられて二十余年が経とうとしています。私は「美空ひばりという歌手は天才ですか?」と聞かれれば「もちろんそうです」とお答えします。しかし私は彼女のCDを一切聞きませんし、テレビやインターネット動画で姿を見ることもしません。それは私自身が恐怖を感じるからです。美空ひばりの世界に引き込まれ、何も考えることを許さないからといえます。画面を通じての状況でさえ、そこに引き込まれてしまうのです。

 完全なまでの音感、声色、表情、しぐさ、そのどれをとっても一流であり、それぞれが相まって美空ひばりだけの空間を作り上げます。ですから、彼女の歌う曲の歌詞など何の意味もなさないのです。そこにあるのはどこまで行っても底なし沼の美空ひばりなのです。一人でオーケストラやミュージカルを同時に行っているような彼女は魔女にすら思える程です。また、美空ひばりという人の心が全く読めません。歌いながらも何を考えているのか、また、歌詞をどう捉えているのか、ひいてはその歌を好んでいるのかすら観えないのです。彼女が抱える私生活や思想・心情を表に出していないからかもしれません。

 本来歌を聴くのには何も考える必要が無いのかもしれません。それが好きなら聴けばよし、そうでない人は聴かなければいいと片付けられるのです。しかし、私には不可解なものをそれとして受け入れるないし遠ざけることが出来ませんから、どうしても考えずにはいられないのです。そして美空ひばりという偉大な歌手を認めるかどうかについては今のところ結論には至っておりません。ただ恐怖から彼女の歌が聴けないという歯がゆい状況が続いております。

 ここから株式投資の話に移りますが、美空ひばりを受け入れ難くとも気にせずにはいられないという状況は底割れ銘柄に近づけないという感覚に通ずるところがあるように思います。私が底割れ銘柄として意識して見る株はファンダメンタルズで見てあきらかに割安であり、財務内容、収益性も安定しているものが大半と思っています。しかし、これでもかという程値値下がりを続けます。日経平均株価には連動せず、日経平均採用銘柄でありながらPBRも連結ベースで0.5倍を平気で割ってくるのです。私には魔女がこの裏に潜んでいるような気がしてなりません。ファンダメンタルズで判断すれば明らかに割安なのです。しかし買い手が圧され続けるのです。

 最近の株式市場を見ていますと毎日それなりの出来高がありますが、このうちの多くは外国人投資家と国内機関投資家が占めており、ほんの一部として個人投資家が参加している状況です。プロ同士が売りと買いのせめぎ合いをしており、売り崩されれば大きく底割れ、どこで株価の下落が止まるのかの判断すらつきません。このような分析不能な環境では、単に割安株へ投資を行うことは正しい投資手法とならないのです。本来の割安株への投資とは一般的に割安と思われる株価になったら投資をするという手法ですが、今の株式市場では割安そのものの判別が難しく、割安領域に入っても下げ続けるという事が普通に起こっているのです。信用も含め買いから入るケースで売り崩された国内外機関投資家や個人投資家はひとたまりもありません。それだけ大きなお金が動いているということなのです。資金があれば投資で勝てるとはいいませんが、巨大な資金を持った投資家同士がせめぎ合う中で生まれる理解不能な銘柄(株価)には近づかないことが勝率をあげる為の秘訣に思います。中長期的なスタンスという逃げ道で底割れ銘柄を抱え、含み損を認めない人や、ホルダーになっている人は異次元の魔女にとりつかれているのと同義に思えるのです。一度ロスカットを行い、冷静な目で見たら良いと思われます。とりつかれることの恐ろしさが身にしみてわかると思うのです。底知れぬ世界が広がっております。自分の力で理解できないことや状況を分析することそのものは大切ですが、そこに手を出しはまり込んではならないと考えます。距離を置いて魔女をただ客観視する冷静さが大切に思うのです。

<サイト管理人> 2012年10月13日記述



 【クローン技術とiPS細胞の問題について考える】第167回

 私が始めてクローン技術の存在を知ったのは小学生の頃で、アニメ映画の中で実用化といいますか、実際に行われているシーンがありました。そもそもクローンの技術は体細胞中の遺伝子情報を含む核そのものを受精卵などに導入し、クローン胚と呼ばれる細胞を作る技術になります。人間のクローン胚を母胎内で成長させると遺伝子情報を提供した人間と同様の遺伝子情報を持った人間がもう一人誕生するというものです。早い話が人間のコピーを作ることなのです。この技術を応用すれば人間と動物の細胞を交配することから新たな生命体を作ることも可能になります。
 この技術を濫用しますと、クローン人間に対する生命の考え方や、臓器を取り出すことを目的とされたクローン人間の身体の安全が確保されないなど、モラルの維持などに大きな影響を与える可能性がありました。そこで、2001年だったと思いますが、クローン技術規制法により該当する技術の行使や実験研究の大半が禁止され、その一部が厳重に管理されるようになりました。
 私自身以前勤めていた会社では交配用の機器である手動マイクロマニピュレータの開発販売などを行っておりました。無論、動物実験用として販売されておりましたが、現在は発売を終えております。

 以上を堅苦しく表現せず、道徳的に表現するなら、クローン技術は、「オリジナルの人間を作る」技術になり、そこで誕生したクローン人間の権利をどうするのかが定められないのです。クローン人間であっても人格は全く別個と考えられるからです。別の人格を持ったコピー人間の臓器をオリジナルへの移植の為だけに使うというのは、コピー人間の人格の否定や他殺行為と違わないのです。コピー人間に普通の人間と同様の人権があるのならば、臓器移植に使うには、クローン自身の同意が求められますし、心臓や肝臓といった重要な臓器の移植はできません。
 ES細胞というものもありますが、こちらは受精卵を使いますので、生まれてくるべき命を犠牲することで、やはり倫理的な問題が残ります。キリスト教圏では大きな問題です。

 それに対して、iPS細胞から作れるのは人間そのものも含まれますが、一般的には臓器や皮膚などのパーツになります。よって、iPS細胞から作られた臓器はおそらく意志を持つことは無いと思います。他人の心臓を移植するケースにおいて、ドナーの記憶が移植後の人間に現れるということもあったようですが、この点については素人の私は何も語ることは出来ません。とりあえず、倫理的問題に関してはクローン技術とは一線を隔するものとなりうるでしょう。クローン技術にしても、iPS細胞にしても、ES細胞にしても、人間がその力で人やそのの部品を作ってよいのかという問題はついてまわります。倫理的問題です。
 クローンやES細胞を用いたものよりも倫理的な問題が軽いという安易な発想のみから研究を大々的に進めるのはどうかと思います。人の命は有限のものであり、病気にせよ、寿命にせよ、それはその人自身の遺伝や生活も含めた全ての要素が絡み合って決まるものだからです。天命という考え方です。

 以上のことは私には何やら人生のやり直しのようにしか思えてならないのです。科学が誤った方向に進むことを危惧しておりますし、科学が万能であるとも思っておりません。従兄弟の脳科学者は脳科学によって心理学や哲学を否定するかのような著書を書いておりますが、科学に依存しそれを崇拝することは歴史や文化、他の既存学問分野の否定に繋がることでしょう。もちろん新しい歴史はこれから生まれ、そこに科学が介在してもおかしくはありませんが、今の科学技術は分野を問わず進みすぎているように思います。私達はそのひとつひとつについていくことが出来ない状況です。スマートフォンですら多くの弊害が出てきております。一度出来上がった技術を受け入れた社会はそれを否定することは出来ないでしょう。だからこそ慎重になったほうが良いと思うのです。科学の発展は重要なことではあるものの、それが万能ではないからこそ十分な検証、そしてモラル、倫理的な方面からの検討が求められるように思います。

 株式投資においても科学(数学・波動工学)を応用したテクニカルトレード手法があります。しかし、大半の人間が予期せぬリーマンショックは起こりました。世界に名だたる大手の銀行や保険会社、自動車メーカーが公的管理下におかれ、大手のヘッジファンドが倒産したのです。経済は永遠に成長するというパラメータの上に立った科学的な現代のシステムトレードが起こした世界同時恐慌です。科学は国家の政策としても経済的にも大切なものであり、日々成長を求められていることは否定しません。しかし、実生活レベルにおいては出来る限り科学に依存せず、豊かな心を養い、人としての尊厳を保つといったことはiPS細胞の問題にしても株式投資にしても同じことに思うのです。

<サイト管理人> 2012年10月16日記述



 【スピリチュアルブームの問題点と株式投資】第168回

 スピリチュアルが近年ブームとなっています。しかし一般的に言う霊力はスピリチュアルではありません。人を聡明層に導くのならば良いのですが、個人主義の努力を伴わないご都合主義になってしまっているのが現在のスピリチュアリズムでしょう。如何にして心の安寧を得ようとするかというオカルト以下の稚拙なものなのです。
 人間はそもそも弱いからこそ、自我を確立させる為の努力をしなくてはならないにも関わらず、前世ではすごい人でした、前世は不幸でしたので今は・・・、来世では幸福になれますなどという言葉に惹かれる人が私の周りでも後を立ちません。
 来世では幸福になれると言われた人がなぜ現世で幸せになれないのでしょう。私は釈迦の仏法は支持しておりますが、そもそも輪廻転生は心の問題と捉えておりますので、個人的には来世があると思っておりません。ですから、前世の問題や、来世で幸せになれるなどというのは似非でしかありません。結局儲けるのはスピリチュアルを行う似非霊能力者なのです。所詮は詐欺の一部でしょう。なぜこんな寄せ集めのパッチワークの集団に騙されるのでしょう。

 かつての現世肯定・利益に繋がる宗教は体制・国家にとってメリットがあります。メリットとは現世肯定が国家への否定に繋がらないからです。ですから今に至るまでスピリチュアルに関係した団体や人物は規制も無く野放しになっいるのです。

 そもそも多くの日本人は意欲がなくなったからこそスピリチュアルに頼るのかもしれません。高度経済成長時は現世飛躍のものが多く、現代日本では来世飛躍を求めるいい加減な団体が多くなっている傾向があり、ますます増加の一途を辿っているようです。細分化され、一見はそれと気付かないものも存在しております。
 修行や修養すらしたくない、自分探しの旅をしたい、あなたは選ばれた存在なのに今はたまたま不遇であるという逃げ道を選んだ人はその時点で終わった人でしょう。そんな人に限り、他所で苦しんでいる人を見てもその人はその人のカルマであり、知らんふりを決め込む傾向があります。実に身勝手な個人主義です。
 また、自分がそれを発見した、自分が一番偉いという感覚を持ちたいが為にスピリチュアルを利用している人が多いことも事実です。この点に関してもとても幼稚なものと思います。そもそも努力なくして、自己否定なくして自己の伸張や幸福感は得られないでしょう。自らを客観的に見て感じた不遇は自ら解消するしか道は無いのです。これはリアリズムに根ざしていますが、この世は現実ですから、受け入れて当然のはずです。

 株式投資でもこうした傾向が顕著に現われます。自分は選ばれた存在だから失敗するはずが無い、自分だけの銘柄を探す、トレンドに乗ろうとする、小型株に目を向けるといった人が後を絶ちません。これでは大口投資家に利用されたシステムトレードの餌食になること必定です。
 自分だけ、自分は特別な存在、他人の問題は自分の問題ではないという感覚を捨てなければ一生株式投資で成果をあげることは難しいでしょう。そして、株式投資において損失を出した人間に対して一部の成功している人間が自らの力を分けず、そして何ら主張をしないことを私は認めたくないと考えております。このサイトでは具体的な銘柄や買い入れ時期を明示しておりません。そこまでの責任を私自身が負えないからです。しかし、このコラムを通して株式投資に対する考え方やスタンス、リスク管理の方法を少しでも知っていただけたらと思い、記述を続けております。

<サイト管理人> 2012年10月20日記述



 【勝ちながらも失敗を知ることの大切さ】第169回

 私は本コラム全体を通じて過去の成功には理由があること、そして勝つ為の株式買い入れ条件(閾値設定)の大切さについて説明してまいりました。株式市場に参加している人は誰でも成功を求めており、始めから失敗をしたいと思う人は皆無に近いでしょう。ですから、人情としては一度の投資に成功をすればそれに満足し、その原因や問題点を考えないことはやむを得ないことです。
 しかし、何事も失敗の可能性は成功の内にあると言ってよいでしょう。成功の理由やその原因を考えない間に感覚が麻痺して正常な判断や行動がとれなくなるのです。これは栄枯盛衰の歴史を考えても明らかなことです。精神は必ず腐敗するという宿命をもっているものです。成功によって芽生える間隔麻痺が一番も危険なのです。
 またここで述べたいのは、株式投資において利益を出したとしても、すべての銘柄で、全ての局面において成功しているわけではありません。決してパーフェクトを求めてはなりませんが、短期的に見て最安値で買い、最高値で売るなどということは出来ないはずですから、完璧な投資はまず行えないこととなります。これはサッカーの試合でも同じことです。最終得点では勝ったとしても、その過程では、相手に得点を許すという大きな失敗や、サインのミス、パスのミス等、素人目にも見える失敗が多々あるものです。
 「投資で成功したからそれで終わり」、「結果が出れば良い」ではないのです。買いから売りまで間に目に見える失敗と見えない失敗が多くあり、それが後々の大きな失敗になりかねないのです。

 より高いレベルを達成するためには、成功の陰の失敗を見る事が大切です。明らかに失敗をすれば、否応なく、その事実を直視し、その対策を講じなければなりません。それすら出来ない人は最初から株式投資市場に参加する資格の無い人で、結局失敗の理由や言い訳に明け暮れるだけでしょう。
 成功した際に、「成功の中の失敗について原因を探す」「大きな成功の中の小さな失敗の反省をする」という行動を取れる人間が結果として投資で勝利をおさめられるのです。「そんなことは必要ない」「そんな後ろ向きなことよりも、前向きに成功要因を検討しよう」では片方しか見ていないのと同じです。前方ばかりに気を取られ、背後からやってくる敵(失敗)に攻撃を受けるまで気付かないことでしょう。そしてその一度の攻撃が致命傷となり投資人生を終わらせかねないのです。多くの市場参加者がサブプライムローン債の破綻が招いた恐慌の標的になり、おおよそが株式をただ持っているだけの状況になっているのです。これは事実上の退場を意味します。
 再三になりますが、成功要因の分析は大切なことです。それと同等に大切なことは、成功の中にある失敗を誠実に捉え次回の投資に生かすという冷静な姿勢を持つことが必要です。

<サイト管理人> 2012年10月22日記述



 【結果として長期投資に移行することの原因】第170回

 「株式投資は長期投資が基本」とするコラムニストやアナリストが多いと感じるのは私だけでしょうか。そして、それを実践している個人投資家も多くいらっしゃいます。長期投資を全て否定するつもりはありませんが、そもそもなぜ長期に拘るのでしょう。この理由は多々あると考えられますが、私は短期投資に失敗した挙句のホルダー、つまり、結果としての長期投資になっている人が多いと思っております。別の角度から長期投資を行っている人の感覚を探ると、長期投資というスタンスが考え方として受け入れられやすいという点が挙げられます。また、経済成長期に多くの日本人が経験した資産バブル信仰も介在しているものと思われます。個人投資家の大半は人生経験に則って、株価は長期的に上昇するものという思い込みを抱いているようです。

 長期投資という考え方と言いますか、一種の逃げ道こそが、多くの個人投資家の失敗の原因なのかもしれません。できるならば個人投資家は投資を始める前にこのことを知る必要があるでしょう。私自身投資を始めた直後に知ることとなりました。
 株式投資では修復不可能な失敗を避けなければなりません。個人投資家にとって株式投資での修復不可能な状態といえば、買った株が買値より大きく値下がりし、多額の含み損をかかえた塩漬け株が発生してしまうことに他ならないでしょう。

 長期投資においてもロスカットをしないことの言い訳をする投資家は、株価が買値より下がっていても一時的なものであり、長期的に保有し続ければいつか値上がりに転じると仮定して自分を洗脳しているのでしょう。また、本当はロスカットすべきと思っていてもその実行に際し強い抵抗があるため、そのままホールドし続けロスカットから逃げてしまっているでしょう。
 そもそも、株価が買値から想定を超えて下がったということは買い入れタイミングを完全に間違えたことを示しています。ですので、本来的には早めの対応が必要とされます。ロスカットという審判を先延ばしにした結果、さらに含み損が拡大すれば、その実行はなおも困難なものとなるでしょう。10年単位で長期投資を続けても株価が買値から総じて下げ続けてしまうケースが多く見られることは、日経平均株価自体に継続性がないこと、またその株価の動きをみれば明らかなものです。損失が小さいうちにこそ本来あるべき対処をする、これが個別銘柄に投資する際の重要事項と言えるのではないでしょうか。

 最初から長期投資を行うつもりでゆっくり買い入れる方も少なからずいらっしゃることでしょう。しかし、現在の状況下では財務省が誤ったインフレ政策をとらない限り「バイアンドホールド」で利益を出せる相場にはならないでしょう。むろん絶対はありませんから、ハイパーインフレに対する備えとしての一定の株式保有は否定しません。また、日経平均株価と連動せず上昇する銘柄もあります。しかし、そうした銘柄を探し出すことは宝探し的な感覚に近いと思うのです。グロース投資は簡単なものではありません。今の相場や環境を冷静に捉え、投資を行っていなかった頃の感覚に戻り、一度手持ちの銘柄と心の整理をされることもひとつの手段ではないでしょうか。

<サイト管理人> 2012年10月24日記述



 【資産バブル世代や団塊世代の感覚がもたらす弊害】第171回

 資産バブルを経験した人間や団塊世代に共通する常識は若者にとって悪影響しか与えないように思っております。「最近の若者は・・・」という決まりきった言葉は大正時代以前より使われていたようです。結局いつの時代も年長者は若い世代を過小評価する傾向があります。もしかすると私も20代の人間に対して自分の気づかないところでそうした態度をとってしまっているのかもしれません。
 団塊世代等の人間が投資で大きな失敗をしたことを理由として、身内に自己資金の管理に制約を課す人も多々おります。「株などやるものではない」などは良く聞くことで、自身が資産バブルの崩壊及びITバブルの崩壊で損失を出した理由を正確に分析もせず、周囲に「株など弊害でしかない」といかにも投資を知っているかのような言葉を平気で吐きます。それは株式投資そのものが悪いわけではなく、投資の仕方を知らなかったその人たちの能力が欠損していたのです。
 ちなみに、私よりも少し上の世代が資産バブル真っ盛りの新入社員で、自分たちの計画を伴わない消費の傾向を20代が真似られないことを理解できないらしく、「思い切って買い物をすることでお金の使い方は覚える」などと言い放ちます。私自身腕時計や釣り道具、自動車にはそれなりのお金を使いますが、すべて計画の範囲で行っており、貯蓄の計画を元にそれぞれの買い物をしています。ただ、株式投資での利益は全て使うという変った考え方をもっておりますので、周囲と比べて少々モノにあふれた生活をしていることは事実です。とりあえず、資産バブルを経験した人々が、自身の常識を今の20代にあてはめようとすることは、マイナスの効用がほとんどでしょう。

 20代や30代が貯蓄を中心とした生活を送るべき理由はいくつかありますが、FPの立場として以下に簡単に説明します。

『借金をしないのは当然です』
 借金を伴う消費は時代にマッチしていません。雇用が安定している状況でもなく、給与のベースアップが期待できる経済ではありませんから、未来に負債をもつことはできる限り避けるべきです。なお、インフレになれば買った資産の価値が上がるので、借金の返済は簡単という安易なことを述べる人もおりますが、商品価格のインフレーションペースと所得の増加ペースにはタイムラグが発生し、借金の重みが増すだけなのです。仮にインフレ経済全体が上手く回るとしてもとしても、インフレ発生から何年も先の話となるのです。結局、デフレ、インフレを問わず金利負担ばかりが影響することを念頭に置くとともに、貯蓄を進めることは概ね正しい行動でしょう。住宅ローンに関しても同様の感覚を持たれたほうが良いと思われます。

『低金利下では基本的に預金をすること』
 低金利が長く続いております。超低金利は利息が期待できないことであり、20代から30代前半の人々が将来の資金の必要性を考えて貯蓄を増やすためには給与に占める預金割合を高めることが最も簡単な方法です。年収が少なかろうと生活費の舵取りから可処分所得の30%以上を残すように心がけましょう。

『早い貯蓄・資産形成が必要』
 終身雇用のベースアップ込みの賃金制度は、所帯を持つことなどからお金が必要になるのに伴い所得も上がっていく仕組みでした。しかしこの仕組みは現在公務員を除いてはありえない状況となっています。能力制の年俸制をとる企業もありますが、実質的には賃下げ要因となっている現状もあります。つまり、将来の所得増を期待した生活設計は机上の空論となっており、早い段階からの計画的な貯蓄が必要となってきます。結婚年齢が30歳を考えられている方はそれまでに最低でも1000万円を貯蓄することを年頭におきましょう。1000万円を早い段階でクリアした方は株式投資も含めた資産運用を考えてみるのが良いと思います。投資経験は後の人生において有効に働いてくるからです。ただし、貯蓄額が500万円程度のレベルで株式投資を行うことはリスク管理の観点からも無理があると思っています。

<サイト管理人> 2012年10月26日記述



 【インデックス投資と個別株投資から考える】第172回

 インデックス取引と個別株のへの取引を比べると、後者は圧倒的に投資対象の数が多いことがわかります。東証一部上場企業だけで1600社以上存在していますので、スクリーニングやテクニカルを上手く使いこなせば、数多い投資対象の中からでも自分なりの投資パターンが見つかる可能性があるのかもしれません。なお、相場全体の地合が悪くても、業績が好調な個別企業はそれなりにありますので、指数にとらわれない人気の銘柄が存在することも事実です。しかし、個別株で投資効果を発揮する為には、スクリーニング等に多くの時間を割く必要が出てきますし、チャートの分析も含めた投資のパターンを学ぶことが必要になります。もちろん学んだからといって成果が出るものでもありませんし、大半の誤った学習や努力は負の相乗効果をもたらしますので、損失を大きく膨らませる原因にもなります。

 インデックス取引と個別株の取引のどちらが自分に適しているかは、各人が投資に使える時間が関係しているように思います。仕事や家族、友人との時間を優先するのは当然ですから、投資に使える時間は案外と少ないものです。よって本来はインデックス投資が良いのかもしれません。ただ、インデックスの値動きは日経平均株価やTOPIXなどに連動する為、決して大きいものではありません。この点ではリスクが小さいという表現もできますが、個別銘柄への投資は平均株価の2倍以上の値動きをするものが多く見られることから、投資対象としては魅力的になってきます。よって、個別株の取引は、ファンダメンタルズで銘柄を探すことや、テクニカル分析で買い入れるタイミングを図ることに時間を使えば、リスクを負う分リターンは大きいと考えられます。

 主力銘柄の株を買って持ち続ける投資手法は好ましくないと以前から申し上げておりますが、投資で安全性を求めれば、有名かつ財務内容が良好な企業の株が最も適しています。しかし、株価低迷状況では優良株と思われても利益を生み出すどころか含み損が膨らみかねません。よって、こうした中では短期の相場のリバウンドを利用すればよいと思うのです。上場企業である以上、株価が一定であることは事実上ありえないからであり、行き過ぎた売りには一定期間修正の買いが入るからです。

 私は恒常的に株式を保有しておりません。私が個別株を買うのは相場が大きく崩れた時であり、それに2倍程度の値動きで連動する主力銘柄(日経平均採用銘柄)をバスケット買いしております。もちろん「大きく崩れる」という状況判断の為の閾値は設けておりますので、買い入れタイミングは多くても年に数回のもので、リバウンドが適えば全て手放します。逆に下げ続けロスカット対象となる含み損となれば強制的に手放します。よって個別銘柄への投資とは言いながら、インデックス投資に似た側面が含まれております。
 ちなみに、買い入れ状況にならない限り、株式投資にかける時間は一日15分程度で済みます。その為にこのページを作成し、チャートを大まかにと見られるようにしております。皆様のご参考になればと思っております。

<サイト管理人> 2012年10月28日記述



 【タバコ問題で洗脳される日本人の安易さ】第173回

 近年のタバコ論争を考えると、「なぜこれまでしてタバコを排斥しようとしているのか」については一切「タブー」のままという事態に気付かされます。意味のわからないことを進める社会は実に暗いものであるように思えてなりません。私は愛煙家ですが、タバコを排斥しようとしている人にタバコがいけない原因を個別に聞いてみると、社会全体の理由と違うことがほとんど(気管支と副流煙)であることも奇妙でなりません。

 そもそも医師がタバコを禁止するのは当然です。ただ、最近は言い方が強すぎることは事実です。社会的背景が裏にあるからともいえます。これは学校の先生が学生に勉強しろと言うのと同じことで、勉強した方が人生が充実する可能性があるからというものと同義です。あくまで可能性ですが、コンマ以下パーセントでも可能性があればそれを潰す、または伸ばすのは当然のことです。しかし、だからと言ってあかの他人が勉強しろと強要するのはやり過ぎであるように思います。つまり、タバコがいけないということを政府や個人が言うことは望ましくないと思うのです。ちなみに、何かと欧州との比較をしがちな知識層ですが、欧州には宗教的な戒律があるので、これはいけない、あれはいけないという非科学的な区分をしておりますので、あまり参考にはならないと思います。捕鯨の問題と同じです。
 もちろん、煙が嫌いな人に向かって煙を吹きかけるのはよろしくないことです。マナーの問題であり、吸い方が悪いのです。これは道を歩いてくる人に正面からぶつかるのと同じです。お酒に関しても飲めない人や苦手な人に強要するのはおかしなことなのです。

 ディーゼルエンジンの問題、タバコの問題、アスベストの問題、肺がんの原因として考えられることをこれまで散々潰してきているにもかかわらず、肺がんの発生率は高くなる一方です。そもそも論ですが、タバコの問題は良心的な目的でやっているのではなく、肺がんを減らそうというものではないのかもしれません。ディゼルエンジンを規制すれば新車が売れます。タバコを販売しながら規制すれば禁煙グッズや禁煙のための薬品が売れるのです。私にはタバコの排斥問題が健康を一義的に考えたものではなく、あくまで二義的なもので、本来の目的は経済効果のような気がしてならないのです。

 タバコを吸う人の自殺は少ないという正式なデータが出ております。思考力が一割程度上がることも実証されております。総合的に考えて、お酒やコーヒーというドラッグを認めてタバコを禁止する意味がわかりません。朝日系の新聞でしたか、未成年の時にタバコを吸っていると寿命が短いというデータが最近出ましたが、明らかにタバコを原因にするためにデータを都合よく利用した内容で、だからタバコをやめろはおかしな話です。
 お酒で肝硬変になる、タバコで気管支炎になる、いろいろありますが、それらは最終的に程度の問題に繋がります。1合でもだめでしょうか、1本もだめでしょうか。3合までなら良いのでしょうか、30本までなら良いのでしょうか。もう少し研究機関が正しいデータを公表し、タバコの弊害を真面目に考えてほしいと思います。また、副流煙の問題についても良くわかっておりません。データそのものが無いのです。全て受動的なタバコアレルギーから発生した運動に過ぎないのです。

 意味もわからず「身体に悪いからタバコを止めたほうが良い」はやめてみませんか。タバコを止めることを止めてみませんか。もう少し穏やかかつ冷静に考えましょう。必ず裏には答えが存在します。一日何本くらいなら良いのか、また、人生面・文化的な面から考えてみることが大切でしょう。タバコは身体に悪いと思い込んでいる人、何となくタバコを忌み嫌う人、一過性のトレンドに流されていませんか?大切なのは真実を知ることで、そこに存在する真理を見極めることです。
 株式投資でも大切なことはトレンドに流されないことです。一過性の上昇トレンドに乗ろうとすることがどれだけ危険かを知っている人はタバコ問題も冷静に考えられることでしょう。お読みの方は自身が大半の日本人と同じ感覚で満足できますか?真相を知ってみようと思いませんか?そうした姿勢は株式投資の本質を見極める能力に繋がってくると思うのです。

<サイト管理人> 2012年10月30日記述



 【資産を作るためのステップについて考える】第174回

 個人のお金の流れはたいして複雑ではありません。仕事等で「稼ぐ」という過程、お金を「使う」という過程、お金を運用して「増やす」という過程の3通りです。それぞれの過程における問題点や課題が見えれば、自分が資産を形成する為にどういう学習をすればよいかを知ることができます。

 まず、「稼ぐ」能力を身に着けたい場合は各人の就業する内容にいての学習や資格取得のための問題集が役立ちます。私は資格取得を勧めておりますが、資格取得に際しては自分の主観は一切通じないからです。それぞれにはおおよそ法規が絡み、法規には個人の持つ偏見が通じないことから、自分自身の尺度を修正する効用があるからです。
 次に、「貯める」能力を身につけたい場合は、雑誌・書籍を参考にせず、自分の生活環境において本当に必要なものだけを買う生活をおくればよいのです。小さなポイント還元や閉店セールという言葉に釣られて不必要な買い物をしている人が多くいるように思います。また、小さい節約を気にしすぎるあまり、大きな出費を必要とする状況を作りかねないことも事実です。私自身はポイントカードもクレジットカードも持ちません。買い物は好きですが、ポイントや特別という言葉に引きずられず、今自分にとって必要なものを見極めるようにしております。また買い物はできるだけ一度で行うようにしております。
 最後に「増やす」能力については、本コラム全体を通じて株式投資に関する運用方法をご説明しておりますので、そちらを参考にして頂ければと思っています。株式投資もインデックス投資も純金積立も要領は同じですが、私は株式投資が理解しやすい為、実践しております。

 総合的に考えて、皆様が自分自身のお金のフローが見えていくに従い、意識すべき点があると思います。肝心なのはお金を使う「条件」の設定が大切という点です。次から次へと新製品が出るたびにモノを買うような生活を送っていては資産の形成は不可能です。

<資産運用の基本を学びましょう>
 銀行預金や投資信託、株式投資はどういった金融商品であり、どんなリスクがあり、どの程度のリターンを期待してよいのかを正確に知る人に合うことはほとんどありません。やはり、リスクのある商品を購入する際はその仕組み、ネット証券と店舗窓口の違い、税金の仕組みといったことも投資条件の設定に繋がりますので必要最低限の知識して抑えなくてはならないでしょう。売買注文の基本的なルールなどは証券会社のホームページでも詳細に解説されていますので積極的に利用すべきです。
 また、資産運用を行う場合は、投資に関する基礎的なテクニカル理論やファンダメンタルズ的な考え方を学ぶ必要があります。投資の失敗は「知識も経験も浅いこと」を理由にしてはならないのです。一度の失敗で終わってしまうケースが多くあるからです。
 自分の最終的な運用戦略を見いだしていくためにも、短期投資や長期投資、分散投資がなぜ行われるのかという仕組みを知っておく必要があります。私は短期投資を行っておりますので、長期投資には批判的ですが、長期投資を行うならばという閾値は常に設定しております。つまり、自分の理解したくない問題を批判するだけではなく、しっかり学んでみるべきです。特にリスクついては十分に理解しておくこと必要があります。数値化が可能な標準偏差のリスクについて理解すると、そのコントロール方法や、リスクを抑える方法の検討の際に役に立ちます。

<サイト管理人> 2012年11月2日記述



 【学ぶこととは何かを改めて考える】第175回

 学ぶことと学習することはおおよそ同義語と思いますが、皆様の多くは「学ぶこと」について考える機会があまりないのではないでしょうか。また、学習というと一般的に学校で学ぶということを連想されると思います。小学校、中学校、高等学校で学ぶことは大抵が知識レベルであり、私は学びの場とは思っていません。
 本来の学びとは大学における研究活動がまずそれに当たるでしょう。研究とは仮説を立てて実証するものや、データ収集から相関関係を求めある定義を行うものですから、何もないところから始まるものです。つまり、既存の知識を詰め込むことは学習ではなく、単なる言葉や数式の習得に過ぎないのです。よく高校生クイズなどで優勝される人や、鉄道オタクと言われる人がメディアに登場しておりますが、彼ら彼女らは新しい技術やサービスの提案をする立場ではなく、既存のそれらを記憶して満足しているのです。もちろんそれ自体いけないことではありませんが、折角詰め込んだ知識を新しいサービス等に反映させる、発展させることをしないのは残念でなりません。
 学ぶこととは、既存の概念も含めた状況を理解し、それを整理することから新しい概念を生み出す、ないし、既存の技術を伸張させる行為を指すのでしょう。

 株式投資に置き換えますと、既存のテクニカル指標やファンダメンタルズを理解し、それを駆使してトレードを行うことから得られた結果を検証し、最終的には自分なりの指標を作り上げることでしょう。私は認めませんが、増田足などは良い例なのかもしれません。
 株式投資には詰め込み教育は通じませんし、他の人と同じことをやってもたいした意味はありません。これまでに出版された書物を読み漁って仮に利益をあげられたとしても、他人任せの結果論に過ぎず、自分自身では何も生み出していないのです。つまりそこには学習という行為は一切含まれないのです。
 また、他人任せのトレードで損失を出した場合、失敗の原因をどこに求めたら良いのでしょう。その本を選んだことがいけなかったのでしょうか。私は違うと思います。その本を理解し、自分なりの解釈を加え、一定のモノサシの元でトレードを行わなかったことがいけないと思うのです。
 自分の解釈が入れば、成功ないし失敗の原因を考えることが出来、次のトレードに閾値を設定するなどして生かすことが出来るのです。本来の学びとはこうしたサイクルのループから生まれるのではないでしょうか。

 私は35歳を過ぎましたが、死ぬまで考えること、ひいては学ぶことを諦めないで生きていこうと考えております。変人と言われることもありますし、青臭いと言われることもあります。しかし、そうした言葉を使う人は既存の概念に浸かって自分の考えを持たない人が大半であることから、これらを気にしている暇はないとも思っています。それを気にするようでは彼らと同等の成長が止んだ人間になってしまうのです。もちろん自分が正しいとは思いません。自己否定なくしては自己の伸張もないからです。ですから株式投資も含め、全てのことを学び続けなくてはならないのです。

<サイト管理人> 2012年11月5日記述



 【鉄鋼業と電力業から考える日本の発電政策】第176回

 日本の電気代はアメリカの2倍程度です。あまり知られていませんが、日本の電気代は世界的に見て決して安いものではありません。長い間、日本の国民は高い電気代に耐えて生産を続けてきたとも言えます。中小企業は安い電気を使う海外との競争に明け暮れ疲弊している一方で、各家庭ではすっかり「節電」が定着しています。エコや節電という言葉を耳にしない日の方が少ないのではないでしょうか。
 道徳としての節電が良いか悪いかは別にして、電力会社に巨大な力と巨額の資金を提供するために高い電気代を設定し、国民が我慢するという構図を、2011年の原発事故を境に止められないかと常々思っております。

 電力会社は日本の電気代が高いはずがないと解説しています。具体的に、燃料費、発電所建設費、送電距離、送電変電効率、電力品質などを細かく計算すると電力会社の計算値に多くの人がだまされてしまうのです。細かな数値のトリックに弱いのが私達です。この数年の天然ガスや石炭の価格推移を見てもわかるように、燃料費は半分程度になっているのにも関わらず、電気代金は減額されません。
 言い方を換えますと、日本の鉄鋼は品質及び価格ともに世界一なのに、なぜ電気は世界最高レベルの価格なのか?ということです。鉄と電気は最終製品こそ似ても似つかないものですが、生産方法は全く同じです。石炭を焚いて、鉄鋼では溶鉱炉を、電気では発電機を動かし、それで鉄と電気という製品を作るわけです。新日鐵住金やJFEホールディングスという鉄鋼会社と、東京電力や関西電力という電力会社の規模はいずれも巨大ですし、やっていることは同じにも関わらず、日本の鉄鋼は国際的に十分通用する価格でありながら品質も第一なのです。

 本来、電力には日本特有の有利な面があります。日本は人口が密集しており、国土が良い状態で管理されているので、送電距離が短く、国民が電気の送電に協力しているので、電柱などを敷設する問題も少ないという特徴があります。設備費が他国と比べてそれほどかからないのです。それに加えて三菱重工やパナソニックが製造する各種装置など日本の電力技術は世界最高峰でもあります。つまり、発電効率がめっぽう高いのです。やはり問題となるのは地域独占、政商と化した電力のビジネスモデルにあるでしょう。かつての日本の農業をダメにしたコメ政策を思い出すのは私だけでしょうか。まずは、発送電分離でも何でも良いので、電力の独占から競争環境にすることが肝要です。
 2011年の原発事故は東電ばかりではなく、すべての電力会社の責任でもありますから、ここで初心に返り、外国に負けないコストで電気を作るべく努力をして頂きたいと思います。それが適えば、現在のトレンドになっている太陽光発電や風力発電、地熱発電が如何に効率の悪い無益なものであるかがわかるはずなのです。どう考えても今のままではこの国の発電政策は座礁してしまうと思うのです。

<サイト管理人> 2012年11月8日記述



 【そもそも不景気がなぜ悪いのでしょうか?】第177回

 かつて、日本人の平均寿命は43歳でした(1920年)。なぜ、43歳で人生が終わるかというと、女性は出産、子育て、炊事、洗濯などで40歳にもなると体がボロボロになったからです。男性も同じで、毎日の過酷な筋肉労働と冬の寒気の中での仕事が体をむしばんでいきました。43歳で「もう使えないからだ」になったのです。そんなときには「少しでも楽になりたい」と思うものです。洗濯機、冷蔵庫、土木用自動機器、耕耘機などはこのような希望から生まれたものです。
 ところで、現在の日本は平均年齢が80歳を超えて世界一です。人間という生物の寿命は最大でも120歳ぐらいですし、頭脳の状態も考えると、そろそろ限界に近くなってきたことを示しています。このような長寿をもたらしたのは単に医学・医療だけではなく、むしろ「楽な生活」と「衛生的な環境」がもたらしたものです。今では70歳を超えてもお元気な方は当たり前のようになってきました。
 そして、かつての日本とは正反対に、モノがありすぎるので、「もったいない」と考える人たちが「もう少し節約した生活を!」と呼びかけています。
 確かに、豪華にしようとすればきりがありませんが、現在の生活はそこそこなんとかやっていけるような気がします。数字で言えば国民全体で約500兆円ほどの総生産ですから、まずはこのあたりで立ち止まっても良いかと思います。

 ところが、日本中が「景気回復」の大合唱です。景気が悪いと言っても、総生産量から言えば6%ぐらいの減少ですから、平均してみると、年収が500万円の人が470万円になるということで、そのぐらいは何とか我慢できないのでしょうか?生活レベルを少し下げて「環境に優しい」、「心の豊かな社会を造りたい」というのはどこに行ったのでしょうか?こんな当たり前のことが言えないのは、「あなたは裕福かも知れないが・・・」とか、「臨時職の人は大変だ」という声が強いからです。それなら「もっと節約しよう」という呼びかけは何でしょうか? 節約すれば6%ぐらいはお金が余るでしょう。だから、「生活」という意味では、不況で困るということはないと断言しても良いと思います。

 不況に問題があるとしたら、次の二つと思います。
 ひとつは、ニートがもてはやされ、あまり我慢しないで職を変える人たちが不況で困ったということですが、これは当然です。職業というのは歯を食いしばって我慢すれば景気の波によらずに生活ができますが、少しでも待遇が良かったり、気楽に働けるところを探していれば、不況になれば苦境に嵌る・・・これは当たり前です。
 自分でニートや臨時工を選択した場合は、自分の責任ですから、不況になって困るのからといって苦情を言ってもらっては迷惑というものです。人間は魂がもっとも大切なのですから、職業が定まらない人もその人の考え方であり、それを尊重するべきでしょう。少し厳しい言い方ですが、好況の時は気楽に、不況の時は助けてくれというのは、恥を大切にする日本人のすることではないと思います。
 ふたつめは「中小企業が倒産する」ということです。これまで自動車の部品を作っていた会社の受注が2割、3割という月が続き、とうとう、資金繰りに行き詰まって倒産してしまうという場合です。このような中小企業は「創業以来の社員」も多いので、不況だからと言って大企業のように首を切ることもできず、不況は生死をわけるのです。しかし、経営者はもう少し慎重に考えてみなければならないでしょう。日本の経済が「まとも」になるには、「内需の拡大」、つまり「自分で生産したものはできるだけ外国に輸出せず、国内で売ろう」という政策をとってきたはずで、それが基本になっています。
 ものには程度問題がありますから、日本のように資源が不足する国は工業製品の輸出は必要なのですが、それが5割を超えるようなことになれば、外国に何かがあると国内が破綻するということになるからです。しかし、実際にはアメリカを中心として日本の工業製品の多くが輸出されていましたから、アメリカのサブプライムローンの破綻という日本にはほとんど関係のない事件で、日本経済が大きく傾きました。
 経営者でなくても、考えることができる大人であれば、そのぐらいなことはとうの昔にわかっているはずです。好況の時に自分に都合のよい職を転々として不況の時に困るように、アメリカに依存していればアメリカが傾いたら自分も一緒に不況の波に流されます。まして、アメリカの選挙権を持っていないのですから、自分の会社の運命はアメリカ人任せと言うことです。
 それは個別の中小企業の経営者の判断ですから、アメリカが良いときには遊び、アメリカが傾いたら倒産するという経営でも、アメリカに影響されない方針でも、それはどちらでも良いのですが、アメリカが金融崩壊したから倒産するというのは「環境の変化」ではなく「自分の判断のミス」と思わないとこれからも同じことが繰り返されるでしょう。
 自民党政治が悪かったと言っても、もともと小泉さんを支持したのも我々ですし、アメリカ一辺倒政策を続けたのは小泉さんですから、これも「我々の責任」です。

 ところで、「不況」を抜け出すとしたらどうしたらよいのでしょうか? エコポイントでとりあえず家電製品を買って、アメリカが回復したらまたアメリカに売るというのでは解決になりません。不況はそれに耐えてこそ、次の繁栄のバネになります。
 経済の基本は「新しくよりよいモノやサービスを提供する」ということで、それに必要なことはエコカー補助金などではなく「頭の働き」です。
 頭の働きをよくするためには、「政府の言うことを鵜呑みにしない」、「家畜的発想にならない」、「元気で明るい」、「よく勉強する」などで、そんなことは始めから決まっているように思えます。

 頭の働きにも関係しますが、株式投資の買い入れ時は思考停止の設定されたロジックに則ったもので良いのですが、買い入れタイミングの判断には十分な思考、つまり閾値を考えること、設定することを徹底しなければ大きな損失を抱えてしまうことでしょう。よく勉強することが第一で、買い入れる際の強いマインドコントロールは日頃の修養から養われます。

<サイト管理人> 2012年11月11日記述



 【日本ではなぜ「節約」が推奨されるのか?】第178回

 日本に住んでいると、現在「節約」は当然といった雰囲気にあります。節電はもとより、何でも節約することが「良いこと」のように言われます。1ヶ月を1万円で過ごすなどという番組や、軽自動車が売れているのも、その裏にあるのは節約志向がトレンドになっているからといえます。本来的な質素倹約ではなく、単なる節約になっているのでしょう。

 基本的にある国が「国単位で節約をする」というのは最悪の結果をもたらします。それは、簡単な理由があるからで、以下の2点が考えられます。
1)節約すると国民の総活動量が減るから国が衰退する
2)節約すると国民が「人生で得られるべき楽しさ」を犠牲にする

 このことは、中国が尖閣諸島を領有しようと試みたこと(この20年程度、日本は節約を行い中国はフリーに使ったので、現在の日本の国力は中国の2分の1になったこと)が良い例として考えられます。今後中国に取られるのは尖閣だけではないでしょう。
 なお、日本人の1年の平均旅行日数は2日。ヨーロッパは20日。有給休暇取得日数はフランスで36日、日本で8日。人生の過ごし方という見方をすれば、ヨーロッパ人は人間、日本人は家畜というほどの差があるように感じます。

 かつて江戸の職人は「朝飯を食ったら仕事にかかる。そしてガキとカカアのメシを稼いだら、遊びに出る」ということでした。その日の仕事が終わるのはおおよそ2時頃で、それから吉原に行ったりしていました。人間は「遊ぶため、自分の時間を使うため」に生きているのであり、むしろ仕事はそのための「必要悪」なのでしょう。

 ところで、国家をあげて節約をする必要のある時は、
1)戦争の予定がある(明治時代)、
2)通貨が暴落した
などに限定されます。しかし今の日本は戦争ほどの環境にありませんし、通貨も非常に安定しています。こんな時だからこそ、国は「活動を推奨し、遊んでください」と呼び掛けるのが正常といえるのではないでしょうか。

 なぜ、国は「節約が大切」と言っているのでしょう。個人の節約と同じく、「中央官庁と知識人のチームプレー」と考えられます。国単位で節約するとお金が余ります。そこでそれを、100兆円を超える国家予算に使う、海外に支援をしてそのキックバックをもらうということが考えられます。

 それにしても奇妙です。憲法には「勤労の義務」が定められていますが、これは「日本人は誰もが汗を流して働き、豊かになり、みんなが幸福に楽しく人生を過ごすことができる」と考えて定められて居ますし、日本の風土や気候、日本人の能力や誠実さがあれば「普通に生活していたら楽しい日本」ができるはずなのに、なんでこんなにねじれているのでしょう。
 日本は節約などしなくても堂々と国際的にやっていけるだけの力があり、現実の経済力、技術力もあります。それなのに夏は冷房も思うように使えずに苦しみ、冬も寒さに打ち震える先進国などどこにあるのでしょうか?
 また、現在の日本社会はまるで「相互監視社会」のようです。ちょっと贅沢をしたり電気をつけっぱなしにすると「なんだ!」と誤った政府の虎の威を借りて居丈高になる市民もいます。そのために、市役所は「不当なバッシング」を恐れて廊下の電気を消すという異常さです。

 株式投資でも日常生活でも国家感でも共通していえることは正常な感覚を保つということです。そしてそれを当たり前に実行することです。何やら私には全ての感覚(モノサシ)がずれているように思えるのです。

<サイト管理人> 2012年11月15日記述



 【命とお金は比較に値しないことについて】第179回

 世界最古の法律とされるハンムラビ法典には、「自由民同士の場合は「目には目を」ですが、自由民と賤民では「自由民が賤明の目を失わしても自由民は金を払えばよい」という事になっていました。これだけ聞くとハンムラビ法典は現代法より劣っているように見えます。また日本の江戸時代には武士が「切り捨て御免」と庶民を殺すことができたことや、我が子をお金と交換して売る風習もありました。ヨーロッパでも同じで、シェークスピアのベニスの商人でも「人間の肉を担保に金を貸す」という話もありますが、やはり道義的に疑問とされていました。
 しかし、近代になりさらに男女を含めて人間が平等であるという思想が行き渡ると、「命とお金」を引き替えにするという行為は野蛮であるとされるようになりました。「1億円払うからお前を殺す」というのはもちろん成立しませんし、「いまからお前を殴るので、あらかじめ100万円を渡しておく」というのも成立しません。

 1970年代にフォードピント事件が起こり、「事故が起こることが予想されている車を販売してもよい。死亡事故が起こったらお金で解決すれば良い」というフォードの社会の決定は、本当に車の欠陥のために死者が出始めると、社会はフォードを許しませんでした。「このまま放置していると死者がでる」というものをそのままにして、補償した方がお金が安いということになると、遊園地の遊具や危険なエレベータなどすべてに及び、そのうちにお金持ちが「どうせ傷つけてもお金さえ出せば監獄に入らなくても良い」という事になってしまいます。

 人間は不完全なものですから、本心から安全を期してやっても死亡事故が起こることもあります。そんなとき、心から謝罪し、せめてお金でというならわかりますが、お金を払えば殺しても良いというのは野蛮な行為とされます。その点で、現在、また野蛮な方向へ向かう動きがあるように思います。

 もともと、日本国憲法は日本人ひとりひとりが自らの幸福を求める権利を認めており、「公共に著しい迷惑を掛けない限り」この権利は認められます。「医療費がかかる」というのが「著しい公共の迷惑」になるとした場合、人が幸福になろうとして生活をして病気になった場合でも「著しい迷惑」となってしまうのです。タバコを吸う人は医療費が吸わない人に比べ余計にかかるという人もおりますが、そうするとタバコを吸う人は憲法に反することになってしまうのです。しかし、タバコを吸うと短命になるとすると(実際はそうなっておりませんが)、医療費は早く死ぬ分だけ少なくなるのではないでしょうか。ちなみにここで私が言いたいのは、医療費(お金)とタバコ(健康:命)を比較することは筋違いであるということなのです。
 なお、体が弱かったり、体に障害のある人もおられます。野蛮な時代はそのような人は虐待を受けたのですが、現代社会では多くの人が幸福な人生を送ることができるように社会全体が応援すべきです。

 私たちは社会が発展し、昨日より今日、今日より明日が良くなることを望んでいます。その点において健康の問題に関する議論が続いているのに、危険な方向に進むのは実に残念です。禁煙運動を目指している人はここでもう一度考えてもらいたいと思います。それは単に一つの事だけを考えるのではなく、社会全体の動き、私たちの発展や希望の意味、そして人生や家族という視点から深く考察して欲しいものです。あまりに情報が偏り、誤った方向に進んでいる今を私は危ぶんでおります。

 命とお金を比較する社会に戻らないように願うと共に、株式投資で多くの時間を使い、健康を害することはせめて無いようにして欲しいものと思っています。

<サイト管理人> 2012年11月19日記述



 【安倍発言から考えるインフレーションの副作用】第180回

 最近選挙を控えて自由民主党総裁の安倍晋三氏の発言がクローズアップされています。主なものは以下の二点です。

・金融緩和を無制限に行う
・建設国債100〜200兆円を日本銀行に引き受けさせる

 この発言の裏にあるものは何でしょう。多くの人が本当の意味を理解していないように思うのです。安倍氏の発言を簡単に言い換えると、「政府の負債を減らす為に資産家を優遇し、貧困層を苦しめますよ」ということになります。これがどういうことかを解説してみます。

 まず、日本銀行が供給する資金をイチゴと考えると、金利はその値段になります。値段がついているうちはイチゴの量を増やせば比例して売れ行きも増えますが、イチゴが増えすぎて市場に溢れかえったらどうなるでしょう。極端に言えば値段がつかなくなります。値段がゼロになったら、それ以上増やしてもイチゴは売れず、市場に放置されるだけなのです。
 よって、イチゴの量(金融緩和による通貨供給)を100兆円、200兆円と増やしてゆくと、ある一点で金利の上昇を吸収できず、イチゴが不要になり(通貨の信認が失われ)、大量の生ゴミ(紙くず)を発生させてしまいます。一度無くした通貨の信任は政変により国が変らない限り戻らないと言ってよいでしょう。
 また、安倍氏の言うように政府が200兆円の建設国債を発行して建設業界に金をばら撒けば、確実にインフレが起こるでしょう。それは単なる日本銀行の買いオペレーションとは違って、政府が直接需要を創出するからです。しかし、主要国で突出している日本の政府債務を一時的か恒久的に増やすことになり、比例して税収が伸びない限り財政破綻を引き起こすリスクが大きいといえます。

 以前のコラムにも書きましたが、「貧富の格差」が拡大している要因をデフレーションに求めるコメンテーターや学者もどきの人もいますが、これは完全に的外れです。過去二十数年以上資産価格が上昇しない状態が継続していますが、このことに苦悩しているのは資産家なのです。デフレーション環境下では、資産のほとんどが些細な銀行預金である人と資産家の格差は縮小しているのです。
 インフレーション経済の方が、資産家の富は増え、貧困層の購買力は低下します。理由は簡単で、資産家は不動産や金融商品による運用益が大きく得られますが、貧困層にある人々は運用することが出来ず、ましてや住宅ローン金利等は上昇の一途を辿るからです。所得の上昇幅が金利の上昇幅を上回るような状況が出来るまでに何年かかるか誰にもわからないのです。また、大量に通貨が供給されれば円安に繋がり、ガソリンや天然ガス、石炭といった資源価格の上昇を招くばかりでなく、生鮮食品などにも大きな影響を及ぼすでしょう。今ある100円ショップという商業形態も成り立たなくなるか、商品の品質がかなり劣化すること必定です。

 再三になりますが、現物であれ金融主導であれ、インフレーション経済の方が、貧富の格差は大きくなっていきます。常識のない富裕層で、保有資産に対する銀行預金の割合が大きい人は、インフレーション経済に移行したら自分が困るということを認識されたほうが良いのではないでしょうか。

 インフレは本来、日本が抱える構造的な問題の改革や税制改革、様々な規制緩和などで需要を呼び起こすことから発生させるべきものです。政府主導の金融政策による貨幣価値の低下から、国民の預金の価値を下げることから起こすようなことはあってはならないのです。大半の人にとっては目先の株価が上がって喜べる状況ではないのです。

<サイト管理人> 2012年11月21日記述



 【褒められると伸びるという現実の捉え方】第181回

 以下に共同通信社が配信したニュースを掲載します。

「褒められると伸びる」は本当。運動トレーニングをした際に他人から褒められると、上手に運動技能を取得できることを、自然科学研究機構生理学研究所(愛知県岡崎市)の定藤規弘教授(神経科学)らの研究グループが実験で明らかにし、米オンライン科学誌プロスワン11月7日号に発表した。
 グループの田中悟志名古屋工業大准教授(神経工学)は「褒めて伸ばすという言葉が科学的に証明された。教育やリハビリテーションの現場で応用できる」としている。
 研究グループは右利きの成人男女48人に、キーボードの1から4のキーを使った5桁の数字を、左手で決められた順番でできるだけ速くたたく運動を覚えてもらい、運動直後に(1)自分が褒められる(2)他人が褒められるのを見る(3)自分の成績をグラフだけで見る――の3グループに分けた。
 翌日、覚えた順番通りにキーボードを何回たたけるかを実験すると、運動直後に自分が褒められたグループは前日の練習から成績が20%伸びた一方、ほかの2グループは13〜14%の伸びにとどまった。
 これまでの研究で、うれしいことがあると、脳内で記憶の定着に重要な役割を果たすドーパミンが分泌されると判明しており、田中准教授は「褒められた分、記憶が残って動きが良くなったのではないか」と話している。

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 研究結果は事実でしょう。人間否定されてばかりではやる気も無くなります。ただ、この報道を都合よく解釈すると、何事もことを成していない、または努力しない人間の言い訳に使うことが出来てしまいます。
 上記のニュースから、私の旧友人で私と同時期に株式投資を始めた人間が日頃言っていたことを思い出しました。「俺は褒められて伸びるタイプだから...」という言葉です。その旧友は静岡県の公的な金融機関に勤めており最近までは経理の部署におりましたが、簿記の2級試験すらパスできませんでした。これまでに何度もチャレンジした簿記の試験だったようですが、学習を行わず、偶然の合格にかけて試験に臨み続けたのです。結局今は部署の移動させられ、資格取得そのものを諦めていると思います。つまり、彼は褒められて伸びるという言葉の定義を間違えているのです。
 人は何事も具体的な行動(学習)を行い、結果はともかく一定の成果をあげて初めて良い部分を褒められ、そこを伸張していくべきであるにも関わらず、彼は何もしないまま褒められることを望んだのです。単に甘えているとしか思えません。
 私はこういうタイプの人間が一番苦手で、ましてや責任ある公的な金融機関に勤める国立大の経済学部卒なのですから、簿記検定くらい自己学習の200時間程度で受かってもらいたかったものです。結局私は褒めどころの無い彼を叱咤しましたが、それを望まない彼は私から離れていきました。今は彼のことをあれこれ言う人間もいないことでしょうから、精神的には安定していることでしょう。俗に言う諦めた大人です。私は彼を強く軽蔑してやみません。仮に叱咤せず褒めていてもその言葉に安堵し、学習はそれ以上に行わなかったとも感じております。
 ちなみに、私にとっての精神安定剤は努力です。そしてある一定の成果を求める場合、それを実現することが褒められることと理解しています。その褒められること(成果)が次のステップに繋がっているのです。なお、成果とは必ずしも良いものでなくでも構わないのです。成果が得られなければどこが良くて、何がダメだったのかを考え、良かった部分は褒められたものと理解することも出来ます。

 金融機関の彼の話に戻しますが、その人は株式投資に大きく失敗しております。必然の結果と言えるでしょう。一過性のトレンドに乗り多くの銘柄を高値掴みし、その銘柄が大きく下落するとナンピンを繰り返し、最終的には決算書類の不備で指定管理銘柄になりストップ安が続いたなどという銘柄もありました。値段のつかない恐怖を感じた彼はその後の小反発を想定できず、値が付いたところで全て売却してしまいました。先のことはわかりませんが、投資資金は半減、良くても2/3程度になっていることでしょう。ポートフォリオも構築できず、偏った銘柄に資金が集中してしまい、身動きが取れない状態です。これもまた言い訳で、本来は今ある評価額ベースで一から投資をやり直すべきなのです。
 このことは甘えを身にまとった人間は自分のとった行動の責任(損切り)すらとれないことを示しているのかもしれません。本当の意味で褒めると伸びることの意味を理解して自分にも他人にも使うようにすべきなのでしょう。

<サイト管理人> 2012年11月23日記述



 【幻想病と両価性精神病について考える】第182回

 数年前に小学生の男の子の殺人があった時、社会の多くの人が「命の大切さ」を教育しなければならないと主張していました。その後、九州の小学生の女子児童が殺人をして、また同じ意見が出ましたが、今はもうそのことが話題にでることはありません。

 そもそも、日本社会は子どもに命の大切さや自然の中の命を教え、体験できる機会を作ろうとしているのでしょうか?もちろん、心の隅ではそう思っていたり、行動を伴わないまでも子どもに命の大切さを教えたいと願っているかもしれません。しかし、日本の現実はまったく反対の方向へと進んでいます。私も含めた現代の日本人は「行動と思想」がまったく別の物であってもそれが気にならないという「幻想病」と「両価性病」にかかっています。

 幻想症状とは、自分が盗人なのに、自分が盗人であることに気づかず、人に「盗んではいけない」と説教する症状で、現在のように日本人やアメリカ人が地球環境を破壊し資源の枯渇の主役であるのに、「地球環境を守れ」と人に言う症状です。
 もう一つの「両価性病」はやや医学的な用語ですが「価値観が異なるふたつのことを同時に主張する」という症状で、例えばある人に「君が好きだ。嫌いだ」と同時にいったり、「君に金を貸している、借りている」と言ったりすることを指します。
 この2つの症状はかなり似ていて、ある意味では幻想的、ある面から見ると両価性的ということが多いものです。

 日本の飼い犬は年間40万匹が殺され、ネコは30万匹が保健所で処分されます。なぜ、こんなに多くのイヌやネコが毎年、処分されるかというと、簡単な理由で飼い、簡単に捨てるからです。
 たとえば「最近、体重が増えてきたから散歩をしよう」と決意したとあるご婦人がいるとします。さっそく、ペットショップにいってイヌを買います。できるだけ格好が良く「大安売り」という札のついたイヌを求めます。そのイヌと自分が相性が良さそうだということで選ぶのではなく、いかに自分がよく見えるか?いかに安いかでイヌを飼うのです。ですからスタートから少し間違っています。
 かくしてイヌを家に連れてきて翌日から散歩を始めます。3日坊主とう言葉があるように数日は良いのですが、じきに散歩に飽きるか、どうも散歩をするとご近所の人と顔を合わせるのでイヤだとかいう理由で散歩を止めます。
 そうなると面倒になるのはイヌの世話。最初からイヌという生き物を飼っているという意識はないのですから、保健所に捨てに行きます。そのイヌは間もなく・・・普通1週間から2週間程度ですが・・・二酸化炭素で窒息死させられ、この世を去ります。
 このような行動をしているのが日本の大人達です。おそらく、イヌやネコも子どもの方が大切にするかも知れません。

 また、「近代化」「便利」の名の下にわたし達は動物をどんどん身の回りから排斥しています。家畜ばかりではありません。今や都会にはスズメ、ツバメ、ホオジロなどの野鳥や、イタチ、ヤモリのような小動物、蚊、ハエ、カナブンのような昆虫などつい最近までいた小動物はすべて絶滅してしまいました。
 新潟のトキの保護に熱を燃やす人たちも、スズメの保護にはほとんど関心を示しません。テレビで報道し、社会で騒がれた物だけを異常にかわいがり、保護しようとするのです。

 私達、地球上にすむ生物はお互いに依存し、お互い少しずつ危険な目に遭いながら生活をしています。その中で人間だけがという意識が強すぎること、それはやがて人間同士の命を軽んじることになるでしょう。両価性や幻想症状が急に社会に蔓延してきたのには、それなりの理由があると思います。
 原因としてはその組織によってブラックボックス化されてしまうところにあるのでしょう。現代社会には、効率的に物事を動かすがために、ブラックボックス化されてしまうようなことが結構あると思います。家から出た汚水がどのように海へ行くのかを実際に見た人なんて、そういないと思いますし、ごみ問題だってそうです。袋に入れて出したら誰かが回収していってくれます。ブラックボックスによって両価性の片方はうまく隠されてしまう…そんな事が起こっている気がします。

 実感のない世界、五感で感じることができない社会、架空の中の人生、そのようなものはわたし達に人生の豊かさを味あわせてもくれません。もし毎日1000匹も殺されるイヌが目の前で処分されるか、せめてテレビで放映されれば、たちまち「イヌを殺さない運動」が始まるでしょう。

 わたし達は本当に狭い窓から、感覚もなく社会をみているので、よけいに過激な意見や過激な行動に走るのです。私達は、自分たちが言っていることと行動していることをもう少し一致させた方が良いのではないでしょうか?行き過ぎた価値観の多様化良いことではありません。
 株式投資でも自分の価値観をしっかりと定め、一般的なテクニカルトレードを取り入れ、本流からの派生としての投資手法を採られることをお勧めします。

<サイト管理人> 2012年11月26日記述



 【鉄の起源と神の時代から今の日本を憂う】第183回

 ラムセス二世の治世になってからヒッタイト王国の勢力が一層強くなり、その傍若無人な侵攻に耐えかねて軍を北に進めたラムセス二世は、ガディシュでハッテュシリシュの率いるヒッタイト軍と相まみえました。世界戦史上、有名なガディシュの戦いです。大きな鉤鼻、斜めに後退した前頭骨、そして小さな顎骨を持つ精悍な兵士は強大なエジプト軍に一歩も引けを取らずに戦いました。

 トルコやイラクなどのオリエントの北方の地方では、昔から多くの金属鉱石が採れることで有名であり、装飾品や農具、そして武器に使う材料の多くがその地方からオリエントの国々にもたらされました。鉱石を掘りだして溶かし、加工する技術が徐々に蓄積され、それがこの地方の力となっていったのです。実はそのときラムセス二世が相手にしていたのは、紛れもなくヒッタイト王国、同時に「世界初の鉄器で武装した軍団」でもあったのです。

 現代では巨大な溶鉱炉と十分な装備で鉄を溶かすので、鉄や銅などの金属を溶解することはいとも簡単なように思われますが、紀元前1300年というと装置も知識もありません。銅を溶かすだけで大変で、それよりさらに500℃以上高い融点を持つ鉄を作ることは容易ではなかったのです。ヒッタイトではカリュベス人が鉄の製造を担当し、経験をもとにした多くの知識を持っていたらしいのですが、炉は貧弱なブルーム炉であったことから、鉄をどうしたら強くできるか、ということにかけてはよく知っていたといわれています。
 驚いたことに紀元前2000年頃からカリュベス人は炭素の少ない錬鉄を叩くことによって炭素を鉄に浸み込ませて、“鋼”に変える技術を磨いていて、ガディシュの戦いの時には彼らの作った優れたハガネがものをいったのです。ラムセス二世はヒッタイトとの消耗戦に疲れて講話を結び、ハトウシリシュの娘を妃に迎えました。かくして、鉄器と鉄の優れた製造方法はエジプトに伝わり、現代につながる「鉄器時代」の幕が落とされたのです。

 4000年の歴史を持つ古代エジプトの王の中でラムセス二世だけが、「鉄器時代の幕開け」と「最大の宗教(ユダヤ教)の発祥」の2つの巨大な歴史の波の中でもがき、苦しんだのです。それから3300年を経過した今ではそのことがはっきりと見えますが、渦中にいたラムセス二世は次々と訪れる巨大な歴史の波を感じつつ、一人の人間がそれを支えることが難しいことを痛感していたに違ないでしょう。ラムセス二世の像には人間が互角に渡り合うことのできない巨大に力に対峙して、自らを神として精一杯こらえているのを感じることができます。

 現代社会がラムセス二世と同じ苦悩に呻吟していると言ったら言い過ぎでしょうか?1963年、延々と続いてきた鉄器時代が終わりを遂げました。金属材料の9割を占める鉄鋼材料のシェアーが落ち始め、それは急降下し、2000年には全材料に占める金属材料の割合は50%を切ったのです。これはラムセス二世以来の出来事ですので、歴史的事件であることは間違いないでしょう。もちろん1960年代はまだ「鉄鋼の時代」と思われ「鉄は国家なり」が豪語されていました。経済団体の長は鉄鋼会社の会長でしたし、鉄の会社は日本のパトロンだったのです。大きな歴史の転換点に遭遇した人はそのことを知ることはできません。そしてただ大波に翻弄される小船のように運命にその身を委ねなければならないのです。

 鉄がピークを打った年の10年前、1953年にワトソンとクリックがDNAの構造解析に成功しました。それまでの約300年、近代科学はモーゼが作った「心の宇宙観」を次々と破壊していきましたが、その集大成をしたのが当時30歳そこそこだった若き二人のイギリス人だったのです。ガリレオ・ガリレイは「地球は宇宙の中心ではない」と叫んで宇宙の物語を打ち壊しました。「それでも地球は廻っている」という彼の言葉は科学的真実に対する強い信念を感じることができ、近代の幕開けにふさわしいとも言えますが、同時に人間が「知恵の限界」を持っている存在を忘れた不遜な言葉とも言えるでしょう。

 かつてラムセス二世を襲った「鉄」と「神」は3300年の時を経て、人類の前から姿を消そうとしているのです。それには「物質」と「誠意」の終わりとも感じられる事態が展開しているのです。情報革命は私たちの身の回りを急激に「架空の世界」に転化しつつあり、神を否定した人たちは誠意を失って「同時に価値観の違うことを受け入れる精神状態」を獲得しつつあるとは言えないでしょうか。

 昨今、世情をにぎわしている「循環型社会」は物質から離れたくない人間の足掻きのように感じられます。もともと、人間はものを使って幸福と子孫を育ててきました。それには「対価」がいることを人間は良く知っており、幸福と子孫を作ることに使ったものをもう一度使おうなどと考えたことは無かったのです。

 人類が誕生してから変わらぬ規範は「末広がり」と「勤勉」でした。働くこと自体は人間の正常な活動であり、人間の真面目さの発露でもあります。マルチン・ルターは神から授けられた神聖な職業に忠実であることを求めましたし、宗教や麻薬であるとした共産主義の生みの親、マルクスは「労働」は人間の活動としてとらえるべきで、労働によって人間がその真面目さを発揮できる機会が失われれば、人間はもっぱら病気になったり、死んだり、泥棒をしたりする場合だけ人間であるようになってしまうとまで言っています。

 伝統は長い時間をかけて徐々に形作られ、そして私たちの生活の中に根付いてきました。普段は守っている伝統が私たちに何を教えているのかを意識しませんが、私たちは確実のその伝統の中で生き、それらからの無言のメッセージを受けて行動しているのです。
 凍えるような冬の日、かじかんだ手で大根を洗った先祖たち。灼熱の太陽の下で輜重兵は前線の兵士に食料を届けるために歯を食いしばったでしょう。彼らの思いは日本の繁栄であり、子孫の幸福であったはずです。
 自分たちが命をかけて築いてきたこの日本を愚かな考えや行動で滅ぼさないで欲しいと思います。それでは自分たちの苦労があまりにも惨めだからです。

<サイト管理人> 2012年11月29日記述



 【日本教という呪縛について考える】第184回

 かつて小室直樹が記した「日本人のための宗教原論」という本は大変よく書かれており、日本人とは何か、そして日本人が信じる宗教とは何かを明記しております。結局彼に言わせれば、日本に入ってきた宗教はいつの間にかどれもこれも日本教になるということです。
 例えば仏教は戒律が厳格であり重要な要素となりますが、日本に入るとそれが抜き去られます。比叡山延暦寺の開祖(天台宗)が戒律を廃止したからとも言われております。つまり、日本にあるものはは戒律なき仏教なのです。儒教も同じで、中国ではひとつの宗教になっており、儒教的な葬式も存在します。ただ、仏教同様、日本に入ると本質が無くなってしまいます。そして日本での儒教は道徳になってしまうのです。

 日本教の中身は時々の役人が宗教を作るというものです。彼らは行政や現実の問題を優先し、宗教に含まれる戒律は二の次にします。通常の宗教国家とは明らかに違います。そもそも仏教では一番大事なのは心理や悟り、儒教では政治制度やそれを通じて人民の幸せを高めることにあるのです。しかし、日本ではそれ以上に大切なことがあります。それは「国民の好み」です。「人間そのものの好み」とも繋がります。
 そして他者感覚がありません。同じ仲間と同じ話ばかりしています。また、自分の好む報道やバラエティ番組を見続けることにもなります。そのことには疑問を挟まないのです。そこに怖さがあります。オウム事件もそうした経緯から発生したといっても良いでしょう。
 考えの違う人間ともっと付き合い、話す機会をなぜ持たないのか、とても残念と思います。自分以外の考えの人と付き合わない限り、一生自分を客観視できないからです。

 宗教に話を戻しますが、キリスト教では人間よりも神の方がはるかに大切だと考えますが、日本では人間の都合が神の都合よりも大事になります。日本には神や仏がたくさんありますが、一神教では神が最初に存在し、神が人間をつくったと定義します。日本では神様すら人間の都合通りに変えられるのです。人間が神に指図できれば良いという考え方をとります。仏に対してもそうです。
 仏教では神はまだ悟りに至っておらず、仏は悟りを得たものになっているにも関わらず、神様仏様になってしまうのは結局人間が大事だからです。

 一神教の場合行動パターンが制約されますが、日本教の場合、行動パターンを構築できません。そもそも規範が何も無いからです。だからこそキリスト教もイスラム教も儒教も規範がある為に理解できないのです。特にイスラム教はコーランに行動規範が書いてあるため、日本教とは相容れないものとなります。全く正反対の宗教です。

 日本人は何を信じているかというと、自分よりも大切なものを信じるのではなく、自分の役に立つならば良いという何でもありの状態になっているのです。大多数の人はそのことを考えていませんが、それを無意識に信じ込んでしまいます。
 円安+インフレは理解しやすく、円高+デフレは少々理解に苦しみます。強い円があってこその内需産業であり、輸出企業の積極的な世界展開を生むのですが、日本人は目先の焦燥感を現状の否定に向けてしまうことから、円安+インフレ論が台頭してしまったのです。
 数パーセントのインフレ状態の方が健全であると、西欧やアメリカの例えを出す評論家がおりますが、そうした国で発生した小さな資産バブルがサブプライムローン債問題や欧州危機を起こしたことを同時に述べなくてはならないのです。常に西欧が日本よりも勝っているという福澤諭吉的感覚は日本教に染まった人々にとって理解しやすいからこそ取り上げられるのかもしれません。

<サイト管理人> 2013年1月13日記述



 【資本主義の精神をウェーバーから考える】第185回

 現在は大変な時代になっています。それは事実でしょう。実際に商売をしている人は強く感じているように、いっこうに景気は良くなりません。これから景気はどうなるのかと思って財政をみると、日本の財政は破綻寸前です。政府の負債は発表の度に膨らんでいます。今の政府にはなすすべがないのです。今回のコラムではそのことを考えたいと思います。

 まず、これらを考えていくうちにひとつの疑問が生じます。日本は断崖に立っているといいながら、今の日本は大変なお金持ちであるということです。個人の金融資産は1200兆円、対外純資産も100兆円以上あるのです。アメリカは膨大な対外純資産はマイナス100兆円を遥かに超える水準であり、そのアメリカ国債は日本や中国が大量に保有しています。
 また、日本の生産力は非常に高い状況ですから、日本はインフレを起こさずに対処できるのです。日本人が持っているお金が少しでも動けば不景気など消えるのです。なぜお金が動かないのでしょう?

 不景気、財政危機。何らかの方法で景気が良くなれば財政危機が大きく改善されます。つまりお金の流れを良くすれば済むだけの話です。モノ作りの会社はモノを作りますし、設備投資も進みます。設備投資が増えればますます景気が良くなり、収入も増えていきます。平成不況は消費不況といわれていますが、仮に所得が増えても消費が増えないという心理的不況なのです。将来に対しての不安から消費が起こらないという状況ともいえます。明らかに情報過多です。GNPは消費+投資ですから、消費が増えれば景気は良くなるというだけの話を難しく考えすぎているのです。
 景気が良くならないのは生産力が低いからではなく、日本には潜在的に巨大な生産力があります。資産も資金も十分にあるのです。

 さて、どこから考えたら良いのでしょうか。この問題を考えるに際してはかつてロシアはなぜ破産したのかを分析することが必要に思います。ソ連が破綻した理由はそれが社会主義であったからですが、ロシアは社会主義を見直して資本主義を導入しました。しかし資本主義路線も破綻してしまったのです。
 ソ連が滅んでロシアになった時、西側諸国は飛び上がらんばかりに喜びました。共産主義や社会主義が悪いという結論が出たからです。しかしその評価は根本的に誤ったものです。
 ソ連を中心とする共産主義者は資本主義は諸悪の根源であると言っていました。ところがロシアになると全く逆のことを言い出したのです。この考え方に対してゴルバチョフは多少懐疑的であったのですが、エリツィンは全力で支持したのです。

 マルクス主義者は資本主義のここが悪いと散々に批判をしました。ではそれが全くの誤りであったのか?よく考えると全部が間違いではないのです。資本主義は強くて生き残った者には良いのですが、弱くて破産したものがたくさん出るだろうと批判したのです。結局それは正しいのです。ソ連の間違いは資本主義を否定して社会主義を否定しなかったことにあるでしょう。大きな問題は以下の二点です。

・社会主義には失業があるのかについて研究した学者がいなかった。
・資本主義でも社会主義でもいい点も悪い点もがある。資本主義にはいつ移行できるかということを考えなかった。

 現在日本が直面している問題は破綻したソ連の状況と同じ状況でしょう。社会主義の生産力が低下してほころびが見え出した状態です。不思議に思われるでしょうが、社会主義国で栄えている国は日本だけなのです。日本の本質は社会主義国といって良いほど社会主義的な要素が強いのです。社会主義国では役人が経済のトップにいます。そして社会主義国では役人が企業に命令を下します。それに対して資本主義国では役人は企業に命令を下しません。相反するものなのです。日本の場合は役人がどこにでも出てきます。通達とは言いながら実質的には命令なのです。役人がトップにいて企業に命令しているのです。
 私はこのことを悪いことと思っておりません。社会主義の国々は平等を目指しましたが、平等にはならなかったのです。それを実現したのは日本だけなのですから、悪ではないのです。日本のトップは金銭的にもほぼ平等を実現したのです。

 以上のように、日本は真の資本主義国家ではありませんから、社会主義の弊害が今現れているのです。高度成長が終わってから暫くの日本の成長はすばらしいものでした。政府も役人も含めて良く回っていたのです。ところが90年代になって経済が悪くなり始めました。日本で一番悪いのが金融業、一番良いのは製造業です。金融業が日本の首を絞めているのです。製造業は猛烈な競争をしていますが、未だに金融業は護送船団式で競争をさせていません。日本は資本主義は正しく、社会主義は間違えていることを証明している国ともいえるでしょう。
 製造業でも競争がないところでは良くありません。分野全部が破綻します。日本の農業もそうです。競争がなかった稲作などは破綻しているのです。

 この意味でソ連がどのようにして栄え、どのようにして滅んだかを考えることは非常に有益でしょう。ソ連がロシアになった時から少し考えてみます。
 ロシアは今までの社会主義を捨てて、資本主義一辺倒という風に思い込んで進みました。これまでの資本主義批判を捨てて進んだのです。資本主義国家になれるのかという問題を捨てて進んだのです。これには西側のエコノミストも喜んで、資本主義になるためにはどうしたらよいかということを助言せず、資金だけを提供したのです。資本主義になるためにはどうしたらよいのかについての研究はほとんど西側にはありません。ましてやマルクス主義者も研究していません。

 資本主義は技術が発展し、資本の蓄積が十分にあれば自然に発生すると解釈されていました。資本主義の基本は古典派のスミス、リカードの本から解ります。だからそういうように考えていれば良いのだという思い込みがあった。割合と簡単に移行できるのではないかと思ってしまったのです。
 ソ連の技術は宇宙一番乗りをしていますし、軍事力はアメリカと匹敵する程度ありました、5年計画もあって、資本の蓄積もあったはずです。だから資本主義が成り立つと考えられたのです。しかし資本主義になることは非常に難しいことです。

 資本主義の本質は自由競争です。社会主義においては自由競争はありません。自由競争は言ってみれば戦国時代です。競争に負けた企業は破産し、従業員は失業します。失業と破産が無ければ資本主義が成り立たないといえます。それに対して社会主義は失業と破産がありません。本来なら失業すべき人をどこかの企業を雇わなくてはならないという矛盾が起こるのです。破産すべき企業を残さなくてはならないともいえます。
 日本も同じで、破産させるべき金融機関を守ったことがいけなかったのでしょう。戦国時代でありながら封建時代を進めてしまったのです。資本主義と社会主義のバランスが崩れてしまったのです。資本主義を否定してしまったと言ったらよいでしょうか。
 ロシアの場合はいきなり資本主義が良いと政策転換をしたので、競争が出来なかったのです。それまで競争をしたことが無かったからです。封建時代の大名をいきなり戦国時代に連れて行ったようなものでしょう。

 ロシアは資本主義が理想であって、資本主義の実現に向かって全力で走っても、出てきたのは資本主義経済ではなくマフィア経済でした。資本主義的営業で儲けたのではなく、ギャングが儲けるピンはねで儲けたお金で回る経済です。
 ここで、問題の中心は資本家とギャングはどう違うのか、マフィアと資本家はどう違うのかということになりますが、この問題にはマルクスも、西側の研究者も研究しておりません。

 これを研究したのがマックス・ウェーバーでしょう。彼は資本主義になりそうでありながら、資本主義に至らなかった国を研究しました。古代中国などがそうであると指摘しています。春秋戦国時代より後くらいが対象のようです。製鐵業、牧畜業、農業も盛んで、王族以上の力を持った商人がいた状況であり、中国の大運河は資本主義になってからつくった英国のものよりも大きいものでだったのです。つまり、いつ資本主義になってもおかしくないくらい進んでいたのです。
 また、ウェーバーは古代インドや中国を研究した結果、技術、資本の蓄積、商業が発達した状況ではいつ資本主義が発生してもおかしくないとの結論を出しました。ただ、資本主義の精神がなかったから発生しなかったと説いています。目的合理的な政治(倫理的精神)を伝えているから資本主義が出てこないとしたのです。

 さて、ギャングやマフィアと資本家はどう違うのでしょう。ギャングには倫理がありません。逆に資本主義者には倫理があります。もちろん資本主義者にも倫理観の低い人がおります。金儲けしかしない武器商人やかつて盛んだった奴隷商人がそれにあたります。

 非倫理的にはふたつの意味がありますが、規範は理解しているが守らないギャング的なもの。規範そのものがないオタマジャクシと鯰のようなものです。これらは似て非なるものです。日本は後者にあたります。技術が進歩しても、資本が蓄積されても、規範性や道徳性がなければ正常な資本主義は成り立たないのです。
 今の日本に足りないのは社会主義的政策(公共投資)ではなく、資本主義の精神そのものであり、そこに含まれる当たり前の倫理観ではないでしょうか。国民が資金力を使い経済を回すことの必要性を理解していない点にあるのです。政策としてインフレ経済に移行させ、無理やりに個人から預金を拠出させるのではなく、個人が自らの意思で拠出する状況を作らない限り日本の抱える潜在的な問題は解決しないでしょう。

<サイト管理人> 2013年1月14日記述



 【指導者の資質・指導力の条件を考える】第186回

 指導者の資格、指導力の条件とは、ある目的に向かって組織を進められる能力を指しますが、実際難しい問題です。山本七平氏の帝王学から、資格や条件を考えてみたいと思います。

 時代が大きく転換する場合、昨日までの指導の方向と今日の方向が違うようになると、既存の組織もどのように大胆に切り替わるかということが一番のポイントとなります。

 日本の歴史では戦国時代から徳川幕府体制に移る時、あるいは徳川幕府体制から明治政府体制に移る時、こういった時に一番指導力が問われるわけですが、この点で特出したのが徳川家康であろうと思われます。もっとも家康には手本があって、それが有名な「貞観政要」という本ですが、彼はこれを1593年、関が原の7年前に読んでおり、関が原の年にこれを自分で改版しています。ですから余程よく読んだのだろうと思うのです。
 この本で「創業と守成いずれが難きか」がという問題が出てきます。創業は確かに難しいものです。守成とは既に出来ているものであるから簡単だという安易な答えを導き出しがちですがこちらも難しい問題です。隋を滅ぼし唐の時代を築いた中国史上最高の名君の一人と称えられる太宗という人は、創業も大切だが、これからは守成の時代に入るのだから、この守成をどうすべきかという思想に重点をおこうと言っております。確かに時代が大きく変わるのは数百年に一度の出来事であるから、守成の時代が大半であり、守成に重点を置くのは合理的なのです。

 守成時代はどうするのでしょうか。まず、最初に問題となるのは、家康は街道一の弓取りと言われましたが、リーダーである家康自身がそのことをはっきりと理解しなくてはいけないということです。
 そして次は、創業時代の能力というのは守成時代では役に立たないことを知ることです。と言って、創業の後身をどうするのかという大問題が残ります。後身はそれぞれプライドがありますので、恩賞も得たい上、高い地位につきたいという思いがあるわけです。唐の太宗もこれには多くの苦労をします。王の一族や創業の後身などが横から口を出すからです。その為に、折角政府組織が出来ているのに、官僚は何もできず、むしろ指導者や実力者から何か言われやしないか?と物事が何も進まないのです。
 太宗はその時に、一族後身の中でトップの人間を棚上げにしてしまいます。これが一番重要な要点になるのです。もちろん恩賞は出しますが、権限を与えない方法を取るのです。こういう時に本人は非常に不満で、抗議をしがちですが、太宗は断行したのです。結果として文官を重用し、高い位につけました。
 家康も似ていて、天下を取るのに大変功績のあった武将には恩賞として所領を与える代わりに、幕政には参画させませんでした。ですから、封建的秩序から言うと、秀吉の時(封建談合の連合政権)と全く違う形になっているのです。禄は禄、しかし幕政には参画させないという手法を取ったのです。

 ここで守成の時代に振り替えているわけですが、これが出来ないとリーダーというのは務まらないのでしょう。同時にこの切り替えが一番難しいといえます。まず本人が頭を切り替えなくてはなりません。
 次に、今まで自分の為に一生懸命やってきてくれた人間に対して全部棚上げにしなくてはならないのです。しかしこれは太宗もやっています。これをやらないと時代の変換に対応できる組織作りはできない、ということは指導力は発揮できないということに繋がるのです。
 これが出来るか出来ないかが「指導者の条件」になるでしょう。家康は貰っている職禄の高と権限を分離しました。封建時代から考えるとおかしな話で、10万石程度の藩主が100万石の大藩主に命令できる状況になるからです。
 同時に家康は組織を使わなくてはならないとしました。しかし組織の元となる法を作らねばならないという明確な意思をもっていた。まず、禁中ならびに公家諸法度、武家諸法度、寺社諸法度等を作りました。これに基づいて全て統治を行ったのです。結果としてこれが徳川300年の基本になるわけで、それに基づく組織というものは大変面白いことに幕末まで変えられることはありませんでした。組織は法的規制の下に動かすという基本を築いたことの証明です。
 これらのことは徳川時代、幕府だけがやったことではなく、各藩もやっていました。加賀藩では有能な農民に大きな農地を与え、指導をさせるようにしたのです。農村の合理化を図ったというものです。

 さて、「指導者の条件」として考えられるもうひとつの問題ですが、将来におけるビジョンが見えていることプラス、自分の能力、それに対する自己評価、自己規定、それに基づく方針がないと指導力が発揮できません。簡素化すると「自己評価に基づく方針」となります。この点面白いのは、戦国時代の北条氏があげられます。方針がはっきりしていなかったのです。関東の統治をすべきか、天下の統治を狙うべきか?ということの結論が出ていなかったのです。その逆に、毛利氏は中国地方の統治に専念するという方針がありました。ですから中央の戦争に巻き込まれるのを徹底的に避けたのです。
 企業でも、大企業になるのか、大企業の必要不可欠の下請けとして成長するのかをはっきりさせないと、良い方向には行きません。これは「指導者の資質」の問題になります。

 次の日本における大きな時代の転換点は、幕末から明治時代への切り替えがあります。
 そもそも明治維新は誰がやったのか、自分がやったという自覚を持っていたのは誰であるのか。それは島津久光でしょう。西郷も大久保も自分の家臣であるのですから当然そのように思ったことと思います。しかし維新を担った当事者たち、下級武士が主になりますが、維新が終わると士族の特権など認めないという市民平等にして一切の特権を認めない・一切を棚上げにしてしまうことを行いました。今から思うと随分すごいことをやってのけます。全ての権限や特権を既存領主から取り上げたのです。現代の官僚制度は下級武士が主になっているので、正確には権限や特権は奪われたのではなく、武士から平民になった彼らに目に見えない形で移譲していったと言うべきかもしれません。
 現在を生きる私達から考えると何でも無かったように思う人が多いのですが、現状の政府ですら物事が進まないことを考えれば当時の苦労を偲ぶことは簡単です。
 予算が組めなくなる。実力者のつかみ取りになる。薩摩の支配になってしまう。薩摩の独立王国です。これを潰さなくてはならなかったのです。そこで大久保利通は西郷を排斥し西南戦争で破りました。自分の出身国である薩摩を潰すことで近代国家の基礎を作ったのです。これは大変な異業です。そこで始めて守成の体制へと切り替わったのです。また、能力主義を実践したことも特筆すべきです。幕府時代に外国に留学した人たちはほぼ全て重用したことなどがそれにあたります。大久保はいかなる能力が必要とされ、その能力組織化するかという明確な指標を持っていたのです。

 明治政府にとっては経済政策の確立が大きな問題となりました。藩札も氾濫している中で、伊藤博文は南北戦争後のアメリカがどう財政困難を乗り越えたかを学んできました。もちろんイギリスを模範とするのか、アメリカを規範とするのかという議論もあったことも事実です。結果、金本位制によって紙幣を発行しましたが、これはアメリカ式を取り入れて、日本的に直して新しい組織を作り上げたといえます。明治政府の興味深いところは、情報や制度を世界中から収集する為の組織も作られたことです。

 以上のように考えていくと、現在におけるリーダーというのは学者ではありません。たまたま組織に属する人が持ってきた資料に対し、これだと言うものを見つけ、判断し、行動する人のことなのです。田中角栄以降の日本の政治家にこうした能力を備えた人がいたでしょうか。そしてこれから先、彼のように偉大な政治家は生まれるのでしょうか。

<サイト管理人> 2013年1月15日記述



 【日本の行方についてもう一度考えるべきこと】第187回

 緊急経済対策で、事業規模20兆円の補正予算を出しました。政府は日本銀行に2%の物価上昇率目標を設定するように求めており、日本銀行は1月21日の金融政策決定会合で数値を設定する方針のようです。これを流れを受けて円安・株高が加速し市場は過熱していますが、私には日本経済の破綻を示すバロメーターに観えます。

 そもそも2%のインフレを起こす為に日銀が出来ることは、過去のどの時期よりも通貨を供給することです。近年において物価上昇率が2%を超えていたのは80年代から90年前後の数年間です。当然ですが2000年代以降はほぼ上昇率0%になっています。
 日銀が2002年から通貨供給を激増させた量的緩和にも、2010年以降の包括的な緩和にも、物価は反応しませんでした。こうした状況から考えると、金融政策だけで2%のインフレを起こすためには、過去の金融緩和をはるかに上回る通貨供給が必要になるわけです。しかしゼロ金利状態ですから、銀行の準備預金を増やすだけの量的緩和は役に立ちません。まず長期の国債を買入れ、通貨が市中に出て行くことが必要です。ちなみに、現在日本銀行が保有する国債の残高は100兆円を超えましたが、少なくとも200兆円以上にする必要があると言われています。

 日本銀行の国債引受けによって市場に大量の通貨が供給されますが、それだけでは何も起こらないでしょう。そもそも企業の資金需要が飽和しているのですから、今更余った資金に使い道はありません。そこで、強制的に余った資金を使わせる為には、財政支出が必要になります。
 今回の補正予算を皮切りに「政府が需要を作り出せば、日銀の供給する資金は確実に使われ、GDPは2%上がる」と首相は説明しましたが、この説明は明らかに間違いです。財政政策でGDPが上がるなら、既に資金が余っていることを考えれば金融緩和の必要は無いのですから。本来論ずるべきは資本主義の倫理的側面である需要の喚起なのです。

 ゼロ金利で有効なマクロ経済政策は、ケインズ的な政策であることは認めますが、日本では成立しないでしょう。なぜなら旧安倍政権や麻生政権で検証されているからです。政府債務だけが増え、GDPはゼロ成長のままでデフレからインフレになることはないのです。
 ただ今回の経済対策が、これまでの政権と違うのは、財政破綻のリスクが増している点です。あと数年で、国債は国内で消化できなくなるでしょう。今年や来年に何かが起こることはないでしょうが、近い将来、長期金利が上昇を始めれば日本銀行が単独で抑えることは出来ません。よって、今回の財政出動+金融緩和が日本の破綻を早めることは間違いないのです。現在のミクロ的な円安・株高は日本経済の破綻を早める序章に繋がらないことを願っております。

 付け加えますが、誤った政策の先に起こることも予想がつきます。日銀が国債を引き受け続け、大量に通貨を発行するのです。それによって激しいインフレが起き、国債が暴落して、今のユーロ圏のように銀行が大量に破綻することになります。日本そのものが財政破綻するのでこれまでのように銀行を救済する資金もありません。IMFの支援を求めても、日本は経済的な超大国です。無理があるというものです。

 そもそも円高は世界から通貨の信任を得ていることを意味するのです。本来はそのプライオリティを生かし、世界に積極的に誘致を進める企業からの収益を財政に適用すべきでしょう。その為の東南アジアでありロシア、南米であり、アフリカなのです。

 長い目で見るだけの時間があるのか解りませんが、本来あるべき日本のスタンスは世界を巻き込んだ経済的なリーダーに立つことではないのでしょうか。日本は私達の想像を超えた生産力と資金力を持つ大国なのですから。

<サイト管理人> 2013年1月16日記述



 【神は存在しないのか、それとも神はいるのか】第188回

 今回は少し経済や政治から脱線します。神の存在について考えてみましょう。
 不完全性定理を用いることによって、神の非存在が証明されましたが、その展開は200年前にカントが提唱したことと似ているのです。

 不完全性定理とは、いかなるシステムであろうと、その内部では決して解決できない問題が発生することを証明した定理です。つまり「すべての問題を解決する者は存在することができない」ということが明らにしたのです。

「私は嘘つきである」 さて、この命題は真か偽か

 この問いが真であるならば、「私は嘘つきである」という私の発言は正しいことになり、嘘をついていないことから矛盾が生じます。また、この命題が偽であるならば、「私は嘘つきである」という発言は正しいことになり、この命題は真としなければなりません。つまり、この命題は決定不可能な問いなのです。
 このように不完全性定理は、システム内部に決定不可能な命題が必ず発生するため、命題の真理性について判断できなくなることが必然的に起こることを証明しました。真理性について判断をするためには、システムの外部からでなければ不可能であり、システムの限界を示したのです。この不完全性定理によって、いくつかの重要な帰結が導かれます。それを端的に表せば「すべての真理を証明することは不可能である」ということです。これは不完全性定理の、いかなるシステムであろうと解決できない命題を含むということから導かれた帰結であり、システムの内部では真理性を定義できません。
 また、不完全性定理を用いて神の非存在の証明も試みられています。神は、万物の起源であり、完全性をその要件とします。つまり、前提として「すべての真理を知る無矛盾な存在を神とする」ことに異論はないでしょう。しかし、不完全性定理によって、矛盾なくすべての真理を決定することはできないことが証明されています。よって結論は「神は存在しない」ことになるのです。

 それに対してカントは、神の存在論に対して、次のような見解を示しています。
 「神の存在に関する考察はすべて失敗に帰する。なぜならば、理性によって導かれた概念は、実在性を要件としないからである。また、神の存在に関する経験的な考察もできない。なぜならば、万物の起源としての絶対者たる神を人間と同じ因果律の下で理解しようとするならば、神自身をもその因果律の法則下にある存在と認めざるを得ないからである」。つまり、神の客観的実在性を思弁的方法によって証明することはできず、また反証することもできないとしたのです。それは先験的概念によって支配されている人間にとって、それを超越した存在としての神を理解することが人間理性そのものを超越することになるからです。
 このカントの出した結論は、グリムが最終的に導いた結論と全く同じでしょう。それどころか、カントは人間理性の限界についても不完全性定理と同様の指摘をしていました。人間は一定のシステムの下で思考するため、その中で解決できない矛盾を抱えることになるのです。カントにとって神の存在論は、まさにシステム内における決定不可能な命題だったのです。カントが「純粋理性批判」を出して200年が過ぎましたが、人類は未だにそこで示された限界からは脱け出していません。この限界をいつか超える日が来るのか、それともゲーデルが追認したように、限界を超えることはできないのでしょうか。

 結局、神が存在する・しないと考えるはどちらでも良いのではないでしょうか。都合よく神を持ち出し、不要な時にはその存在を消す私達日本人の自己矛盾を追及することこそが肝要ではないでしょうか。投資同様、私達には規律が必要だと思うのです。

<サイト管理人> 2013年1月17日記述



 【折角ですので仏教について少々考える】第189回

 本当は仏教とは何なのか、日本の仏教はここがおかしいといったことを本コラムでは考えてみたいと思います。

 現在の心理学、哲学、物理を切り貼りすると仏教に繋がってきます。仏教の中に心理学や哲学が含まれているともいえますが、あくまで関連性においての仏教と捉えるべきでしょう。西欧の人が仏教に関心を持つのはそうした部分かもしれません。ニーチェやショーペンハウアーも関心をもっていたのです。彼らは仏教的な思考方法にヒントを得ています。

 そもそも釈迦はエゴイストです。無我を説いたのが釈迦ですが、悟りの当初、その根本を人に教える気はなかったと言われています。釈迦は自分の悟った内容は一般の人には解るはずがないと考えていました。愚民に話しても通じないだろうし、苦労して得たものを何で他人に話す必要があるのか...です。結果として世界で自分だけが悟った真理を伝道するまでにタイムラグがあったのです。宗教として考えると極めて特異な例で、消極的なものともいえます。

 さて、ここから仏教についてご説明しますが、仏教の基本は悟りであるということです。それに対してキリスト教やイスラム教は救いの宗教になります。ただ、浄土教などは最終的にキリスト教と同じ発想です。最後には神が守ってくれるという教えだからです。仏教は攻めの宗教、キリスト教は受け(救い)の宗教とも言い換えられるでしょう。
 現在の仏教はお経をあげる、または曼荼羅に拝むという習慣になっていますが、それはおかしな話で、釈迦は修行の時に存在していない仏像を拝むことはありえないからです。それは自分自身であるからともいえます。
 結局、釈迦が話したことを後に経典にまとめてお経が生まれ、そこから大乗経典(般若経、法華経など)が生まれました。大乗非仏説論が生まれるのは当然で、後から都合よく作られたものの証拠です。原始仏典といわれるものが比較的釈迦の唱えた仏法に近いでしょう。

 そもそも釈迦(仏陀)は何を言おうとしたのか、それは十二縁起です。全ての世の中はモノと事ではなく、モノと事の連鎖で成り立っているということです。12の要素が連続しているということなのです。ここではひとつずつを解説しませんが、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死です。

 なお、仏教では愛というのは固執に過ぎないと悲観的に捉えています。そして愛が発生する為に執着が生まれると説いたのです。愛とは苦しみのものであり、キリスト教的な絶対的な神から与えられる愛とは全く異なるものです。
 そもそも人間は有限性を自覚していません。永遠の生命などないのにそれを求めてしまいがちです。執着があるからこそ死の恐怖にかられるのです。結局子孫を残すことで死への執着を落ち着かせるともいえるでしょう。それは代替行為です。

 悟りというのは、自分の中に作らなければならない知的な宗教活動です。自分の中に欲望を抑える自我を形成するといったらよいでしょうか。だからこそ、現在存在している寺や坊さんという存在そのものがおかしなものであり、ネパール辺りで始まった仏教は北伝仏教としてどんどん形を変えながらやってきた副産物なのです。中国は儒教国家であり、その概念が織り込まれているのです。先祖を崇拝するというようなものが融合したのです。そして日本では自然との民族的な調和(神道)が織り込まれることとなりました。日本教たる仏教の誕生です。

 なお、キリスト教は砂漠の宗教で、男のものです。男尊女卑が存在しています。ギリシャは女神という概念があったことから、聖母マリアの存在を利用して神格化したとも言われています。聖書を読めば解りますが、マリアの存在は否定されている部分も多いのです。

 繰り返しになりますが、仏陀は愛について悲しみや苦しみだけが残るという考え方を示しています。最終的には分かれるのであるから。妄執、衝動に過ぎないと定義します。普通の人は愛をすばらしいことだと思っていますが、仏教ではそれを否定するので、日本の仏教会はそれについてあまり言いません。

 では善についてはどうでしょうか。仏教的な善というのは社会的に良いことをするのを指すのではありません。仏教が考える善いこととは、無貧(貪らない)、無しん(いからない)、無ち(愚かではない)の3つです。よって善とは修行の妨げにならないことであり、愛などというものは悟りに少しの役もたたないものとなります。

 そもそも仏教は単にストイックな宗教とは違います。欲望を抑えるのではなく、欲望を持たなければ苦しむことなどないという考え方に帰結します。生きること、子孫を残すことに拘ることから苦しみが起こるという考え方に注目しています。そしてこれらは常に因果関係において成り立っています。
 不幸なことに、現在の日本人の大半にはそれが解らないのです。拝めばよいという単純なものになってしまいました。仏教には人間存在の不安があるのです。個人の哲学です。人間存在そのものを考えるものと言ってよいでしょう。考える上での主な観点は以下の4点です。

・縁起論
・輪廻からの解脱
・諸行無常、諸法無我
・不苦、不楽の中道

 結局、悟りを得れば輪廻に苦しむことはありません。二度と生まれ変わることもないのです。生とは違う世界へ行くことですが、それは天国ではなく、現世にいながら別世界に行くことなのです。私は割と敬虔な仏教徒ですが、日本にお住まいで死後お寺に入る可能性がある人は一度仏教について考えてみてはいかがでしょうか。私同様に中途半端な悟りは株式投資に活かせるとも思います。

<サイト管理人> 2013年1月18日記述



 【世界各国のGDP等から日本の立場を考えること】第190回

 以下の表は2011年の世界各国のGDPを額の大きい順に並べたものです。
 ※サイト「世界経済のネタ帳」より抜粋、リンクしております。情報の真偽はご自身で確認されることをお勧めします。

 社会保障制度や消費税の議論に持ち出される国も含まれていますが、スウェーデンの経済規模は日本の10分の1程度であり、躍進の伝えられる韓国は5分の1程です。昨今騒がれているイタリアやスペインは経済規模で大きな国であることが解りますし、インドネシアの経済力は案外大きなものであることも見て取れます。


順位  国 名 単位10億ドル
1位  アメリカ 15,075.68
2位   中国 7,298.15
3位   日本 5,866.54
4位   ドイツ 3,607.36
5位   フランス 2,778.09
6位   ブラジル 2,492.91
7位   イギリス 2,431.31
8位   イタリア 2,198.73
9位   ロシア 1,850.40
10位   インド 1,826.81
11位   カナダ 1,738.95
12位   オーストラリア 1,486.91
13位   スペイン 1,479.56
14位   メキシコ 1,153.96
15位   韓国 1,116.25
16位   インドネシア 846.45
17位   オランダ 838.11
18位   トルコ 774.34
19位   スイス 660.76
20位   サウジアラビア 597.09
21位   スウェーデン 544.68
22位   ベルギー 514.59
23位   ポーランド 514.50
24位   ノルウェー 485.40
25位   イラン 482.43
26位   台湾 466.42
27位   アルゼンチン 444.61
28位   オーストリア 418.41
29位   南アフリカ 408.69
30位   タイ 345.67


 都合よくそれぞれの国の政策や制度を持ち出すのではなく、それぞれの国のGDPをまず知ることから、なぜそうした政策が適うのかということを考えなくてはなりません。
 今回は表示致しませんが、国民1人当りの生産額、各国の出生率、年齢別人口比なども併せて見比べる必要があります。単純にひとつの指標だけに流されるのは危険ですから、多くの指標を知っておくのも良いと思います。それぞれを皆様が参照することで観える日本もあるはずです。

<サイト管理人> 2013年1月19日記述



 【孔子の言葉や儒教について少々考える】第191回

 白川静氏が論語について研究しました。論語を学べという人も多い昨今ですが、なぜでしょう?

 孔子という人は2500年前、春秋戦国時代に生まれた男性です。自身は考えを本にまとめず、弟子が伝承し、死後200年ほどして論語としてまとめられました。
 孔子自身は幸せな境遇にありませんでした。スピリチュアルな世界に育ったようです。そのような中で母親から文字を学び、古代を学んだのです。周という王朝を中国の文化だと言い続けました。孔子は死んだ人間ともコミニュケーションがとれるとも言ったようです。少々理解に苦しむ点もあります。

 そもそも孔子の系譜などについて史記に記されるものは全て間違いであり、彼は非常に貧しい生活をおくり、そのことが人間を凝視させ、深い哲学を生み出したというのが正しいようです。そもそも思想は高貴な身分からは生まれません。不遇な環境から生まれるものでしょう。釈迦の場合は自ら不遇な境遇を作ったわけです。
 孔子は「色々な分野に長けていますね」と言われると、「若い時にはとても卑しかった、出が卑しかったからたくさんのバイトをしないと食べていけなかった」と弟子に語っていました。

 孔子はキリストが生まれる前の人で、人間観察に優れた哲学者でもあります。このころの中国はあちこちで国家が乱立し、相手と潰し合いをしていました。ひとつの国がもうひとつの国に負けると、負けた側の国は全部せん滅させられたのです。せん滅とはそこに住む全員、何万人と殺されるという意味です。日本では戦国時代で負けても殿様が責任を取れば終わりという曖昧な手法を取っていたことを考えれば、徹底された状態だったのです。そういう意味で、孔子は安定した国家を作り、そこで価値観の画一化を図ろうとしたのです。

 毛沢東は孔子廟を破壊しました。孔子が国家の上にあってはならないとしたからです。共産主義からはありえない存在だからです。中国では孔子を否定し、論語を研究した人間を殺してきたのにも関わらず、北京オリンピックでは孔子をモチーフにした開会式を開きました。
 そもそも功や労を求める人間や国家、資本主義には儒教は適しません。どちらかというと社会主義的なものです。釈迦も孔子も反体制的な側面が強いので、日本に入る時には都合の良いところだけピックアップされてしまいました。仏教が拝金的になったように、儒教は勝手に道徳にすりかわってしまったのでしょう。

 さて、そろそそ孔子の論語について話を移します。
 人間が完成されるためには礼が必要と説きました。礼の内容は"楽","射","書","数"として表現しています。現世を見つめることの厳しさを問い続けたのです。以下に論語の一部を抜粋します。

●貧しく生まれてきて世間を恨まない人は少なく、裕福に生まれてきて世間におごる人は以外に少ない。
●今までの暮らしや生活水準を失いたくないと思いつめると、人は恐ろしくあさましいことをしてしまう。失うことへの恐怖がある。
●釣りはするけれど、大きい網でごっそりと取ることはいけない。必要以上に取らない。大切なのは量ではない。
●飛んでいる鳥は矢で射るが、休んでいる鳥を撃ったりしない。油断のある人を対象にしても仕方ない。
●自分の人生のゴール、自分の価値観のゴールを決め付けてしまうとそれ以上成長もしない。燃え尽きたなどというのは自分で決めることではない。
●知っていることは知っている、知らないことは知らないと言うことが大切。知らないことを知っていると自覚しているのは知っていること。
●二回考えればそれは十分、悩みなんてそれ以上に膨らませてはならない。
●語りますが私が作った言葉ではありません。昔からある言葉を繰り返しているのです。
●自分がオリジナルだという人は滅んでいきます。述べはしますが、新しく作ることなどできません。創業はできても守成とは違うのです。
●世の中の失敗や成功を全部自分のせいだと引き受けてしまいなさい。
●人間は器の大きさではない。器では使い道が限られてしまいます。皿にも茶碗にもなれる人間になるべきである。

 孔子は偉大な存在であることは明らかでしょう。孔子の考え方は人間をここまで深く観察するのかというくらいストイックなものだからです。
 ちなみに、ソクラテスは人間を像としてみました。人間は霊魂や物理の法則に従うものということです。キリストやムハンマドは人間を詩とみました。人間は神との契約に尽くすことで愛されるということです。釈迦は人間を法としてみました。人間は法則(カルマ)に従うものということです。そして孔子は人間を役としてみました。人間をどう演じれば美しいかということです。

 孔子のいう「仁」は、演じることから生まれる「役」として考えられています。生き方を演じて、役に至るまでの道のりがあれば最高であるとしています。何度も何度も人の真似をし、そしてふっと自分のオリジナルが見えてくることが重要としました。

 孔子は70代まで生きる長寿でしたが、人生は不幸だったようです。弟子でも優秀な人物は早くに亡くなり、子供も早くに亡くなってしまったのです。いくつかに敗れたものからしか哲学は生まれないのでしょうか。

 儒教は人間を形としてみます。だから価値観が定まってしまうのです。それを権威や時々の権力者は嫌いますから、孔子オリジナルな儒教はなかなか浸透しません。儒教は人間を階段状に並べるものともいえることから、儒教のややこしさはここに生まれるのでしょう。また、儒教は反体制の理論です。そして体制側の理論になった時、そこから反体制の理論が生まれることから、非常に複雑に体制と絡み合うのです。

 私達は全体として孔子を受け入れることは難しいでしょう。ただ、「自分の人生のゴール、自分の価値観のゴールを決め付けてしまうとそれ以上成長もしない」などといった部分を抜粋して生きる教訓にすることだけでも良いと思うのです。

<サイト管理人> 2013年1月20日記述



 【東日本大震災と日本人の愛国心を考える】第192回

 東日本大震災は阪神淡路大震災の1000倍のエネルギーをもつ地震に端を発した震災です。私は二年近く経った今も生き残ったのだという思いが消えません。そして生き残ったが故に、大きく心の一部を損なわれました。三万人以上の人間が突然消え去ったのです。都からすると鬼門にある陸奥の人たちは厄を引き受けてくれたとしか考えられないのです。

 そこに住む人々からは失ったものへの悲嘆を感じられません。決然とした自立があるように思えます。これは人類史における奇跡ではないでしょうか。何かとても大きな力が働いでいるように感じられるのです。
 コンビニの割れたガラスの向こうに商品があるのに、それを盗る人はほとんどいませんでした。床に落ちた汚れた商品を拾ってそれを拭いてレジに並んだ小学生の子供。そんなものを商品と呼んで良いのでしょうか?よほどの文化がないとこうした行動はとれないはずです。神と法律の成り立たない中で人々の行動は何に担保されたのでしょうか。

 しばらくして、天皇皇后両陛下が被災地に赴かれました。海に向かって頭を下げられたのです。それが古代神話に見えたことを今でも思い出します。日本が持っている最も古い家族の陛下。彼らに託された仕事は国鎮めなのかもしれません。土地自身を鎮める為に存在するともいえます。これは古事記の世界です。津波の去った世界に、両陛下が頭を下げることは慰霊を超えて儀式にすら見えました。
 それに対して、当時の総理は罵倒を受け、報われない人でした。県知事や市長、一般市民から怒鳴りつけられました。総理の演説は力強かったのですが、誰も興味を持たなかったのです。誰も見ていなかったのかもしれません。
 しかし、この無能と罵られる総理は巨大な貢献をもたらしたのではないでしょうか。自発的に愛国心を芽生えさせた人といえないでしょうか。笑顔から勇気から愛国心まで自前で。総理のことを見る必要がなかったのです。総理の言う日本ではなく、私達は陸奥込みで日本を考えました。

 震災後、ハーバード大のサンデル教授が中心となった各国の若き学生が語り合う番組がありました。ボストン大の学生と上海の大学生、日本の学生と討論する番組でした。
 アメリカの学生には日本人の行動が奇跡に見えたようです。中国の学生はなぜ隣人にあれほど優しく出来るのかと思えたというコメントを残しています。

 被災地には義があるのです。自前の愛国心が存在したことを証明しているのです。20世紀や21世紀の世界ではありえないことです。愛国心の為に各国がどのくらい予算をかけているかを考えれば簡単に解ることです。
 アメリカは遠い国まで戦争に行きスペースシャトルを打ち上げます。中国や韓国は徹底した教科書であり教育に予算をかけます。ロシアの北方領土開発費を計上しています。つまり、世界的な愛国心とは何十年もかけて国が投資するものになっているのです。

 被災地の人々は家族の為を超えて、地域の為に行動を起こしています。家族の為はアメリカ人でも想像できるでしょうが、郷里の為に自分の命をかけることには驚いたようです。究極の郷土愛であり、愛国精神に繋がります。
 地方分権と言いますが、既に日本においては個人も、家族も、地域も、国家もそれぞれが独立かつ組織的に無条件に助け合うことのできる状態になっています。そう考えると資本主義は日本に根ざすことはあるのでしょうか?民主主義は日本に見合った制度なのでしょうか?

 日本人は哲学や宗教を学ばずに死というものについての考え自ずと持っており、行動を起こせる人たちかもしれません。日本教に洗脳された日本人はソクラテスも釈迦も必要ないのかもしれません。そこに存在するのはあくまで形式上の仏教であり、神道で良いのかもしれません。冠婚葬祭などは心の問題であり、西洋や東洋的な哲学や儀礼は必要ないともいえます。
 日本は他の国と全く異なる個性を持っています。客観的に日本を捉え、日本を異端視することもできます。そんなことは私でも可能なのです。しかし、いつになったら日本の本当の姿を知ることが出来るのでしょうか?

<サイト管理人> 2013年1月21日記述



 【藤田庄市から学ぶ「修行」とは何かについて】第193回

 宗教が社会を揺さぶる事件は続いています。とはいえ、宗教とはある意味で日常的なものですが、突如として異形のものに変る性質を有しています。宗教には修行がついて回りますがが、そもそも修行とは何なのでしょう。私は釈迦派を自認していますが、伝統宗教(比叡山や熊野)の儀礼や儀式を理解することも大切という考え方も一定の理解をもっています。

 宗教には教義と修行のふたつがあり、それが組み合わさって回ると上手くいくものです。そういう意味において伝統宗教は上手いバランスを組み上げて行ったものが多いでしょう。
 仏陀は苦行に意味は無いと気付きました。しかし悟るまで立たないという修行をしたことも事実です。修行とは身体を通して精神の高みにいくということ、これが基本になるようです。イエスキリストとの結びつきもそうですが、宗教者と修行者の個性が大きく関係するのです。基本は枠に従属せざるを得ないでしょう。

 人間の精神を極限まで追い込むこと、それは仏にまみえる、一瞬仏になる、そこでの謙虚さがあるかどうかが問題になってきます。心身を追い込んでいって何が起こるのか、彼らは追い込まれるのではなく、自ら追い込んでいるといえます。一般的にはそこまでしなければ身体も精神も修養されないと考えられています。しかし、身体のことは厄介な問題です。修行が苦行に繋がってくるのです。そこでの意識は精神医学や脳科学の領域にも見えます
 自我が解体されていき、光を受ける、光の粒子になるという過程があることも事実です。その中で仏とまみえるというのもひとつでしょう。結果として感謝というと陳腐ですが、世界をもっと大きなものとして捉えられるようになり、命のつながりの感謝にも繋がるのでしょう。

 ただし、世間との乖離、修行を積むことによって世間と離れてしまうことはあります。離れざるを得ないのです。しかし大切なことはまた元の状況に戻るということです。精神の高みを獲得したものとして戻るのです。宗教論的に言うと、世俗から聖なる領域に入る、そして聖なる領域から日常に戻ると説明されます。以前とは寸分たがわないところに戻るのに、全く違う世界に観えてきます。宗教的人格が極めて高くなり、生まれ変わったように出てくるともいえるでしょうか。それが宗教的人格です。この点において禅でも、仏教でも、イスラム教でも、キリスト教の一部でも大体同質なものと考えてよいでしょう。

 よく身体を清浄するといいますが、身体は意識によって自由になりません。タバコも酒もやめられないし、痩せたくても簡単には痩せられません。つまり、身体と心が別々のものと捉えられがちですが、仏教では身体と精神は一体のものとして考えられているのです。身体に邪魔されたくない、そのために修行をしているといってもよいでしょう。傍から見ると苦行に見えることもそこから生まれてきました。

 ちなみに、人間は苦行を行うと達成感から悟りを得たような錯覚にとらわれますが、それは危険な考え方です。日々生活をしていく中で修行されていくのです。それを細かに自覚していくこと、何をしているのか、何のためにしているのかということを考えるのが修行でしょう。

 そもそも本当は宗教的な何でしょうか、修養に結びつくとするなら、今の宗教はどういうように位置づけられるのかを考える必要があるのかもしれません。もしもここで考え誤ると、修行第一主義に入ってしまいます。聖なる領域に入るとは、社会的な日常や秩序からかけ離れることを意味しますが、もしもそれらを排斥する、壊しても良いとなればカルトになってしまいます。一番気をつけなくてはならないことです。精神を呪縛されてるからです。リアリティを宗教的なことに持っていくことが恐ろしいことともいえます。宗教と社会が対立しがちなのはそうした理由からでしょう。

 宗教的世界が真実になると、この世が悪いものになり、この世に生きていること自体が悪いことになります。だから、殺して自分が高みにいくという考えも救済の一環になりかねないでしょう。オウム事件はそうした一例です。グルイズムがないところに、せまいグルイズムを持ち込んだことがいけないのです。師に対して絶対服従すると位が上がるなどということは不条理極まりないでしょう。社会的に認められないことをやって、それが宗教的世界では良いことだというのは恐ろしいことです。チベット仏教にも殺すと言う考え方がありますが、物理的に殺すことを指していません。間違えた解釈がテロリストに繋がってしまいます。

 伝統宗教にも反社会性があるが、現世と折り合いをつけることをしてきました。人間性(宗教性)とはいいますが、時代背景を見ながら折り合いをつけるのです。過去に残された言葉だけを尊ぶと道を外してしまいます。修行の根源(原始仏教)にふれることは知的なことにふれることでしょう。
 宗教は人間のトータルを本当に表しています。これほど宗教現象が人間を映し出していることはすばらしいのですが、危険でもあります。修行という言葉に人間は弱いでしょう。本当は修行の目的は言葉にとらわれないことですが、修行と言われると納得するのは矛盾しているのです。

<サイト管理人> 2013年1月22日記述



 【昔読んだ角田光代さんの文章から少々】第194回

 このところ少々自分にも難解な教養書を読んでいたこともあり、気分転換の為に昔読んだ小説を引っ張り出してきました。何冊か読みましたが、やはり角田光代は私のお気に入りです。

 私が角田光代という作家に出会ったのは今から10年程前のことだったでしょうか。当時の知人に勧められて読んだのが始まりです。恋愛観などは実にリアルに描かれており、20代の私には随分と斬新なものでした。現在は彼女も40代半ばになっていると思います。最近の作品はよく解りませんが、とてもすばらしい視点をもった人と理解しています。

 角田さんの作品で一番記憶に残っているのは「あしたはアルプスを歩こう」という小説です。この本には彼女の宗教観について書かれており、私のそれと酷似しております。最近ふとしたきっかけで読み直す機会があり、余計にそう感じた次第です。
 以下は角田さんの文章を抜粋しながら繋げたものですが、小説家の文章はとても明解で、私がこれまでコラムで書いたことをまとめてくれているように思えます。

@@@@@ 以下角田さんの言葉 @@@@@

 キリスト教は信じなければならないことが多すぎる。神とマリア、イエスとその奇跡、真実と天国。信じることが多い宗教は人を子供にさせるようにも思える。何も考えなくてもいい子供にしてしまうんではないかと。私が感じるキリスト教への違和感とはそこから生まれているのだといえる。
 それは自分にしか解らないし、見たことの無いことをただ言葉で説明されて、これを信じなさと言われても、私には信じることが出来ない。自分の目で、身体で、見たり知ったりしていないから。

 仏教は考えることを求める。そうして、悟りの境地をずっと待つ。見たり感じたりできなければ、わからないまま、知らないまま探していかなければならない。仏教のそういうところが自分の性にあっていると思う。戒名を始めとした事柄についてはまるで納得が出来ないけれど、本筋で仏教が好きだと思う。

 生きていれば、人間誰しも「生きているって何だろう」と思う瞬間がある。明確な答えは得られそうにないから、そんな疑問を抱くのは無駄である。だが、無駄だからといって、あっさりと疑問を打ち捨てることが出来ないのが人間の人間たる所以に思う。
 意味とか無意味とかの枠を超えて、それぞれのやり方で「生きるって何だろう」を追求せずにはいられない。

<サイト管理人> 2013年1月23日記述



 【丸山眞男と現代日本について少し考える】第195回

 丸山眞男は日本の内部から反民主主義を分析し説明し、構造を明らかにしました。衝撃的な本を東京裁判中に出しております。過去に何があったかを考え、未来を思うという観点からです。8.15の日は絶対を喪失し、自由になった日本人が運命をゆだねた日でもあります。戦前の価値観の根本的な問い直しを行った時代ともいえます。そして、彼は時流に流されない生き方を尊敬していました。戦前の国家権力を身をもって体験しているのです。
 彼は民主主義という理念を生涯にわたって考えました。丸山自身に政治的立場は何ですかという質問に対しては「民主主義の永久革命論」と答えています。私は丸山の考えを全面的に支持しておりませんが、言っていることの本質は概ね正しくも思えます。

彼の具体的な考えは、
●人間一人ひとりが独立した人間になること
●他人を独立した人間とした人間と尊重すること
●間違っていることにはNOと言えること、このNOと言える精神こそが重要である
●近代国家の基本原則は行動を取り締まるのであって、思想を取り締まるものではない
●戦時中は何もしていないことが最も危険であるという社会であった。権力が個人の内面に容赦なく踏み込んでくる。自在に浸透するものだった

 我々の求めるものは個人主義的国家感でもなければ、個人が等族の中に埋没してしまう中世的国家主義でもなく、いわんや両者の奇怪な折衷たるファシズム国家でもありません。個人は国家を媒介としてのみ具体的定立を得つつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならないのでしょう。

 彼は日本の政治思想史を科学的に研究していくにつれ、江戸時代の政治思想にも向けられていきます。朱子学や国学などの封建思想が、時代の中で思想的に変容していく過程を追いながら、荻生徂徠や安藤昌益の思想の中に旧来の倫理や自然感に埋没しない主体的な萌芽を見つけ出していったのです。
 同時に、明治の思想家福沢諭吉に矛先が向けられました。私は福澤を一部好みませんが、彼は「一身独立して一国をなす」という諭吉の言葉の中に国家から独立した精神を持ち、国家を自覚的に支えていく人間像を読み解きました。学問のすすめは300万部売れましたが、当時の人口は3000万人ということを考えると、恐ろしい発行部数です。江戸時代の価値観を一変した内容でした。飢餓からの民主主義、それが本当のデモクラシーと説いたのです。

 今現在、民主主義の理念と運動という側面は全くなくなっています。本来人間は主体的自由の所有者でなくてはなりませんが、そのことについて考える人がいないのです。日本では仏教や儒教を外来思想を変質させてしまう日本独特の風土を有しています。輸入される思想は構造化されず、原型といわれる意識の底辺に沈んでしまうのです。

 自分を対象化して認識すれば無意識の自分を意識レベルのものとして認識できます。つまり日本はこれまで何であったのかということを知ることは本質を知り、弱点を知ることに繋がるのです。法哲学は過去を徹底的に分析することから始まる学問といえるでしょう。

 民主主義の基礎はひとりひとりの行動にあります。私達はひとつの行動を選ばなくてはならないのです。無限の思考を断ち切ることにより行動を選べるのです。議会政治の危機は議会政治の最大の好機になるのかもしれません。よって、民主主義とは単に選挙に行くことではないのです。民主主義とは支配層に対するものであり、だからこそ常に問い続けることが出来るとも解釈できます。それらは結びつかないもので当然なのです。物事を根本的に突き詰めず、曖昧なまま現実と真実がくっついている現在、主権者であるという意識を明確に持つためには、明確に政治に対する理念や理想を持たなくてはならないでしょう。

 政治を制度ではなく、それを支える理念と精神から考える必要があります。また、人間の尊厳を認める、人間らしさを考えるというのはどういうことか、それは支配者と非支配者が一致することでしょう。しかし、集団をつくればそこにコントロールする人が生まれ、少数支配の鉄則が生まれます。つまりどんな制度を作っても上手くいかないのです。直接民主制でも上手くいかないはずです。制度論や理論体系の問題ではなく、方向の問題です。だから民主主義は永久革命なのかもしれません。

<サイト管理人> 2013年1月24日記述



 【量子物理学から国のあり方を考えてみる】第196回

 19世紀まで世界の物理法則を打ち破っていたのはモノとエネルギーです。物理を阻害していたのです。しかし20世紀に入ってそれを革命的に変えたのはアインシュタインです。アインシュタインのe=nc^2という仮説は見事に宇宙を解明し、原子爆弾の発明に繋がったのです。

○エネルギー=モノの重さ×光速の2乗。

 エネルギーは空間そのものにもあると考えられるようになりました。そして、量子物理学は全ての価値観を変えたのです。
 ニュートンの時代はのどかで肉眼で見られる限りの宇宙と地球といった物理学は解り易かったでしょう。リンゴの引力は簡単です。ガリレオもそうです。目で見える事象だからです。
 その後量子物理学(量子力学)に入ります。イギリスのマックスウェルの電磁気世界を受けてアインシュタインが出てきてから、いかな微小なものでも連続して激しく動くことでエネルギーを生むとされたのです。しかも動くスピードが早いと信じられない程のスピードで(階乗的に)エネルギーを生み出すと理解されました。エネルギーとは熱でもあるのです。

 エネルギー世界を決定しているのは時間ではありません。いかな微小なものでも連続して激しく動くことでエネルギーを生むというものです。しかも動くという情報が与えられている限り、エネルギーを無限に生み続ける。これが原子力の基本です。熱が秩序を生むといったら良いのでしょうか。具体的には原子の中にある中性子に原子核をぶつけるのです。それも連続して行います。それが核分裂であり、原子力発電なのです。

 以前、哲学者は最小単位の原子で出来上がっており、それが積み木のように重なり合って出来上がっていると理解していました。しかしよく観ると違います。原子から素粒子に入っていくと量子世界がありますが、この世界では物理方式が通用しないのです。
 例をあげるならば、運動する電子の位置と運動量を観察する時、位置がわかった瞬間に運動量がわかりません。電子を確実に観測できず、不確定性がつきまとうのでず。これがハイゼンベルグの不確定性原理です。私達は「物理的にあり得ない」とよく使いますが、物理そのものが不確定なものです。量子世界の不思議があふれ出しています。

 ハイゼンベルグからミクロとマクロの世界は繋がらないでおります。しかし、ミクロ世界の技術は応用できることから、不確実性を伴いながら使われています。レーザーやパソコン、携帯電話、MRI、電子レンジなどがそれに当たります。結局、物理学者は量子世界が使い物になるなら解らなくても良いではないか、便利なら使いましょうという立場をとっています。コペンハーゲン解釈です。

 ミクロ世界とマクロ世界は別の法則で重なり合っています。重なり合った世界が我々の理解するリアル世界です。多世界解釈と言えます。いくつもの世界が重なり合っているのです。この解釈を現実の世界に持ち込めば、日本を再生させる為に役立つかもしれません。
 コミュニティー作りを歴史的な観点からテーマ的集団づくりへ移行させると考えればよいでしょうか。集団はその昔作業から生まれました。それがコミュニティで、その拡大が現代の国家です。しかしそれは違うのではないでしょうか。テーマ集団は情報集団ですから。獲物を目的としない集団を目的とした集団にすれば国家の再生に繋げられるのではないでしょうか。

 モノとエネルギーの時代は終わりを迎えつつあります。人類もまた量子的に振舞う時代が求められているのではないでしょうか。モノとエネルギーだけなら人間はいないのです。私には縁によって人間を結びつければ大きなエネルギーを生むと考えております。つまり縁とはひとつの情報という捉え方をしています。他者と共存共栄していくことがエネルギーを生んでいくでしょう。そのエネルギーの元が情報の共有だと思うのです。

<サイト管理人> 2013年1月25日記述



 【バッシングでは社会が良ならないことについて】第197回

 女性は子どもを産むことができ、男性は突撃することができる能力を有していると思います。それ以外にはあまり差は無いが、この特徴に付随して関連することには違いが見られるようです。男性は突撃して死んでしまえば終わりだから、やや慎重さに欠けますが、女性は自分が死んだら子どもが危ういから慎重になります。
 両親が揃っていると子どもの生育に良いと言われますが、その一つに心配性の母親と、少し危険なことをやらせる父親の存在もあげられるでしょう。また、欠点が目につく母親と、長所を伸ばそうとする父親という傾向も存在しています。

 2011年の原発事故でも、この傾向はハッキリ出ました。母親は何とかして自分の子どもを守ろうと必死になり、男は「日本のために少しの犠牲がでても仕方が無い。それが我が子になることもある」という言動をとったのです。私は母親の態度が正しいと考えましたが、ここに考え方が二つあることは認めなければならないでしょう。

 ところで、家庭と社会では違う事もあります。その一つは「数人か1億人か」ということです。統計力学で学んだことですが、数が少ないといろいろな事が起こるので、個別に対応しなければならないけれど、数が多くなると論理的に決まってきます。だから、女性はやや個別に記憶し、男性が論理で理解しようとするという心理学者の言うこともわかるような気がします。

 膨大な数の人間が存在する社会は、論理的に構成されがちです。たとえば、優れた人が何パーセント、平均的な人、そして劣る人が何パーセントなどという「能力分布」もまた人間の性質によって一義的決まってしまいます。
 たとえば「殺人事件を無くす」ために、「殺人事件を起こしそうな人」をすべて逮捕しても、同じ数だけの「殺人事件を起こす人」が「普通の人」から出現します。これは、「一人一人の心の中にある「人を殺したい」と思う比率」が決まっているからでもあります。だから、殺人事件を減らそうと思ったら、殺人犯になりそうな人を逮捕するのでは無く、自分の心の中で「人を殺したい」と思う気持ちを減らすしか無いのです。

 学校の体罰で可哀想なことが起こっても、それをおこした人を罰しても不祥事はあまり減りません。隠れるだけなのです。もちろん、事件を起こした人は罰せなければなりませんが、それが社会をよくすることに繋がらないでしょう。それは社会が集団だからです。
 そこで、私たちの心の中にあるもの、「どうしても言うことを聞かない子どもに手を上げない」とか「どうしても言うことを聞かない子どもの心を素直にする」などの、一人一人の心の中の変化が期待されます。

 しかし同時に、成長期の子どもの心は矛盾している方がよいこともあります。だから、成長期の子どもの教育というのはとても難しいのです。ただ、教育界は改善できるので、「家庭、学校、社会」が一体となって、一人一人の心の中を綺麗にするしか本当の解決法は無いでしょう。
 これがバッシングしても、バッシングしても社会は良くならない物理的理由なのです。

<サイト管理人> 2013年1月26日記述



 【ねじれ国会が悪である風潮と解説員の資質】第198回

 民放及びNHKの解説員は、衆議院と参議院の与野党が逆転している現状を「ねじれ国会」という表現を使い、批判的な表現を用いております。ラジオやインターネットでも見受けられますが、あまりにも非常識な表現ですので、今回はこのことについて書きたいと思います。

 日本の政治制度は、衆議院と参議院があって、それぞれ別の時期に投票されます。ごく稀に「衆参同時選挙」がありますが、任期も違ってくることから、解散のある衆議院と任期が決まっている参議院の間に選挙時期の違いがあって当然のことです。

 かつて、55年体制と言われた自民党の強かった時代、衆議院と参議院が同等のもので「参議院は付随物」,「参議院は不要」などと言われていました。しかし2大政党制を目指すならば「ねじれ」は正常な状態を作り上げるはずです。それを異常な状況のように解説する各局はあまりにもレベルが低いと言わざるを得ません。
 アメリカでも大統領は民主党、議会は共和党といった具合に、また、議会でも上院と下院の勢力が違うなどというのは普通のことで、他の先進国でも珍しいことではありません。なぜ日本の衆議院と参議院の勢力が違うだけで「ねじれ」という表現を使い、「悪いこと」のように表現する「文化人」が多いのか不思議です。

 もともと「ねじれ」が悪いのではなく、各党の党議拘束が強く、議員が単なる投票機械になっていることが問題なのです。憲法の精神からすると、衆議院と参議院の考えが違って当たり前であり、議員ひとり一人が国民の代表として正しく行動することが大切ではないでしょうか。
 もしも各局の解説員が批判するとしたら、まず「ねじれ」という「異常事態」と思われる用語を使わないように呼び掛け、その上で「せっかく、日本も衆議院と参議院が別々の考えを持てるようになり、二院制の意義がでてきたのだから、議員一人一人が党議に拘束されることなく議論をするべきだ」と言って欲しいものです。 そのぐらいの判断能力によって報道がなされないと、その意義すら認められないと考えております。ねじれ国会こそ国民が真に求める政策のみが通過して然りのなのです。

<サイト管理人> 2013年1月27日記述



 【なぜメディアは信用できないのかについて】第199回

 新聞やテレビはなぜデータで間違いを伝えるのか、その原因について書いてみます。

 1933年に日本は満州の占領政策を続けるために国際連盟を脱退しました。このことで日本人は憤激して「脱退すべきだ」という考えが大半でした。しかし国際的には独自の行動になったので、ちょうど、今の北朝鮮のような印象を持たれました。
 その時に、毎日新聞は国際的なニュースをほぼそのまま流し、朝日新聞と読売新聞は世界の一般的なニュースを伝えず、日本の世論に迎合して、いわゆる「キャンペーン」を貼ったのです。
 その結果、毎日新聞が停滞し、朝日新聞と読売新聞が大きく部数を伸ばして、逆転しました。さらに戦後、1971年の沖縄の返還を巡る密約問題でも同じ事が起こり、毎日新聞の不買運動へと発展しました。これを最後としてある編集部員の話として「言論によるテロの効果とその商業的な骨法」が確認されたのです。

 「言論によるテロ」とは、新聞、週刊誌、テレビが「あること無いこと、何でも報道すれば、社会はそれに反応して怒り狂い、特定の個人や団体を徹底的に痛めつける事ができる」ということです。
 そして「その商業的な骨法」というのは、「テロをすれば、儲かる具体的な方法も身につけた」ということを意味します。骨法というのはいろいろな意味に使われますが、普通は「奥義」ということですから、確実なコツを身につけた感じです。

 テレビ、週刊誌、新聞がその気になれば、日本人の劣情に訴えるキャンペーンを張り、それに異議を唱える人や団体を徹底的に叩けば何でもできますし、それが視聴率や販売部数を増やすことになります。その記事の書き方、報道の仕方、タイミングなどをすべて、国際連盟脱退事件や沖縄密約事件で会得したというワケです。そしてこの2つの事件で「儲かった側」はつねに「政府に有利な報道」という特徴があります。脱退事件では松岡外相を支持し、沖縄密約では佐藤首相を擁護したのです。

 日本という国は四面を海に囲まれ、ほぼ単一民族で、天皇陛下を頂いていたことから、日本には奴隷制度も無く、殿様は民のことを考えておおむね良い政治をしてきました。だから日本人の心の中は「お上は悪いことはしない。お上にたてついたらろくな事はない」という信念で固まっています。これも日本教の弊害でしょう。
 だから「言論テロ」を実現するには、第一にお上につくこと、第二に日本人の劣情か感性に寄り添うこと、そして第三に不当に被害を受ける個人や団体に対して愛情を持ってはいけないという方法を採るようになりました。それ以後、つまり沖縄密約事件がおおよその結末が観えた1980年代から、日本のマスコミは「言論テロリズム」に統一され、「事実を伝える」ことは、それにあたりさわりが無い場合に限るという制限が加わったのです。

 すでに、日本のマスコミは、会社組織で編集が経営から独立していないこと、記者クラブが閉鎖性を持っていること、一人一人が旧来の記者魂を持つことができないこと、それに加えて予算が厳しくなり、記者が満足できる取材ができないなどの状態にあり、なかなか「言論テロリズム」から回復することができないのでしょう。だからこそメディアはそのまま信用できないのです。

<サイト管理人> 2013年1月28日記述




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