【認知心理学から心のコントロールを学ぶ】第280回 |
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皆様は自分にストレスを与えている原因を正確にご存知ですか?これが出来ないからこそ身体の不調を訴えたり、不眠といった現代病に悩む人が多いのだと思います。私もそのひとりですが、結局は自分の意識に対する客観的把握が低いからとは言えないでしょうか。把握レベルが低ければ現在抱えている問題の原因は解りませんし、その先のストレスコントロールが適わないのです。 把握には第三者的に自らを洞察する力が求められ、それには人間のたくさんの感覚機能を用います。多くの事象が頭の中で混乱状態になって、身の回りに起こる全てがストレス要因のように思えている時はますます感覚機能が鈍り、洞察が全くできない悪循環に陥いることも十分にあります。洞察力を強めるには、どんな小さな事象でもよいので、ストレス要因と感じるものを、書き出していくことから始めるのが良いでしょう。自分にとって負荷と感じるものを次々に文章にしていくのです。これは何日もかけて行います。そうすることで「洞察力」がだんだんについていきますし、自分の問題点を分析する条件が整います。ちなみに、このコラムは私自身の洞察の一環でもあります。 とりあえず書き出しは嫌なことの記述だけでも良いのですが、単なる事象のメモだけでは役に立ちません。その事象のどこが嫌だと感じるのか、例えばある言葉がずっと心にひっかかって残っているといったように記すのが良いでしょう。悲観的に考えず、真剣かつ真面目に、書き出してみればよいのです。 次に問題点(嫌なこと)の順番づけを行います。これが認知の第1段階に相当し、とても大事な作業です。問題点や嫌なことを書き出しただけで終わらないようにしなくてはいけません。それでは何の役にも立ちませんし、恨みつらみを生きる糧にしかねないからです。とりあえず書き出したストレス要因をメモの中で、強い方から並べていきます。番号を振るという方法もあります。順番がつけられない際には同程度のグループ分けを行っても構いません。しかしここでまた客観的に行動できなければまだ頭の中が整理できていない、言い換えれば「把握」ができていないことになります。 こうした方法の説明をしていると、途中でもういい、メモが面倒、順番がつけられないという人が出てきます。しかしこれを他人に聞くのではなく自分自身で行えなければ先には進めません。仮に誰かの助言に従ったとしても、その誰かが居なくなれば優先順位の前提が存在しなくなるのです。そして誰かには問題を抱えている人間の気持ちは解らないものです。そういう意味において誰か(医師も含む第三者)の存在は私は認めません。再三になりますが、認知の初段階において一番重要なことは、すべて自分でこなすことなのです。 順番をつけようとすると、混乱することもあるでしょう。膨大な問題に考え込むこともあるでしょう。もしそう感じたら、書き留めたものを一定時間おいて見直してください。ゆっくりひとつずつ確認していくと「私には1より2の問題が大きい」などと、少し落ち着いて考えられるようになります。 この手法は株式投資においても有効で、成功と失敗の問題点を洗い出し、そこにある問題点を抜出し優先順位をつける、そして新しい投資ロジックを組み立てるには何を最も優先的に改善しなくてはならないかが見えてきます。そうして始めて客観的立場に立った冷静なトレードを行うことに繋げられるのです。 <サイト管理人> 2013年 6月20日記述 |
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【カジノ特区設立に反対の私が考えること】第281回 |
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日本においてカジノは禁止行為に該当します。なぜそうなるのか、なぜそうあるべきかは以下にあげる理由が主と思います。 A.違法性 刑法第23章賭博に関する罪は、偶発的事情によって財物を得喪する行為を内容とする犯罪に該当します。本来カジノといった賭博行為は行為者が自己の財産を任意に処分するだけであって、別段、罪に該当しないようにも思えますが、これを広く容認する時は、国民の賭博精神を助長し、生活防衛資金を脅かす弊害を考えなくてはなりません。「健康で文化的な社会の基礎となす勤労の美風」(憲法27条第1項)に抵触するばかりか、副次的な諸犯罪を誘発する可能性があり、ひいては、国民経済の機能に重大な支障を来たすおそれがあるのです。 B.悪影響 1)倫理的な抵抗感 そもそも丁半博打でマネーを稼ぐこと自体が精神の堕落であって、資本主義の精神に反します。憲法27条にもあるように収入は労働の対価として得るのが本来の姿であります。人間の心はなかんずく弱いものですから、隣人が偶然ギャンブルで大きなマネーを手にするのを見ると勤労意欲が失われ、次第に社会全体にそれが及び、社会が腐敗していくと言う懸念があります。 2)犯罪・治安維持コストの増加 カジノは、必然的に犯罪を増加させるのではないかという懸念があります。たとえば、強盗、売春、窃盗、詐欺、横領などの犯罪も増加することも想定されます。1978年にアトランティックシティーでは、カジノ開設前と開設後での、FBIの統計で比較すると、粗暴犯で17%、財産犯を含め全体で6%増えています。又、犯罪を取り締まる警官も25%増えています。警官の増員は治安維持コストの増加につながり、本来的に犯罪が増えるという問題は避けて通れないのです。 3)中毒者、経済破綻者の増加 カジノが合法とされ、その中毒者が増加するという事実は確かでしょう。ギャンブル依存症は病の一種であり、家庭崩壊につながるケースが多々みられます。損失を取り返すために徐々に賭博資金を増加させ、最終的には破産をしたり、それに伴って失業する人口を増加させる懸念があります。 かの影響があると予想されます。 C.上記以外の懸念 1)公営競技やパチンコ産業への影響 カジノが合法のものとして実現した場合、既存の公営競技や宝くじ、パチンコ産業が打撃を被る可能性があります。以前にも記しましたが、パチンコ産業は30兆円産業です。太陽光発電産業はたかだか2〜3兆円産業ですから、その影響は比べることは出来ない規模です。 2)世界的な問題に対する明らかな認識や情報不足 カジノは上流階級の社交場として機能していましたが、現代では手軽に楽しむ事ができる娯楽施設として世界的に変化しています。90年代に入ってのラスベガスを考えれば明らかですが、今では街中が娯楽施設化されています。カジノが無い先進国は日本ぐらいですが、日本人の多くはそのことを認識していないからこそ安易にカジノに関する議論が起こり始めたのです。 株式投資とカジノは全く性質を異にするものです。前者は基本的に投資であり、資本主義の精神に則っています。昨今の投機的なマネーには異論もありますが、それも含めた投資ですから、大きな問題はありません。それに対してカジノは閉鎖的かつ治安の問題もあり、脱税の温床になりかねません。風俗産業を始めとし、表に出ない裏の社会を構成しかねない事象に発展しかねませんから、日本において普及させることには疑問があるのです。 <サイト管理人> 2013年 6月21日記述 |
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【日本における憲法改正の無用性とNHKの存在】第282回 |
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憲法改正が参議院議員選挙の焦点となっておりますが、9条よりも重要な問題は「基本的人権たる言論の自由よりも公の秩序を重んずる」方向に憲法を改正する案が示されていることではないでしょうか。安倍政権の経済政策同様、これに関してもどうにも理解が出来ません。このように憲法が改正されることは言論統制が行われた旧時代に戻ることを意味しているように思えます。私は自由民主党支持者ではありますが、どうにも腑に落ちない政策が多い政権が出来てしまったたものだと思っております。 そもそも論として、本当の意味で自由など存在していないのが現在の日本です。先日、あるテレビ番組において橋下市長がひとりのコメンテータに「小銭稼ぎのコメンテータ」という発言をしましたが、これは論議の趣旨ではなく相手の職業を傷つけるものであり、自由な論議が出来ないことを裏付けています。討論では相手の職業や外見を持ち出してはいけません。論点について意見を戦わせるのが本筋です。橋下市長を擁護する人も多いようですが、国民はこうした点からも自由をはきちがえ、自由の存在が無いことを自ら証明しているように感じられます。 日本に自由な選択が無いことの代表としてはクールビズが挙げられます。クールビズと言われなければ上着を脱げないのが日本人であり、それが一度定着するとネクタイをしている人を平気で中傷するのが日本人です。皆同じ格好をさせられるのです。6月1日から半袖になっても良いというのが通例で、5月1日から寒さに震えて上着を脱ぐ日本人が多くいますが、そもそも体調に合わせて衣類を選ぶのが基本です。暑がりの人もいれば寒がりの人もいるのです。元々が節電対策であれ何であれ、個人の身体や健康を中心に据えた見方をしなければならないと思うのです。私はコレステロールが低いのと基礎体温が高いことからエアコンがかかった部屋では上着を羽織らなくては居られません。以前IT系の開発職に就いていた際はPCや各種測定機器の関係から室内温度は低めに設定されておりましたので、夏場は冬物の作業着を半袖シャツの上に羽織って仕事をしていました。外に出るときは半袖で、エアコンの効いた部屋に入ると冬服というおかしな話なのですが、身体を基本に考えてそうしておりました。周囲からはどうのと言われることもありませんでしたが、やはり私からすると周りの目が気になるものでした。 クールビズに代表されるように、個人が集団に逆らえないような空気を作るのがNHKを中心としたマスコミであり、何ものも空気として定着させてしまうのがNHKといえるでしょう。大半の国民はマスコミや多数決に弱いのです。タバコの問題も同じです。 日本が民主主義としての「自由な国民の選択」ができない理由は、おとなしい国民性、空気を重んじる日本の閉鎖性、それに加えてこれらを利用する政府とNHKという組合せでしょう。そもそもクールビズという仕掛けを提案し60億円を稼いだとされる広告会社はNHKを始めとしたマスコミを利用したのです。バレンタインデーもホワイトデーもクリスマスもそうして生まれました。何事も右向け右の資質から、個人の尊厳が存在しない日本ですが、ならば憲法を改正してまで公の秩序を重んずる必要があるのでしょうか。ある意味で元々重んじているのですから。自然と出来ることを強制する必要などないと思うのです。 <サイト管理人> 2013年 6月22日記述 |
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【若者を積極的に活かしてこそ未来が創造される】第283回 |
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どんな国家でも未来は若者たちが背負うものです。大半の親は自分の子供達に自分よりも良い人生を送れるように学問の機会を与え、知識とチャンスを提供するように努めます。 国家レベルでもこの同じ目標を持つべきではないでしょうか。ただ、現在の日本ではそうなっておりません。 若者を取巻く状況は「自らの立場を揺るがさない為に生きる年配者」に手綱を握られ、今何が起きているか、そして、財政が悪化し続ける中で自分たちの将来が見えなくなっている若者達自身によって今以上に悪い状況を迎えようとしています。世間の常識が大きく歪んでいる為に全年齢層において感覚がおかしくなってしまっているのです。 日本は既得権側の人々が自らに課すべき厳しい政策を避け続けた為、行政的な改革がこれまでにほとんど行われませんでした。まだ手遅れではありませんので、若者の力と想像力を活かせる処置を早急にとるべきでしょう。若者も悲観的になっており、それらの多くは親たちが当然と考えていた安定した終身雇用と生活水準を得られないことを知っています。既存の従業員が手厚い保護を受け、会社は若い人材を活かす新しい職種を作ることに乗り気ではありません。積極的に若い人間を採用しようと試みている会社の大半は使い捨て的な離職率の高い会社ばかりです。結局これが臨時採用やパートタイムの仕事が増えている原因に思えるのです。企業のグローバル化も要因のひとつですが、国内には大きなマーケットが存在しているのですから、景気以前の問題として、企業は人材というものの捉え方を180度変えるべき時に来ていると思います。 確かに日本はこの10年以上不景気に悩まされてきました。私自身は不景気のときこそチャンスがあると思っていますので一般論的にならざるを得ませんが、日本の若者世代全体が生まれてからこれまで成長経済を経験しないで大人になっています。 中には才能豊かで野心のある人材もいるでしょうが、雇用に消極的な企業と、既得権益確保の為の過度の規制が若者の就業の場を奪っているように観えます。少子高齢化を前提に考えれば、税率を上げるのは必要不可欠です。その為には基礎的な所得を若者にもたらさねばなりません。結局、多くの若者は、政府の消極策によって不安定な状態にあります。ましてや、まだ生まれていない世代にツケを回すことも厭わない考えを示しています。若者への負担は賦課方式の年金制度では当然の部分もありますが、上の世代が残した負の遺産まで背負うのは見ていて切ない部分もあります。 これまでの日本では終身雇用制度が成り立ちました。学校教育を終えれば終身雇用というエレベータに乗り、退職まで自動的に給料と地位は上がる傾向にありました。そして退職後は一定水準以上の生活が出来るだけの社会保障を受けられたのです。現在の70歳以上の人間はそれに該当するのかもしれません。もうエレベータは作動しないという現実を踏まえ、思い切った行政改革を断行する政府が樹立されることを願ってやみません。 <サイト管理人> 2013年 6月23日記述 |
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【高価なものほど価値があることについて】第284回 |
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高いもの程価値があると感じるのは当たり前の感情であり、ブランド品には付加価値がつきます。何故ブランドであるのかを考えれば当たり前で、そこには企業に対する信頼の歴史があるからです。私は腕時計が好きで多くのブランド時計を所有しておりますが、以前よりも価値の下がったものと上がったものとがあります。どういうことかというと、単に中古品として価値が低下したのではなく、ブランドイメージが下がった会社の時計は価格が下がり、ブランド力を維持し続けている会社の時計にはプレミアムがついてきているということです。ロンジンやオメガ、ラドーなどといったブランド品は価値が随分と下がったように感じています。 「高いもの程価値があるというのは間違い」という人もいます。それは断片的には正しいでしょう。こうした人達の言い分は、価格が高いというのはあくまでも価格が高いというだけのことであり、「価格が高い=価値が高い」は勘違いであるというのです。確かにモノの値段には、企業の利益が多く上乗せされています。企業の信頼性やビジョンによって上乗せされる金額は大きく違うことは認めます。こうした人達の考え方はモノを単なる原価対モノとしてしか判断できないのでしょう。量販店で買い物をするよりも通販の方が安いからといって多用する人もいますが、対面販売でモノの価値を話しながら買い物をする方が余程有意義であり、自分自身のモノを見る目も養うことが出来るでしょう。これにはセンスも関係しますが、大半の人は修練すれば身につく能力です。通販は流通システムが単純な分経費が掛からないので店頭で売るよりも充分な利益を取れ、逆に言えば安くモノを提供できるのでしょうが、人件費がかかる商品にはそれだけの価値があるのです。人件費をかけられるだけのモノなのです。 それでもまだ価格というのは絶対的なものではない、価格は環境などによって変動しやすい、価格で価値を測ることはおかしいという人がおられるでしょう。事実50万円の時計よりも質屋で売っている5万円の時計の方が価値のあるケースは多々見られます。ブルガリやコルムの時計などは良い例でしょう。大切なのは「本人にとっての価値」ではなく、絶対的な価値を見る目です。これが出来ないから高いものには価値があるというのは勘違いであると錯覚して済ませてしまうのです。良いものにはちゃんとした値段がついて当然なのです。問題はそこに紛い物が関係してくることです。コピー品や宗教絡みの商品といったらよいでしょうか。 「消費の価値=本人の満足」は完全に間違いです。ガラス玉を100万円で買って幸せになることを許容するからです。良いものは絶対的に良く、そして高価になるのです。本人にとって「これを手にするのは価値がある」というのは歪んだ価値観であり、大切な問題ポイントは買った値段に対して幾らで売ることが出来るのかでしょう。何十万かのブランド時計よりも1万円の時計のほうがずっと価値がある、なぜなら「彼女からのプレゼントだから」という人はモノとしての価値を見出すことの出来ない人です。株式投資には全く向きません。買った値段に対してプレミアムを付けて売ることが出来て初めて利ざやを得られるわけですから。モノの価値を決めるのは個人のセンチメンタリズムではありません。自分以外の人間が価値を認めなければ意味が無く、絶対的な価値とはそうして生まれるものです。自己満足で良いモノだと思いたい人はモノを見る目を端から養う気の無い人として私は観ます。もしそうした感覚で投資を行っているようでしたら残念でなりません。 将来の需要を見極め正しく高価なものを買うことは動産を所有することに繋がりますから、モノに介在する企業の利益率など関係が無いのです。市場の流通価格が正しいのです。世間で価値があるとして判断され流通しているものは必ず高く売ることが出来ます。ロレックスなどはその部類に入るでしょう。ここで話しているのは軟弱なセンチメントではありません。誰かから貰ったから大切というのは別の話なのです。それは万人に共通なものではないからです。 再三ですが、需要がある商品は消費者にとって魅力的な商品です。だから高いのです。私はモノを買う際には必要だから買うのではなく、割安だから買うようにしています。ですから何十本も腕時計を所有しているのです。そして欲しい人があればいつでも売るつもりで所有しております。たまに使用することもありますが、メンテナンス程度の感覚で使っていますから、滅多に腕にしないものもたくさんあります。それは無駄な支出ではなく、動産に対する投資であり、ひいては株式投資の現物買いの感覚に通ずるものではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 6月24日記述 |
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【身体の大きさと平均寿命について考える】第285回 |
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動物に興味のある人の多くは気づいていたことですが「体が大きい方が寿命が長い」傾向があります。私は最近になって気付いた次第です。なお、この問題を科学的に整理した学者の一人にザッハーという人がおります。
上記のグラフは1959年のものですが、横軸に動物の体重、縦軸に寿命を対数でとり、いろいろな動物の種類の体重と寿命をプロットしてみると、少しばらついているもののおおよそ直線に乗ることが解ります。つまり体重が1グラム程度の小さな動物は数年しか生られませんが、人間のように60キログラムぐらいあると20年程度は生きられるのです。これは自然界でのお話ですから、医療が進んだ現代社会では人間の寿命が80年にまで引き上げられるのと、知能が他の動物と比べて高いことも寿命の伸びに繋がってきます。 なお、グラフで10の6乗は1000000と0が6つだから100万グラム、つまりグラムをキログラムに直すのに1000で割るので1000キログラム、つまり1トンという重さになりますが、大型のゾウは数トンありますからだいたい、ゾウやクジラなどの動物を考えたらよいでしょう。そのような大型動物は40年も生きるのです。 私はこのようなグラフやデータを見ると、物理的なことや人生的なことに思いをはせてしまいます。物理的には「なぜ体重に比例するのだろうか?」ということです。寿命のような「時間」は「大きさ=寸法」に比例するなら納得できそうですが、重さに比例するとなると少し違和感があるのです。しかし、そんな直感は私の間違いかも知れません。重たいものは動きが鈍いからそれだけ寿命が長いのかな?などと素人考えで思ったりもします。人生的には体が重くても軽くても平等な一つの命なのに、重たい動物が長い寿命というのは不公平だなとも感じます。生きている時にも体が小さいとビクビクしていたりして何かと不利なのに寿命まで短いとは・・・とつい同情すらしてしまうのです。 私は少しノイローゼなのかもしれません。「駿河湾で獲れる生しらす」とか「桜海老」などの食べ物を前にするとどうもやるせなくなります。小さいながらも奪われた多くの命が私の前に並んでいるからです。シジミのみそ汁もそうです。大アサリ(バカ貝)なら一つの命でよいのですが、シジミとなると大勢になってくるのです。食料に命の問題を絡めるととても精神的負担が大きいのが現実です。 話は変わりますが、このグラフだけを見ていると何となくおかしいことに気付がされます。グラフの線は肉食動物の上に引かれていますが、その下には齧歯類とか有袋類がいて、線の上には霊長類やヒトがプロットされているのです。何となく「体重の他に、何かあるのでは」と感じさせるグラフなのです。ともかくザッハーは丹念に動物の体重と寿命を調べ、グラフにプロットし、線を引き、その線が次の方程式で整理できることを世に知らせたのですから、彼の功績はたたえなくてはなりません。 ザッハーのように株式投資の手法を整理できればよいのですが、株価は不確定要素から決定されます。売り手と買い手が存在することから株価がつくのですが、その経緯はトレンドに大きく左右されます。しかし、システムトレードが普及したとはいえ、それを作ったのは所詮人間であり、個人投資家も多くトレードを行っております。いずれにしても人間の本質が株価の裏には介在していることから、その真相心理を解明することは株式投資において大切なエッセンスとなるでしょう。多岐にわたる学習が必要でしょうが、今後も時間の許す限りこの問題について考えて行きたいと思っています。 (参考 L=3*W(0,2乗) Lは寿命(年),Wは体重) <サイト管理人> 2013年 6月25日記述 |
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【一体日本人はどこに向かおうとしているのか】第286回 |
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「教育勅語」は日本を悲惨な太平洋戦争に導いた原因を作ったとされて、悪名高いものです。最近は何事にも忙しく、教育勅語の悪名だけを聞きますが、本当に教育勅語に何が書いてあるのかを知らない人が多いことは事実です。そこで、改めて私は読んでみました。漢文調で頭が痛くなるので、漢文が嫌いな人は現代訳を付けてあるものを読みました。 「爾臣民,父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ,徳器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ.是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン.」 (現代訳) 「父母に孝行し、兄弟と仲良くし、夫婦仲は良く、友達を信じて胸襟を開き、社会の人や見知らぬ相手でも親切にし、学問や修業をして自分の能力を発揮し、人格を形成して、社会の役に立ち、皆に評価され、憲法や法律を守り、一旦、国が危なくなったら率先して義勇軍に参加して日本国と天皇を守ろう。日本人はこれまでもずっとそうしてきたのだから、祖先の努力を無駄にしないようにしよう。」 以上には4つの内容を含んでいます。 1. 親、兄弟、夫婦、友人、社会を尊敬し、仲良くしよう 2. 学問、能力、人格を磨こう 3. 法律を守り、国を守ろう 4. 祖先の努力を受け継ごう 教育勅語には実に肝心なことが書いてあり、もしこれが実践できていれば、現代の成人式も正常に営まれるでしょう。しかし、現在では「日本を戦争の渦に巻き込み悲惨な目に遭わせた悪の権化、それが教育勅語」と言われています。一方で現在の教育基本法には教育の目的が書かれています。 「第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」 さすが名文でしかも理想的な教育像のように見えます。ただ、家族とか親兄弟友人という言葉は出てきません。親、兄弟、夫婦、友人との関係、国家や祖先に対する役割は除かれているのです。悲惨な太平洋戦争の後に作られ、悪用された箇所を除いてあるといってもよいでしょう。 教育勅語が明治23年10月30日に発布、それに代わり教育基本法が昭和22(1947)年3月31日に施行されました。「技術立国」だから国家のために役立つ技術者を育てよう。教養教育などとつまらないことを言っていたら、国際的にも負けてしまう。初等中等教育では、ゆとりの教育だとか、人格形成などと寝ぼけたことを言っているので学力が低下したと私も少々考える節はあります 国家主義の原点のように言われている教育勅語はまず親、兄弟、夫婦、そして友人、社会、学問、人格、遵法精神ときて、最後に「一旦、国が危うくなったら」、その時は己を捨てろと言っているのです。この全文を見る限り国家主義に他なりません。教育基本法の言う「平和的な国家及び社会の形成者として」というのとは全く異なります。さらに、教育勅語の「天皇を守る」ということにひっかかる人がいると思いますが、戦前は天皇を統治者として日本を運営していたので、最終的に国家とは天皇陛下を指していると勘違いしている人が多くいます。 国家体制は教育、つまり教育勅語の問題ではなく国の体制を一旦決めれば、最終的に国民の合意による国家を保持する目的と合致させる必要があります。ですから「天皇のために巳を捨てろ」という表現は、教育の概念とは一線を画して解釈する必要があるでしょう。戦後の民主教育は「教育は国家の為ではなく、個人のために行わなければならない」「個人の集合体が国家であって、国家が先に来るのではない」ということを是としてきました。 近代日本が経験してきた多くの悲惨な出来事は、日本がひたすら拝金主義、効率主義に陥って来たこと、生活の基本の哲学や規範が失われてきたことがあります。 わたし達は「レッテル社会」にいます。ビンラディンは悪だ、アメリカは正しい・・・レッテルは深く考えることを拒否し、わたし達は、またどこかに連れていかれようとしているように感じられます。私達はもう一度教育勅語を読み、中身を理解し、何を間違って破滅的な戦争に行ってしまったのか、そしてわたし達は今、どこに行こうとしているのかを、他人の言葉ではなく、自分の頭で考えることが必要でしょう。 自分の頭で考えて整理し行動する。これは株式投資と全く同じことです。 <サイト管理人> 2013年 6月26日記述 |
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【株式投資を始めるには(初歩を振り返る)】第287回 |
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これまで投資を行ったことの無い人は、ニュースや人の噂などで「株でいくら儲かった」、「投資のリターンで車を買った」などという話を聞いたことがあるのではないでしょうか。100万円を1億円にしたという人もおられるようで、当時のノウハウが本として出版されたりしています。しかし、過去の手法や結果です。一義的に問題となるのは投資で利益をあげられる可能性ではないでしょうか。ニュースとして取り上げられるのは利益をあげた一部の人間の挑発的かつ高揚心を煽る内容が大半ですから、自分も投資を行ってみたいと感じる人が後を立たないのだと思います。ただ、多くの方は実際に投資するまでには至っていないのではないでしょうか。私には幸運なことに思えます。身の回りを見てみると投資に生活時間を割き、投資の結果から精神的なダメージを受けている人をよく見かけるからです。仕事中に株価が気になる人など山ほどいるのです。なぜなら投資では8割〜9割の人が損失を被っているからです。 話を戻しますが、株を始めたくても始められない理由は「損したら・・・」という気持ちと「株を始めるには相当な資金が必要ではないのか」といった感情だと思います。とりあえずここからは株式投資に必要な金額について考えてみたいと思います。 通常株式を購入するケースでは、投資金額は「株価×単元株数」で決定されます。株価は当然として単元株数は企業によって異なりますので確認する必要があります。1株から購入出来る銘柄や10株から、100株から、500株から、1000株からなどがあります。確かに株式投資を行うためには大きな資金が必要と思い込みがちですが、実際には少額で買える銘柄も多く存在します。10万円以下で買える銘柄も多く存在しています。結局株式投資を始めるには 10万円もあれば十分なのです。さらに証券会社によってはミニ株という制度もあります。ミニ株ならばそれ以下の資金で投資を始めることが出来るので、これから投資を始めようという方でも比較的、気軽に始められるのかもしれません。 問題は株式投資が銀行預金とは異なり、株価の変動リスクが存在していることです。企業の業績悪化や換金売りなどにより株価が下落することはよくありますし、投資した会社が倒産(民事再生による100%減資)するリスクもあります。不正経理などから上場廃止となり株式が自由にならなくなる可能性もあります。少し前の日本航空や武富士、エルピーダメモリを考えれば解かることです。 投資をあまり難しく考えず、小遣い程度で始めて、慣れてくる毎に少しずつ資金を増やしていくことを勧める人がいますが、私は徹底的に反対しています。大切なことは自分の生活を維持し、将来の設計をすることです。そしてそこに付随する投資ですから、小額であっても生活防衛資金を貯めるためのものであれば投資に回すことは好ましくありません。私の考える生活防衛資金とは人生を180度変えられるだけの資金です。仕事を辞め日常生活を送りながら大学に通い新しい分野の学習をし直すであるとか、住宅ローンを返しながら無職でも資格取得の為の学習が出来るだけの資金を指しています。ですから生活防衛資金は1000万円は必要になるでしょう。まずは1000万円という現金を手元に預金し、その上で投資を試みてはいかがでしょう。現金が300万円程度しかないにも拘らず投資に200万円回してしまったら養育費や自家用車の購入にも難がありますし、冠婚葬祭のお金や生命保険代金の支払いといった生活に欠かせない資金が不足してしまう可能性があります。このように言うと、いやいや、株を売れば200万円出来るのだから問題ありませんと思った人はいませんか。そういう人は株式投資に向いているとは思いません。大切なことは何時でも株式を現金化できる状況を作ることですが、その時含み損が出ていた場合、これをお読みの方で損切りが出来る人はどれだけいるでしょうか。おそらく2割いるかどうかでしょう。損切りとは投資の失敗を認めることであり、実際に資金の一部を失うことを意味します。 私自身投資を始めた当初は負けから入りました。そして株式投資を始めた1ヵ月後に損切りを行いました。株価の上昇が暫く見込めないと思ったからです。今になって思えばなぜ私は負けを認められたのか、なぜ損失を出すことを受け入れられたのか不思議に思う部分もありますが、それは株価が時価であることを私生活でのモノの売買で会得していたからでしょう。結果として現在も現役の個人投資家として毎年10%程度の利益を確保することが適っております。株式投資を始める前に多くのことを考えてみませんか。既に投資をしている人ももう一度基本に立ち返ってみませんか。 <サイト管理人> 2013年 6月27日記述 |
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【そのままの言葉で語る素直な人生について】第288回 |
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インターネットで多くのサイトなどを見ていると単純かつ批判的な内容や、挑戦的なものが多いように思えます。相手の顔が見えないことでそのままストレートに感情をぶつけることが出来るからかもしれません。論議ではなく単に相手の立場を誹謗中傷するようなものも多く見られますが、このようなことはあってはならないと思います。以前にも書きましたが出生や職業差別は論外です。ネット社会は無法地帯で、何か不満があってそのはけ口に使っている人もあるでしょうし、あるいはスピリチュアルのように人を脅してそれを商売にするというケースもあると思います。外見的な部分の自尊心逆なでする美容関連の商売や、宗教的なものも多くあります。とにかく便利の反面、問題の多い社会になったといえます。 私は親から昭和前半の気質が養われていて喧嘩好きな方ですが、ある時から「心の底から喧嘩をしない」ようになりました。そのもっとも大きな理由は「自分は自分の意見が正しいと思っているけれど、相手は正しいと思っていることを正しいとしている。相互に違うだけ」ということがわかったからです。ただ、相手に論理が無い場合には認めていませんから、徹底的に糾弾する資質は強く残っています。そういう意味において中途半端な価値観という逃げ道は許していません。 人間は「自分が正しい」と思っていることを「正しい」と錯覚しています。私もそうです。本当はそれは「誰から見ても正しい」のではなく「自分から見ると正しい」と言うことに過ぎません。その時の「正しい」という根拠は「自分の生い立ち、自分の経験、自分の頭脳構造、自分の利害、自分の将来、自分の家族のため、自分の国日本のため」など、どちらかというと自分中心なものです。 私の人生の一つの目標は「ありのままの自分」や「ありのままの人生」で過ごすことです。考えてみると「こうなりたい」と思うことは大切ですが、それでも自分は自分で「日本人である」ということなど変えようもありません。少し努力をするにしてもできる範囲は大したことはなく、皆様の個人向けとしたらせいぜい資産提案設計に協力するくらいです。 「ありのままの自分で、この世を生きていけないものだろうか。ウソをつかず、誠意をもって人に接し、額に汗しただけの所得で満足し、時に病気をしたら仕方ないと思う」そんなことが34歳からの自分の目標になっています。それまでは「少しでも得をしよう」と思って、言い訳をしたり、人を出し抜いたりしなかったわけではありません。でも冷静に考えてみるとどうもその方が損をしていることに気がついたのです。 「人の意見は自分と違っていても「間違っている」とは思わない」、「ありのままの自分で良い。それで損をしてもそれは元々の自分の力の範囲だ」と思えるようになってからの自分は、心の底から腹の立つこともなく、大人数の前で緊張することもなく、社会的立場の高い人間の前で臆することもなくなりました。結果として楽しい人生を送ることができるようになったように思います。 何年か前に「普通の人なら「これを言ったらどうだろうか・・・」と考えるのに、あなたはいつもありのままを言って、それで普通にやっているのだから驚きます」と人から言われてこのコラムを書く気になりました。確かに私も最初のうちは「ありのままの自分」というものに不安を感じていましたが、今では「正直で誠意があれば周りは私の考えを租借してくれる」と思っています。もちろん正しいと認めて欲しいわけではありませんが、ひとつの考えとして認めていただけることを期待している部分はあります。 人にはそれぞれに抱えた環境があります。自由になることもならないこともあります。健康の問題もあります。しかしそれを言い訳にせず、今出来ることを行う。無駄な時間を少なくする。効率的な生活を心がける。そしてその為の学習です。一生学ぶことから逃げていてはその人生は効率が悪いものになるでしょう。徹底的に学ぶ期間を設け、その基礎的知識を生かしながら応用した生活を送る、これは株式投資の原点にも繋がる問題ではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 6月28日記述 |
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【科学の信頼性と不確実性、そしてその矛盾】第289回 |
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自然は「常温常圧」から逃れることはできず、深海やマグマと地核の接点のような高温高圧の場所では原料の供給や製品の搬出が簡単には行えず、その上低熱源に熱を逃がすことができないので仕事の量は大きく制限されます。それに対して、人間はより強い材料を求めて地上に存在し得ないような条件を生み出すことに努めて来ました。鋼、ステンレス、タングステンそしてスーパーエンジニアリングプラスチックなど良い例でしょう。それに対して自然の強み、特に生物の特徴は、 @強い物が残る(成績評価) A億年単位の創造的手法、の2つです。 考えてみると、人間の活動は論理的・組織的に見えてもそれはほんの一部であり、肝心なことは創造的手法で進んでいるといえます。1899年から2000年になる頃から人類が創造的手法をやめ、もっぱら人間の創造力と裏付けのある論理で科学を進歩させてきたとしたら「相対性原理、超伝導、量子力学、DNAと生命科学、航空機、電化製品、原子力、トランジスタ、集積回路、コンピュータ、レーザ・・・」などの内、いくつが現実になっていたか疑問です。量子世界には矛盾が存在しているからです。ハイゼンベルグの不確定性原理がその例であり、不確実の上にレーザーなどの応用製品が作られているのです。 生物がその生命を守るために採用している基本的な考え方は、 @材料は劣化することを自覚する A連続的に補修する B諦める、の3つでしょう。 このような中、人間は永遠に「劣化しない材料」を夢見ていますから矛盾していますし厄介です。 人は「永遠の命」を目指して子供を作った後も生き延びようとする傾向がありますが、皮膚は垢となって落ち、髪の毛は床屋が切断され、サケは産卵と共に自らその命を断ちます。本コラムは生物の情報と人間のような複雑な機能を発揮するものがどのような関係になっているかを能動防御材料をテコにして考えてみたものでありますが、上記の内容は矛盾に満ちています。矛盾に満ちたことを文章にしたのは、どうしても現代の工学に何か大きな落とし穴があるように感じられるからです。それを探求する材料があるとしても、能動防御という概念はすこし役に立つように思うのです。能動防御とは「避ける」、「停止する」、「受ける」などのリアクションですが、これを無視して一直線に永遠を求めては生物の命という概念を大きく逸脱し、既存の倫理観やモラルは維持されないことでしょう。 私は現在の科学を評価する部分もありますが、否定的に捉える部分を強く持っております。科学の進歩は人間に多くのゆとりをもたらしますが、そこで失う時間を作るための効率的な作業(アナログ的学習)がますます阻害されるからです。そしてその阻害は人が考えることを止め、科学に則った情報を利用するだけの単純な作業に傾倒することでしょう。科学の進歩は命という概念との間に大きな隔たりがあり、その溝はますます深まっていくでしょう。どこかで避けることや停止するという選択をしなければ、人間が人間ではなくなってしまうと思うのです。銀河鉄道999などのアニメはその問題に対して警鐘を鳴らしていたものと考えますが、このことを40年も前に意識していた作者は相当の評価に値するのではないでしょうか。 不確定性原理の謎が残ったまま進む科学と、人間の思考を停止させる方向に向かう科学は好ましいとは思えません。不便さゆえに便利さを求めるのは良いのですが、今その方向をもう一度考え直す時期に来ているように思うのです。基本を学び応用するという作業が大切で、いきなり応用製品(スマートフォン)を使うことは、そこに介在するリスクをともに背負うことになるのです。単なる携帯電話レベルならば理解も出来ますが、外出先でも安易に情報を手に入れられる小型端末を手にした人間はそれに依存し、事前の準備を怠るように想像されます。外出先で情報を手に入れ、その時点で何をするかを決めるであるとか、ナビゲーション機能を使って目的地を簡単に探すのは便利と思います。しかし、事前に出張や旅行の準備を行い、計画的に行動するという基本的な作業を人から奪ってしまったように思えてなりません。気が向いたから何かをするという行動パターンが人間にすり込まれていくように感じられます。気が向いたからではなく、その日の気分ではなく、事前に十分な準備をすることがロジカルに生活を行うことに繋がり、生活設計に繋がると思います。もう少し真剣に人生を考える為にも、便利さを少し諦め、不便さの中から考えるという基本的な能力を大切にして欲しいものです。 <サイト管理人> 2013年 6月29日記述 |
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【情報の伝達と効率性・正確性について考える】第290回 |
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人間は一人では寂しいものです。とはいっても集団ではややこしさがつきまといます。一人では生きていくことは出来ませんが、人が多くなると協調しなければなりません。仏陀はこの問題を哲学的に解決しましたが、今回はそうしたお話ではありません。集団における情報伝達と効率性についてです。 集団の情報伝達は人間界も自然の世界でも同じで、まず中心となるところが存在します。それが情報やモノの発信源であっても、血液の流れる元であっても、ものごとには「中心(天元)」があります。そしてそこから出来るだけ効率的に集団を構成する「末端」に伝達したいものです。 心臓からの血流ならば心臓が元となり、末梢血管が「末端」に当たります。会社なら経営者(頭脳)が「元」で社員が「末端」でしょうし、日本では首相が「元」で庶民が「末端」になります。ここで言いたいのはなにも「元」が偉く、「末端」が下等だということではありません。民主主義では庶民が主人で、首相が部下だから元とか末端というのは上下関係ではなく、単なる役割分担のことです。 仮に社員が91人の会社を考えてみます。「元」が経営者(頭脳)で、何かの情報を伝えようとした時に、どんな方法が一番よいでしょうか? 真ん中の黒い二重丸が頭脳で、それを中心にしてポツポツした点が社員と思ってください。まず、ワンマン頭脳型で「何でも直接自分で社員に伝える」という場合、次のような情報伝達ルートになります。 これを「ウニ型」と呼ぶことにします。つまり社員一人一人に頭脳がウニに伝える場合です。直接語りかけるので、頭脳と社員の「平均距離」を計算すると3.4になりとても短く、直接伝達をするので意思が正確に伝わりやすい特徴を持っています。 つまり頭脳と、その横にいる重役の距離を1.0とすると、遠くにいる社員にも直接話しかけているので、平均的には隣にいる重役を基準にすると、その3.4倍しか距離がないことになります。大声を出さなくても済みます。 「ウニに伝えると真意がそのまま伝わる」と頭脳が喜ぶのは、この3.4のことを言っているのです。しかし、節約を求める頭脳や、面倒を嫌う頭脳はいちいち社員全員に話しかけるのは面倒でしょう。頭脳は90回も話さなければなりませんし、線の距離を合計すると233にもなるからです。 回数も多く、長さも長いから疲れ果ててしまいます。そこで「私が副経営者(頭脳)に言うから、副経営者(頭脳)から順番に伝えてください。それが一番楽だし効率的ではないのか?」とつい楽をしようとします。そこで大きな会社ほど頭脳が副頭脳に、副頭脳が専務に、専務が常務にという風に伝えていって、最後に今年入社した社員に情報が行くように社内規則が変更されました。 この場合は経営者がどこにいても同じですから、端を頭脳として線を引くと上の図のようになります。頭脳の口から次の人の口へということだから「口コミ方式」となります。このようにすると、確かに経営者は1回しか発言しなくて済みますし、全体の距離は実に90に減るのです。 そしてこの形をさらに整理すると下の図のように渦巻きになります。 隣同士で連絡してジグザグに進んでも、渦巻き状に進んでも同じなのです。全体の距離は90です。 ウニ方式の233が90に減ったのですから、伝達コストは4割と大幅に軽減できます。 しかし、その代わり情報が伝わるのに時間がかかる問題が生じます。どのぐらい時間がかかるかというと、時間の尺度になる「平均長さ」が46になるので、46を3.4で割ると、14倍もかかるといった具合に算出されます。つまり、頭脳がウニに言うのは面倒だというので、副頭脳だけに伝えると14倍も時間が長くかかります。努力と成果は常に比例しているものだと考えさせられる問題です。 最初に書いたように、このことは企業の中だけではなく、およそ「複数のものが関係する」時には常に生じる問題です。情報の伝達だけではなく心臓から末梢血管に血液を送る時も同じですし、自分の心の中での問題に置き換えても良いでしょう。 1回の伝達で後は伝言ゲーム的に進めることは簡単ですが、途中で情報が変わってしまうかもしれません。また前述の通り時間がかかってしまいます。物事を考える時に一から順番に十までいくよりも、一という信念(頭脳)を中心としたウニ型を活用することは有意義かもしれません。確固たる信念が確実に全体に行き渡るからです。そして伝わった情報同士が互いに連結し合い、物事が末端から並列的に捉えられるようになると思うのです。投資においても自分の中で確固たるルールを決めれば、それ以外の問題は必ず繋がってきます。ウニ式でも口コミ方式でも良いとは思いますが、常に投資を行いたい人はウニ型、ゆっくりとリバウンドを狙うようなタイプは口コミ方式のように伝達時間がある程度かかる方が良いのかもしれません。注意しなくてはならないことは伝達時間と経路から産まれる情報(買入れの閾値)の歪曲です。 <サイト管理人> 2013年 6月30日記述 |
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【新しい国民の二階級制度について考える】第291回 |
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先の大きな戦争に敗れた後、日本は戦後復興、高度成長と「日本全体を大きくすること」によって大半の国民が豊かになるという基本的な政策をとってきました。そこで生まれたものが、自民党政権でありアメリカ依存(軍事・技術・輸出)、年功序列制、日本株式会社と言われた一体規制などでした。ところが1990年ごろに資産バブルが崩壊すると、政府は「日本全体を大きくすること」の手段を失い、「日本の富をどのように分配するのか」という方向に舵を切ったのです。そこで出てきたのが「赤字国債、環境政策、海外進出、非正規雇用」などでした。とにかく経済全体のパイが大きくならないのですから、「どのようにしたら自分だけに富が来るようにできるか」ということに知恵を巡らすようになったのです。 内需が成熟し、経済の成長そのものが鈍化したのですから、企業の収益は上がらず、税収が減少したので、それを補うために国債を発行します。もともと国債は戦争などの特別な時にしか発行せず、国の仕事は国会の承認を得た税金の範囲で行われていたのですが、それが基本的に変化しました。国債を発行しそれを「利子付き」で国民に買わせることにしたのです。そうすると手元のお金が増えるので、それで天下り先を作るという手段と採ることができ、国債の原資を元にした補助金を特定の団体に配り、そこに天下りするという方式を創り上げたと言ったら良いでしょうか。官僚は優秀と思いますが、そもそも能力の矛先を間違えていると思います。 国債自体の償還も同じですが、本来国債に利子など付くはずは無いのです。国の仕事の90%以上は赤字とのことですから、税金と同じように「使い捨て」の事業に投資をしているのです。そこからお金が戻るような付加価値を持っているわけではありませんし、もしそのような仕事を国が大がかりに行うというのは民業圧迫に繋がる状況です。 国債の利子は税金もしくは借換債ですが、借換債というのは一時的なものですので、結局は税金で支払われます。つまり、国債というのは金融機関や余裕のある人間が買い、政府が利子を含めて償還し、国債と利子の合計を大多数を占める庶民から搾取するという仕組みなのです。 また、この十年来非正規社員が誕生すると共に、大企業の社長の年俸が3000万円から1億円程度になり、総中流社会と言われた日本は格差社会へと進んでいます。「競争によって発展する」というのは個人主義の発達したアメリカなどでは有効ですが、「皆で努力する」という駅伝型の日本では総中流の方が能率が良かったのです。さらにグローバリゼーションという言葉に踊らされ、日本企業が海外に工場を造るようになって、戦後一貫して高かった就職率が低下しました。就職率低下の原因はこれだけではありませんが、「百姓は命をかけて田畑を守る」と言われたように、日本のような四面を海に囲まれた社会では「子孫の雇用の確保」を日本列島内で達成する必要があるのです。それも破壊されてしまいました。私は共産主義者ではありませんが、ある意味で評価できる日本教の日本を壊してアメリカ的な資本主義を受け入れるには準備が不足しているように思えてなりません。時期尚早だったのです。政府は日本的な社会主義と資本主義が混在したユニークな形態を温存しなければならなかったように考えています。結局、国債の発行から秩序を失い、非正規雇用や海外進出などで二階級社会になってしまいました。 私自身が問題と思うのは、これ自体が日本国民の選択で起こったことであり、マスコミがまず「空気」を作りそれを低俗なテレビが蔓延させ、「空気」以外の意見を徹底的に排除し、「心を合わせることが大切だから空気に従え」という論理であらぬ方向に行ってしまったことです。 このように1990年くらいを境に日本に「旧来の財閥的な階級制ではなく真の階級制」ができ、富の分配が「日本的な総中流」から「アメリカ式による資本崇拝主義」に変わったことがやがて「選挙で何を言っても当選してしまえば良い」という状況を作り上げたのです。日本が「単なるクレバーな指導者や資産家たちと無知な国民」という二階級制度で進むか、それともこれまでのように「自らの富を追わない指導部と誠実な国民」で行くのか、それは次の参議院議員選挙で国民が選択するものでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月1日記述 |
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【民主党の問題点と考える国民の必要性について】第292回 |
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民主党が先の衆議院議員選挙および先日の東京都都議会議員選挙で壊滅状態になった理由は簡単です。自由民主党と民主党は名前は違っても基本的に同じ政策ですから、言ってみれば同じ政党だということです。同じ政党なのに違うような体裁をとるのでどうしても無理があり、だから必然的に滅びることとなりました。つまり自由民主党と違う政治的信念があって党を作ったのではなく、烏合の衆が「権力を目指して集合した」からだと思えるのです。このことは民主党が誕生した最初の時には明確化されていませんでしたが、政権政党になった後では誰にでも解るようになりました。 基本政策が自民党と民主党の政策がどのように違うのか、区別できる人はいないでしょう。もっとも大きな政策で「自公民」が一致するなどということは起こるはずもありません。ですから党の政治理念を持たない奇妙な党になっていったのです。それに加えて政治家の言葉は全部間違いということを実現しました。 無策の記録は以下の通りです(やろうとしていた事は今でも評価していますが、結果が伴いませんでした)。 ・増税無き財政再建→増税(消費税) ・子供手当で余裕ある子育て→子供手当を止め扶養控除廃止 ・普天間は国外、最低でも県外→沖縄県のまま ・高速道路無料化→ほぼ有料のまま ・2020年までに二酸化炭素25%減→10%増 ・衆議院議員80人削減→増減ゼロ ・コンクリートから人へ→何も行わずに無駄な予算を組んだだけ なお、現在の日本の政治の主要課題は、 1)改憲問題(公の秩序、96条問題、9条問題) 2)民間の活力を高めて日本を発展に導く 3)増税から金融主導の資産バブル経済を抑える 4)エネルギー政策(民間主体か政府主導か) 5)TPP問題 6)少子化対策 7)社会保障制度の充実 8)教育問題等の副次的な課題 自由民主党は元々「規制を緩めて民活路線」を推進する党であり、民主党は「規制中心の縮小社会」のように思われました。しかし自民党が増税政策を採り、民主党が増税反対政策を採ったことから政策が逆になって、最初からねじれていました。民活無し、増税無しで具体的にどのような政策があり得るのか、ほとんど議論されないままムードだけをマスコミが盛り上げ、そして民主党に政権が交代した過去があります。 二大政党の存在は大切と言われますし私も賛同します。しかしそれはポリシーが異なってこそ意味があるものです。ミコシが変わるだけでは意味はありません。その点で先述のように「三党合意」を考えたというのは、前の政権と今の政権が最重要政策で合意することになりますから、政権交代は全くの意味を持たなかったということに繋がります。 前回のコラムの通り、次の参議院議員選挙は難しいものとなります。私はいつも通り棄権しますが、投票される方は候補者の公約が「減税」なら「増税」と読み替えなければなりませんし、「核の平和利用」なら「核武装」と思って投票しなければならないのです。今、参議院議員選挙を控えて政治番組が多くなっていると思いますが、「口に出して言っていることと逆」だから聞いていて疲れます。何しろ肯定を否定に、否定を肯定に翻訳しながら聞かなければならないからです。 また、みんなの党や日本維新の会はある部分で良いのかもしれませんが、安倍、麻生、民主党等、安倍・・・いつも「選挙の顔」というのが出てきて、マスメディアがはやし立て、素晴らしい政権ができたと思っても半年も経ったら、今度は評論家が非難し始め、1年で首相が交代するということを繰り返しています。現首相の経済政策はまるで無能なものとしか思えませんが、安定政権を維持することは行政改革を行う上で必項条件となります。万人に共通の正しい政策を行うことなどできないでしょうが、選挙では勝ち過ぎずに自公で過半数程度を確保する適度な結果になることを願ってやみません。誤った方向に突き進ませない為にも適当な数字が好ましいはずです。そしてメディアは今からでも遅くはありませんから、民主党政権が誕生した際、何が間違えた報道であったのかについて紙面を割いて国民に知らせる必要があるでしょう。考える国民が考える政治家を生むことに繋がるはずなのです。 <サイト管理人> 2013年 7月2日記述 |
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【ミノルタα7000のような商品は今後も産まれるのか】第293回 |
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ミノルタのα7000とはかつて一世風靡したフイルムカメラであり、1985年にミノルタが開発し商品展開を行ったものです。実質的に世界初のオートフォーカス機能を搭載したシステム一眼レフカメラでした。当時ニコンF3AF等、オートフォーカス一眼レフカメラは存在したが、オートフォーカスは専用レンズ側が行い、それも1〜2本に限られていました。大きく重くピントが合うまでに何秒もの時間がかかることや、ピントそのものが合わない等、試作的な意味合いが強く、商業的に成功したとは言い難かったのです。それに対しミノルタα7000はオートフォーカス用にレンズシステムを全て刷新しての登場でしたから非常に注目を浴びました。あまりの技術を盛り込んだ製品の為に他メーカーからの乗り換えユーザーも多く、また写真業界以外のマスコミにも報道されることになり一大ブームへと発展しました。このカメラの出現によりそれ以降一眼レフカメラのオートフォーカス化が大きく進むなど、当時の業界に与えた影響は極めて大きく「αショック」という言葉さえ生まれました。カメラグランプリ'85、インターカメラ国際賞、ヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤー'85を受賞したことからも当時その評価が如何に高いものであったかわかります。 このカメラの登場からフイルム一眼レフユーザーが多くなり、難しいとされた写真撮影が身近なものとなりました。実際カメラそのものも良く出来ており、ボタンの配置やデザインも斬新なものでした。私がカメラを始めたのは大学に入る前後でしたから1994年頃でしょうか。そのころは既に後継機であるα7xi(1991年6月発売:αシリーズの第三世代モデル)が主流で、動体予測や自動ポップアップ式フラッシュが盛り込まれ、さらには電動化されたズームレンズのズーム機構までが適切と思われる画角まで自動的に制御され、まさに全自動カメラが誕生していたのです。当時貧乏学生であった私は旧モデルの中古品しか買うことが出来ませんでしたが、ミノルタのαシリーズは憧れの的でした。今のようにインターネットも普及しておりませんでしたし、中古品を販売するカメラ店も限られていましたので、秋葉原や新橋まで出向いて買い物をした記憶があります。それだけ写真ファンを魅了した商品であったのです。 世界的にも評価され、そして賞賛されたカメラを生み出したミノルタの技術革新は奇跡と称され、現代に例えるならばカメラ界にとってのスマートフォンであったのかもしれません。日本発の技術です。しかし技術とは常に革新を求められるもので、その後ミノルタはコニカと経営統合を行いコニカミノルタとなりました。その頃にはコニカミノルタもほぼデジタル機専業となっていました。そしてカメラ事業が新会社に移行するとともにαブランドも新会社へ引き継がれました。2005年にソニーはαマウントを採用したデジタル一眼レフをコニカミノルタと共同開発するとの発表を行ない、2006年1月、コニカミノルタはデジタル一眼レフカメラ市場のCCD開発速度(現在はCMOS)にこれ以上ついていけないことや、製品開発の失敗による事業赤字を理由にカメラ事業からの撤退を発表しました。ソニーにカメラ開発に必要な技術工場の提供と約200人のカメラ技術者の異動が行なわれました。同時にコニカミノルタのカメラサポートをソニーが担当することとなり、これによりコニカミノルタのカメラ事業は幕を閉じることとなりました。現在αマウントは存在しておりますが、ソニーブランドとなっております。 技術開発とは常に新しいものを指します。ゆえにミノルタの功績はα7000で終わったのかもしれませんが、カメラ業界に激震をもたらしたことは事実です。既存の製品であっても付加価値を付けることで新しい技術が連鎖的に開発され、業界全体が大きく変わることは良くあることです。今回はカメラについてお話しましたが、日本発の革新的技術革命はこれまでにも多くありました。これから先もこうした画期的商品が生まれることを期待しております。 今回は技術革新とオートフォーカスについて記述しましたが、技術の進歩と共に失われるユーザーの感性の喪失は付き物であることは理解しておかなければなりません。今後機会があれば技術革新と人間の思考力低下の関係について書いてみたいと思っております。株式投資も同じようなもので、証券会社の提供するスクリーニング機能は20年前では個人レベルで考えられないほど進化を遂げました。しかし、テクニカルに依存して財務諸表をこまめにチェックするという基本的な作業を怠る個人投資家が多くなっているように思います。基本はそれとして修め、応用として最新のサービスを利用する、そんな当たり前のことをせずいきなり応用(デジタルカメラの全自動撮影機能的なもの)を用いてもそこにある原理は一生理解できないことでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月3日記述 |
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【自然という姿の誤認と生物の生存について】第294回 |
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少し前の話ですが、2012年に瀬戸内海で「海が綺麗になり漁獲量が減った」というニュースが報じられました。ここ20年間の日本の環境対策は「環境や自然」をよく考えない非科学的な政策が続いているように思います。「自然の法則をはき違えた学者」が日本人の人の良いところに訴えるという要素を利用したものです。簡単に言うと「自然が大切といいながら、自然を食いものにしている」とも言い換えられるでしょう。簡単ですが、今の日本で「自然と生物」について錯覚していることを取り上げたいと思います。 1) 魚が育つには、チッソ、リンなどの海藻類が育つ栄養が必要ですし、魚の代謝に必要な鉄、亜鉛、重金属なども必須です。それを人間の目から見たら毒物だからということで排除し、規制を強めた結果、自然の循環が出来上がらずに魚が育たなくなりました。生き物全体にとって汚いものを人間の基準で考えることはできないのです。近年この被害が増えていて、漁師の方々は困っています。 2) 日本の自然を豊かにするには「外来種」が適当に侵入してくるのが大切です。ましてブラックバスのように今から90年も前に日本に来て綺麗な湖には棲めないが、汚いところは大好きという魚を汚れた琵琶湖に放ち、汚い琵琶湖をそのままにしてブラックバスという外来種を排除せよといって膨大な税金を使っています。意味が解りません。害になる動物や植物を排除するのは場合によっては良いのですが、外来種だから排斥するというと自然は多様化を失います。新しい生物の生態系が生まれるのですから、外来種は単に排斥すればよいといったものではないのです。自然には修復機能があるからです。 3) 「トキ」という鳥は平安時代ぐらいまでは日本で繁殖していたのですが、背丈が80センチもある大型の鳥類は江戸時代にはすでに生息が難しく、明治時代に実質的に絶滅しました。それを人工的に育て、人間が多く大型鳥類が生息できない今の日本の野に放ち何匹が死んだとまるで喜んでいるように見えるのは、ゆがんだ現代の日本社会を象徴しているようです。私たちはトキが絶滅した理由、日本が大型鳥類を共存できるのかなど、より深く考える機会でしょう。 4) 森林はCO2できていて、樹木の数が変わらないかぎりCO2を吸収も放出もしません。しかし、小学校の理科にも反して森林がCO2を吸収すると世間(社会)が言うのは教育を混乱させます。割り箸の忌避運動なども同じで、名前は森林保護運動ですが、実体は森林破壊運動になっています。最近森林が約80%を占める高知県では「森を伐採しましょう」というポスターを貼っています。森は人工林と自然林のバランスで成り立ちますから人工林を間引きしていかないと荒れてしまうのです。 5) かつて水力発電は自然に良いと言って建設し、日本の自然を破壊しました。電気はエネルギーですし、エネルギーにはエネルギー保存の法則があるのですから、自然からエネルギーを取ればその分だけ自然が破壊されるのは当然です。これもまた科学の基本的は法則です。そういう経験をしているのですから、今頃「自然エネルギーは自然に良い」と言うためには、科学的に新しい見解を出す必要があります。自然という言葉にセンチメントになり過ぎているのではないでしょうか。 このように、自然に関係する環境対策だけでも、その非科学性は極端なほど際立っていると言えます。日本は科学技術立国ですし、環境こそ学問的に正しいものを選択すべきです。すぐにでも専門家が訂正し、多くの人が正しい判断をされることを望みます。 株式投資でも個人投資家の誤認が利用されます。利用される側は損失を被り、利用する側は利益を得られる仕組みになっているとも言えます。一旦錯覚と理解されれば相場は大きく転換するでしょう。大切なことは本質を理解し、トレンドに乗らない投資を心がけることではないでしょうか。安易に正しく見えることは正しくは無いのです。 <サイト管理人> 2013年 7月4日記述 |
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【個人の「手抜き」は良いことであることについて】第295回 |
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「手抜き」とは一般に悪いものとされ、私欲の結果であり、社会では基本的に非難されるべきものであると考えられているようです。私はこのサイト立ち上げた当初より自分が株式投資にかける時間を少なくする為(「手抜き」の為)に作っており、コラムは文章を書くことを通じて自分の考えをまとめ、自分という存在を確認し、結果的に日常で多くの物事を考えずに判断できるようになることを目的として始めました。サイトの更新は全体として自分の生活を効率化させる為に行っている活動です。今となってはひとつひとつの物事に引っかからずに済むようになり、それはある程度の部分まで結論が出た証拠かもしれません(註:結論とは今現在のものであり、常に変化させなければならないもの)。 さて、通常用いる「手抜き」ですが一戸建て住宅をイメージしてください。建築基準法や構造設計を守らずに梁や柱の部材サイズを小さくしたり、間柱を1本抜いてしまえば「手抜き」の欠陥住宅になりますし、法令には定められていなかったとしても目に見えない部分で事前の説明に反して作業を省略していたことが判明すれば「手抜き」工事に該当するでしょう。 とはいえ、冒頭に書いたように「手抜き」がいつも悪いわけではないと思うのです。規格が定められているものや設計図書があるものの製作に関しては認められませんが、主人公について見事に描き込まれた絵の周辺部が描き殴りのようになっていても美的観点から不要な描写を省略したと解釈することも出来ますから、悪い意味の「手抜き」には該当しないと思うのです。また、組織をイメージした時、あまりに多くの手続きがある場合、形式を守らず大胆な省略を行えば、かえって「効率的」になることもあります。以前のコラムに書いたウニ型の組織構造です。なんの根回しも無くトップと連絡を取り合えば大幅な時間短縮に繋がるのです。問題はトップの負担増と、保守的な立場を採る人間から必要な作業を「手抜き」したと見られることです。ここで言いたいことは、ある種の「手抜き」は効率化や節約などなんらかの合理性に基づいているということです。 本来、「効率化」と「手抜き」は違うものです。「効率化」は効果率を上げる為に行なうことであり「手抜き」は自分が楽をするためであるとか手間を省く為に行われるものです。「手抜き」は何も身に付くことはないと言う人もいますが、ポイントを抑えた行動は「手抜き」ではなく「効率化」に繋がるでしょう。よって、「効率化」と「手抜き」について細かく議論するよりも、両者を同一視し、いかにして急所を押さえるかの一点に絞って考えれば自然と「手抜き」的行動をとるようになると思えます。 しかし、個人の合理的行動の総合は必ずしも全体の合理性とは相容れません。社会的「手抜き」の場合、共同作業を行う人数が増大するに伴って、一人当たりの生産性が低下していくことが知られています。少人数で行う作業では各人が責任感を持ち、目標の達成に対してモチベーションを維持できますが、人数が多くなると各人の寄与分が減少することから、個人のモチベーションが下がってしまうのです。「手抜き」は個人や二人称の付合いでこそ成り立つものであって合理的な対処法といえますが、それは組織が大きくなればなるほど全体の利益に反するのかもしれません。難しい問題ではありますが、個人の内の「手抜き」は多くの時間的余裕の確保や心の負担を軽減することに繋がる良いことと思っています。ある意味で学ぶという行為も「手抜き」の一環なのかもしれません。 <サイト管理人> 2013年 7月5日記述 |
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【未来の予測に意味が無い証明:メドウスの予言から】第296回 |
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株式投資を行うに際して、未来の予測をしてはならない、企業の業績予測をあてにしてはならない、証券会社等の情報を鵜呑みにしてはいけないということをこれまで一環して述べてきました。なぜなら予測そのものに意味が無いからです。今回のコラムでは改めて予測の限界について考えてみたいと思います。 1972年にメドウスが「100年以内に今の文明は行き詰まる」と予言をしたことは有名です。もう少し具体的に書きますと、メドウスの未来予測では「ひとり当たりの食料がピークを迎えるのが2009年であり、環境汚染のピークは2033年、2050年頃には食糧生産はピーク時の6分の1程度、資源は20分の1程度に減る。その結果、来世紀には世界人口が60億人減ると計算され、約30億人が餓死する。」というものです。その予言通りなら、現時点においても食糧や資源は無くなりかけ、環境汚染なども進んでいるはずです。しかし、幸いにしてメドウスの「予言」は当たらなかったのです。それはそのはずで、メドウスが「成長の限界」という本を出して、みんなが大騒ぎした田中政権時代、つまり石油ショックの時のことですが、内容にあまりの衝撃を受けたのでメドウスの本を皆が深く読まなかったから見落としがあったのです。メドウスは次のように断っていました。「もしも1970年の社会、技術、資源の状態、環境技術などが同じ状態が続いたら・・・」です。結局当時、この断り書きを見過ごしていたのです。だから、メドウスの予言が当たらないのは当然のこととなりました。 1970年以後、良い点を考えれば予想外に資源が増え、電子化(人間の活動に対する物質の消費量が大幅に減少した)が進み、食糧が増産され、環境技術(脱硫、汚泥処理、焼却など)が進んだことがあげられます。これに対して悪い点は、発展途上国が発展したので物質消費が増え環境汚染が進んだことなどがあげられます。 良い面と悪い面を差し引いて考えると、悪くなるどころか1970年より現在の方が、資源、食糧、環境といった全ての面で良くなっている結論に到達します。メドウスから学ぶべき重要なポイントは「現在の文明が持続性がない」であるとか「成長に限界がある」というのは誰も証明していないことであり、現在の技術レベルで未来を予測することなどはできないということです。環境や資源で悲観的なことを言ったりするときに、まだメドウスを引用されるひとがおりますが、そのメドウス自体が間違っていたのですから、持続性が無いという概念自体が無いものであり、無効なのです。 ただし、こうした考え方は宗教としては十分あり得ます。「物を使いすぎる」であるとか「天罰が当たる」という話がそうでしょう。私は仏教徒ですが、神道に対する一定の理解から言い得ているかもしれないと感じてしまいます。しかし少なくとも科学的に「持続性がない」という証明はできていないのです。新聞やテレビを中心とした報道を耳にしていれば、「そうは言っても、今の資源消費量は多すぎるのではないのか?」という感覚は残るかもしれません。しかし、科学的に考えればしっかりとした計算や証明がなければ他人に「持続性がない」とか、「成長に限界がある」とは言えないのです。環境が悪くなるとか、資源が無くなるというのは、今のところ幻といっても良いでしょう。将来に対して自分だけが悲観して落ち込んでも良いのですが、他人まで自分の宗教(このまま使い続けると終わりが来るをいう教え)を強制しない方が良いと思うのです。 <サイト管理人> 2013年 7月6日記述 |
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【医師のあり方と医療の問題について考える】第297回 |
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かつて医師とは教師以上の聖職であり、地方に住む私などにとっては有識者として意識される存在でした。幼い頃のかかりつけの医師は私の体の悪い箇所を丁寧かつ誠意を持って診断してくれました。その真摯な態度が彼らに威厳を持たせ、患者の苦痛を和らげることに繋がり、病院という存在そのものが精神の安定をもたらしてくれましたので、多くの人は医師に深く感謝しました。医師とは地方に住む人間にとっては絶対的な存在だったと言ってよいでしょう。私は小心者でしたから、体調が悪くなったら病院に行き、医師の言ったとおり薬を飲み養生しするタイプでした。 ところが、いつの間にか自覚症状が無くても病院に行って健康診断をする風潮になり、些細なことでも病気と診断され多くの薬が処方されるといったように様相が変わってしまいました。肝機能、脳、ガンなど、自覚症状が出る前に治療するのが適当ものもありますが、それを拡大していき、今では体形からタバコのように体の調子ではなく人の行為にまで及ぶようになりました。そもそも、病気を治すということと人生には大きな隔たりがあります。人の健康という人間にとって最も中心的なところに手を付け、膨大な利権を得ようとするのですから、そこには必然的に無理が生じてしまうのです。かつてのコレステロール騒動、塩分摂取騒動、朝食騒動、そしてメタボ、血圧と際限がなくなりました。脂肪率やコレステロールなどはある程度高い方が長生きをするといったデータがあるにも関わらず、適正値を設定され、強制的に作られた患者を不安にさせています。 今では50才以上の男性の7割が病気とされていて、何らかの薬や指導を受けているようです。日本の自殺が先進国で際立って多いのもは病気のせいではありません。しかしこれを病気にされ、薬を処方すれば改善するといった雰囲気を生み出しています。 「病院に行くと殺される」、「ガンは治療しない方が良い」、「薬は家に帰ったら捨てろ」、「ご飯ではなく肉を食え」などというタイトルの本が出版されるのも医療に歪みが拡大しているからでしょう。ここまでくると私達はどうしたら良いかわかりません。医師が診察や治療をしてもお金をもらわないなら信用できるのですが、その報酬が膨大になっていますからどうしても怪しい気分にならざるを得ないのです。今医師に求められているのは誠意です。 現在の私は解からないことはしない(行動として起こさない)スタンスをとっておりますので、データとして正確に示されない病気に関しては一切信用しません。そして、曖昧な基準を設けたメタボやタバコといった病気でもない問題は気にしません。処方される薬を捨てることはしませんが、明らかに以前より存在していた病気に対してのみ服用するようにしています。 株式投資でも同じで、実際にはあり得ない金融商品や、投資判断の指標が存在しています。そしてこれらは金融工学という仮定に則った曖昧な予測に基づいて買い入れや売りの情報を流してきます。ですから病気と同様、基本的かつ確実な事柄についてのみ受け入れ、それ以外は排斥しても良いと思います。既に自分で考えて判断する時代になっているのです。ですから過去にも増して投資は自己責任になっているのです。 <サイト管理人> 2013年 7月7日記述 |
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【人間にとって知恵の確信はあり得ないことについて】第298回 |
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人間の頭脳には欠点と長所があります。欠点は事実が見えず、そして未来も見えないことでしょう。人間は今自分が知っていることが事実であり、その知っていることから推論した結論を真実と思う傾向があります。しかし、歴史の教えるところによると人間の知恵は増大し変化するものです。つまり、今知っていることという前提は日々覆されますから、現在の推論には意味がありません。 以上を論理的に言えば、「今、自分が知っていることは事実のほんの一部であり、もしかすると間違った事実を事実と錯覚している」と考える方が適当でしょう。 そんな例はいくらでもあります。例えば今からわずか1000年前の平安時代には、物が落下するのは悪魔が地下から引っ張るからと(真剣に)思っていました。高いところから落ちるとモノがグシャリとつぶれるぐらいの力です。悪魔に違いないと感じても仕方がありません。その人が不真面目に「悪魔」といったのではないのです。それが正しいと心の底から思っていたのです。 病気になるのも悪霊の仕業と確信していました。病原菌というのはパスツールが鶴首の実験をするまでわからないものでした。病気になると祈祷をしたのですが、それでも本当に助けようと思っていました。仕方がないことだったのです。 そのような歴史を繰り返していましたが、今からたった140年前、当時にドイツの物理学の権威であるヘルムホルツは「なぜ,太陽は光っているのか?」という謎に取り組み、放棄しました。まだキュリー夫人がパリに行ってなかったからかもしれません。彼は学者でしたから、「わからないことがある」ということを知っていました。だから「太陽は悪魔がストーブを焚いている」とは言わず、「わからなかった」としたのです。私には正しいことと思え、それが科学者の良心であるとも思えるのです。 今、環境のことを周囲に話すと「これから新しい発明も発見もないだろう」と平然と言い放ちます。歴史を無視して自分が考えることが正しいと錯覚している傲慢な人が多いように感じられます。 人類はその誕生から今まで,「イノベーション(新しいことを生み出すこと)」で持続性を保ってきました。決して「節約」で持続性を保ってきたわけではないのです。多くの人に大切なこと、それは自らの可能性を信じて夢を持って進むことでしょう。将来がどうなるかはわからないのです。今知らないことが起こるから未来を推定することはできません。ただ、私たちの歴史が教えることは「未来は今より輝かしい」ということだけなのかもしれません。 私たちの頭脳の素晴らしいところは、見えない未来に夢と希望を持てることです。もし夢も希望も持てないしぼんだ脳になった人はその害毒を周囲に吹き込んではいけません。私も歳をとるに重ね、夢と希望を制限してきました。ですから、私は未来を周囲の人に語らないようにしています。それがせめてもの良心と信じています。もう一つ大切なことは「いい加減」であることを認めることです。もともと今の知識は間違っているのだから、私たちには「いい加減」であることをもって排斥する理由にはならないとは言えるでしょう。医師の問題同様、大切なのは「真摯な態度や誠意」だけではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月8日記述 |
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【結果を知って語るのではなく、時々の状況を考える】第299回 |
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反日といった言葉であふれる昨今ですが、少し問答的な話をしたいと思います。それは「私達は何事においても祖先の行為を非難できるのか?」ということです。 日露戦争の開戦直前、ロシアの侵攻が満州で止まるのか、鎮海湾に来るのか、佐世保は取られるのか、日本が植民地になったらアジア諸国と同じように女性は乱暴され若者は両手首を切り落とされるのか・・・多くの予測がありました。しかし先のことはすべて解らない未知のことでした。そのような中で首脳陣は大いに悩み、日本の行く末を案じたことでしょう。結局日露戦争を始めたのですが、当時世界最強といわれた陸軍に日本陸軍が勝てるのか、日本を遙かに上回る戦力を持つ旅順艦隊とバルチック艦隊に日本海軍は勝てるのか、全く解らなかったのです。解らない中での決断でした。当時の常識で言えば日本に勝ち目は無いというのが一般的な感覚でしょう。祖先は「不明の中で道を選んだ」のですが、後の私達は「結果を知って祖先を批判する」ことができるでしょうか?結果として日露戦争には勝ちました。多くの代償を払いましたが、それ以上のものを手にしたのです。 大東亜戦争は、ハワイにおけるパールハーバーの奇襲、マレー沖海戦でのレパルスやプリンスオブウェールズといった世界屈指の軍艦の撃沈、シンガポール攻防戦でいずれも日本軍が大勝利を収めました。ハワイ奇襲の第三波を出して石油基地を叩き、シンガポール攻防戦の後、インドと同盟を結びイギリスをインドから追い出していたら、そこで休戦になっていた可能性もあります。もしもの話は意味がありませんので、これ以上はしませんが、勝ったか負けたかという大問題以前に当時何をどうするかの選択をしていた事実を考えなければならないでしょう。首脳陣のご苦労は大変なものであったことでしょう。 私達の祖先は「先が全く見えない中で道を選んだ」にもかかわらず、私達は「結果を見て祖先を批判する」ことを続けています。祖先もその時には「私達と同等の判断力を持って正しいと思うことを選択していた」と思われます。それを今になって批判することは愚かであると考えられます。まして「戦争に負けたから戦争は悪かった」という論理はまったく非論理的です。 投資も未来の予測から行うものです。私は予測に意味が無いという考え方をもっていますから、グロース投資は特に認めていません。仮定の上に仮定を組立てて投資を行うリスクを大きく感じているからです。ただ、これは私個人の感覚ですから、正しいとも思っていません。大切なのは結果を見てからモノを言うのではなく、今現在においてどういう判断をするかということではないでしょうか。現在株式をお持ちの方はこれから先の上昇を見込んで買い入れていることでしょうし、お持ちで無い方は先に下落が待っているという考え、もしくは先が読めないから買い入れていないものと思います。まずどう考えるかを大切にし、次に何をするかを決定するという基本があり、結果は後からついて回るものです。いつまでも結果にこだわり、未来に対して何も考えないことや一方的な思い込みから行動をとることには疑問を憶えます。 <サイト管理人> 2013年 7月9日記述 |
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【発送電分離法案の廃案とその裏側にある大マスコミ】第300回 |
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国会で首相が何らかの委員会に出席しなかったという理由で野党が不信任決議を提出し、その為に発送電分離などの法案が廃案となりました。特に電力会社に不利な発送電分離の法案が廃案となった裏には「原発を動かしたい」という政治的な力で首相が作戦的に委員会を欠席したとも見られますし、野党も含めた電力利権の保持が目的との見方が有力です。 そもそも発送電分離は大東亜戦争の前の日本の電力体制では別に特別なものではありませんでした。ただ、現代の日本では政治家が電力利権を失い原子力発電所を作ることができなくなるという点で大きな壁があります。原子力発電に関する技術開発は継続しなくてはなりませんし、そこに帰属する会社が製造する部品の数々はバルブひとつをとっても世界最高レベルのものである為、開発の放棄は日本の産業レベルの衰退を意味します。問題は国内の原発を稼動させるか否かの話しであるとともに、電力会社と傘下の会社も含めた電力利権と政治の問題です。発送電分離はコスト競争を招きます。消費者にとっては良いことですが、電力会社を頂点とする建築、設備等のインフラ産業に従事する人にとっては大きな打撃となるでしょう。しかし、ここで現在の利権構造を打破しなくては日本の電気代金は恒久的に高いものとなるでしょうし、メタンハイドレードなどの採掘によるガス発電も促進されないことでしょう。かく言う私ですが、発送電の分離には反対の立場をとっています。理由はいくつもありますが、一大産業構造の改革には大きなデメリットがあるからです。電力会社は地方財界の雄なのです。ひとつずつをここでは記しませんが、福島第一原発の事故やもんじゅの問題を越えた部分で日本の発電技術は世界に最たるものに育った事実があるからであるとともに、そのサービス(落雷等による停電からの復旧時間)は世界に類をみないほどのものであるからです。また、地方を活性化させる大切な手段であることは認めざるを得ません。 そもそも首相が委員会を欠席し、野党が選挙用のパフォーマンスで不信任案を出し、その結果重要法案が廃案になるようなことが計画的であったかどうかは、記者クラブに所属し一部始終を近くで取材できないと明らかにすることはできません。その意味で今回は報道(大マスコミ)が最も大切な要素となり財産にもなり得たのです。ところが、私達は今、原発関係の報道を失った結果となりました。さらに、福島県の汚染状態や被曝の危険性は小出しにしか報道されず、原発の状況は東京新聞などしか報道を行っていないといっても良い状態です。食材に至っては「安全」以外は言わないという報道になってしまいました。センチメントに訴えるものばかりで安全は蚊帳の外にあるのでしょう。日本教の日本人はセンチメントに弱いものだとつくづく思い知らされるばかりです。 なお、電力会社をバッシングしないことの裏には消費税の問題があるのでしょう。来春税率のアップがあっても報道機関だけは増税しないという密約で報道機関は政府にまったく抵抗できなくなっていることがあるのかもしれません。お金をもらえば黙るのは当たり前と思うかもしれませんが、個人レベルではそんなに惨めな行為を黙認する人はそれほどはいないでしょう。お金をもらっても魂は売りたくないという人が多いと思いますが、今の日本のマスコミは実に惨めになったものだと考えさせられます。NHKという「お金だけ」という大報道機関が存在する為かもしれません。NHKは政府発表しか報道せず、自らは独立した記者を実質的にもっていないので、ニュースというカテゴリーのものを流しているだけで、本当の意味では報道機関ではないのでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月10日記述 |
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【なぜ人は嘘をつかなければならないのか】第301回 |
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そもそも人はなぜ嘘をつくのでしょう。他人の嘘に傷つくこともありますし、自分自身の嘘に嫌気がさすこともあるのではないでしょうか。もし人間の社会に嘘が無ければ世の中はかなり単純なものになるでしょう。これは「良いか悪いか」を別として考えた場合です。 人間は本来嘘をつくような構造をしているのです。科学的に言うと味気ないのですが「人間の脳は嘘をつく為に出来ている」といってもよいのです。人間は脳が発達した生き物ですが、本能で生きているのは産まれてほんの暫くの間です。母親が「これは敵でこれは味方」、「これは食べられこれは食べられない」と教えられるとその通りに従います。しかし、子供も自分の経験から判断の基準が変わってきます。そして嘘をつくようになるのです。 人は本能を脳で抑えられる力を持った生物です。脳があった方が自分が守れると言ったらよいでしょうか。仮に同じ性能をもった人間が複数いるとした場合、脳が発達している者が自然淘汰の中では生き残れることでしょう。結局、脳は「本能の代わりに自分を守る武器」として存在しています。よって自分を守るためには人は平気で嘘をつくものでしょう。そもそも脳の立場からすると自分を守る為に自分がいるということになります。正直に生き続け自分が損をするような状況になっていくならば、体は自然と自分の脳を否定することでしょう。そして、短期的には嘘を言った方が特になるケースもありますが、信用が失われ長期的に見れば損になると考えれば人間は嘘をつかなくなる傾向があります。その方が健全であると脳が判断すればその人間は嘘をつかないことでしょう。 もうひとつ考えなくてはならないことに個体と集団の考え方があります。個人としては嘘をつかないほうが得であるものの、集団としては損になる場合があります。もっとも他人の嘘に対して腹が立つのなら一人で暮らせばよいのですが、現実問題として山にこもって一人で生活することなど出来ません。結局集団の中の自分として考えた時に嘘をついた方が良いのか良くないのかを常に判断して生きざるを得ないのでしょう。もしも正直に言ったら自分が損をするという時に、自分が損をしても本当のことを言うのならば脳の存在価値が無いということになってしまいます。 大抵の人は「嘘つきは悪」と考えます。そして、時間的な視野、空間的な視野が広い人ほど嘘がつかなくなることは事実です。経験や知識を得るごとに嘘をつかなくても済むようになっていくでしょう。嘘をつくからと言ってその人を憎んではいけないように思います。そもそもそれは人間らしい行為だからです。嘘をつく人は未熟である証拠であり、脳が正常であることを示しているように思います。 株式投資で勝ち続ける人というのは個において嘘をつかない人だと思っています。損失を出したらそれを認めすぐに自分を否定する。そして新しい自分を組み上げ行動に移す。そんな脳に抵抗できる人間だけが投資という賭場において生き残れると思うのです。先述の通り、時間的な視野や空間的な視野が広い人ほど投資に向いているのではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月11日記述 |
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【なぜ人は嘘をつかなければならないのか:その2】第302回 |
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科学的に脳は嘘をつく為に存在していることを前回のコラムで書きました。人間は集団生活をおくる必要があり、本能だけでは生きていけないからです。そしてそこでの生活では嘘が重宝するのです。なお、脳が発達した人の方が長生きできるという現実があり、脳は人間の活動エネルギーの25%も使う器官だそうです。 確かに長期的な視野に立てばあまり嘘をつかなくても生きていけるでしょうが、嘘には癖が存在します。子供は母親から「こうじゃないの?」や「駄目だね」と何回も繰り返し言われると、子供は母親の言うことを素直に聞いていますから、その通りの人間になっていく傾向があります。そしてその言葉をカバーする為に嘘をつくのです。「駄目じゃない」と。多くの親は子供に対して否定的な物言いをしますが、そういう言い方をすると言葉通りの人間になることを自認して言葉を選ばなくてはなりません。「グズである」ことを繰り返せばグズになり、「早くしなさい」といえば早く行動できるようになります。「ものは言いよう」という言葉もありますが、心理学的には正しいでのでしょう。 人間の脳は自分を守る為にあります。本能だけならお母さんが教えてくれたそのままの人生でしか歩くことができません。しかし、脳は自分を守るためにあるので、母親からあまり厳しく追及されると嘘を言って自分を守る行動をとります。あまり厳しく追及されると脳に自己防衛機能が働き、子供の発する言葉の1/3程度が嘘になってしまうというデータもあるようです。そして、大人になるに従って嘘はそのうち「本当の記憶」になり頭に定着します。それを積極的に利用する洗脳的な方法もあるのでしょうが、虚像の中に自分を置き、自分すらも虚像になりかねません。嘘が本当の記憶に成り代わってしまうことは実に恐ろしいことです。仏教的に言うと嘘の創り出した仮観に身をおくこととなり、空の思想と合わされば凶悪犯罪といった行為に結びつく可能性も大きくなってくるでしょう。 嘘のコントロールができない人は過去のことを忘れるか、無かったことにするしか手段が無いのかもしれません。辛い経験をすることもあるでしょうから、明日に向かって生きていく為には反省をし過ぎないことも大切な要素となるのでしょう。 ただ、前述のコラムの通り時間的な視野や空間的な視野が広い人ほど嘘がつかなくなることは事実ですから、経験や知識を得るごとに嘘をつかなくても済むようになっていくでしょう。嘘をつく人は未熟であり、純粋なのかもしれませんが、学習や経験を通して多くのものを会得することから嘘を必要としない自分を手に入れる必要があるでしょう。脳の癖を知り、逆にコントロールできる人間こそ投資に求められる人間像に思えます。 <サイト管理人> 2013年 7月11日記述 |
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【日本と日本人、そして日本独自の文化から考える】第303回 |
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最近テレビ離れが進み、動画サイトにて情報を得ている人が多くなっています。チャンネル桜なども人気のサイトのようですが、随分と歴史認識について偏った見解を示している人が増えたように感じています。かつての日本の戦争は決して肯定されるものではありません。アジア解放の大義名分は解かりますが、後出しにも思いますし、生物兵器の製造や捕虜の生きた人体実験を九州大学で行ったことについては真摯に受け止める必要があるでしょう。また、朝鮮に住む人達についても安易に差別するのではなく、彼らが辿ってきた歴史的背景を学んだ上でそれでも差別的な態度をとるのであるのならば私は否定しません。ただ、少々安易な右傾化が進んでいることは事実でしょう。そうした方々は世界経済の情勢や本当の右翼的思考について学ぶべきと思います。 さて、今回のコラムでは日本と日本人の姿、そして日本人はどのようにして出来ているのかを少し考えてみたいと思います。 まず、私たちの行動を決めているのは3つの要素であると言われています。ひとつはDNAで、親から体の形、仕組み、性質などを受け継ぐものです。生物は自分の体というものを持っておりません。すべては親からの授かりものであり、だからこそ親は自分以上に大切なのかもしれません。ふたつめはミームであり文化的遺伝子とも言われます。人間は生まれてすぐ周囲からの情報で基本的なものを獲得します。それは、日常的な小さな手の動きから話し方まで、そして懐かしく思ったり親しく感じたりするものも、この時期に獲得されるものです。さらに、小さいころ「浦島太郎」の話を聞いたり、ふすまを見たりしている内に、日本の200年から300年前のもの体に浸み入らせます。郷土を愛したり、出身地の高校生が活躍したりすると、むやみに嬉しくなるのも、このミームが関係しているでしょう。そして、三番目が脳に入っている知識とそれに基づく判断力です。 そもそもDNAは生物的なものです。そして脳の知識は学習によって得られたものです。もちろんそれだけでは日本人にはなりません。おそらくコスモポリタンなのでしょう。日本の紅葉、囲炉裏、蚊帳、しめ縄、横綱、和服、ヤカン、神社、四季、山河・・・そんな風景や家具が私たちを日本人にしてくれるのかもしれません。今でも基本的には水田も豊かな山野も残っています。しかし、今一つ重要なものが抜けています。それが大麻ではないでしょうか。大麻はもっとも古い作物として縄文時代から日本で育てられ使われてきました。戦前まで見渡す限りの大麻畑が拡がり、それを日本人はあらゆる所に使っていました。そして、日本人にとって神聖な作物であるが故に神社では伊勢神宮のお札、すべての神社のしめ縄、横綱の綱などには必ず大麻を使用したのです。大麻は日本の風景と生活に無くてはならないものでした。そして日本人は一度も大麻を規制したことはありません。ただ、第二次世界大戦後に2000年に日本の歴史の中で一度他国に占領され、その時に大麻取締法というものができて、それ以来、日本の風景と生活の中からもっとも重要なもののひとつが消えました。 今や多くの浅薄な知識しか持たない知識人が大麻を排斥しようとしています。法律で規制されているので私は使うことはありませんが、大麻は日本文化に欠かせないものでした。日本の伝統や日本人を考えると、それを占領軍が命令した規制で放棄することには疑問を抱いております。占領軍が日本に残してくれた有益なもの(日本国憲法など)も多くありますが、大麻に関しては個人的に納得がいきません。私たちは歴史と文化に培われた日本人です。日本を捨てて法律を取ることにはある程度の議論が必要でしょう。大人が日本の風景や文化を捨てて、子供に日本は犯罪が少ないなどと言っても、そして日本の道徳を教えても、旧来の日本文化を子供達は理解できないことでしょう。ノスタルジーの話でもセンチメントでもなく、純粋に日本と日本人を考える上で法律というものを真剣に考える時期に来ているように思います。 <サイト管理人> 2013年 7月12日記述 |
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【テレビに成長はないのか、時代がそうさせるのか】第304回 |
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テレビ離れが進んでいるようですが、そもそもテレビは観たい人が見るものであって、観なければならないものではありません。そういう意味においてインタネットの動画サイトの普及は若年層を中心としてテレビ離れに拍車をかけているようです。とはいえ、インターネットの動画といってもテレビ番組を違法にアップロードしたものが多くあり、また、閲覧は自分にとって興味のあるものにしか向かず、見たくない部分は飛ばすことも可能です。本来ひとつの番組は全体を通して構成されていますから、一部をカットされた動画を見たり、気に入らない部分を安易に早送りしては製作者が伝えたいことを正確に受取ることは出来ないでしょう。よって、ネットでテレビ番組を見ている人はダイレクトにテレビを観る人よりも偏ったものの見方をしがちではないでしょうか。こうしたことは自己の問題としても他人の問題としても注意しなくてはならないように思うのです。断片的に捉えることは、歴史認識において特に危険なことです。 かく言う私ですが、アップロードされたテレビの動画を見ます。面白かったと感じたのは浅間山荘事件の中継や三菱銀行の立てこもり事件の中継です。これらは古いものですから動画でしか現在は閲覧できません。しかしなぜ面白かったのでしょう。三菱銀行の事件も結果もわかっていますし、ほとんどがシャッターを閉めている映像しか放映されていませんが、それでも何かが起こるのではないかと画面に釘付けになるのです。現実的な問題こそ真に興味をそそる番組になるのかもしれません。 なお、現在のバラエティ系の番組は素人が私生活を見せるか、玄人が芸を見せるかしかありません。しかし玄人と呼ばれる大半の人達が芸能界を去り、報道番組を気取ったものも素人がコメントをしているだけのものになっており、非常に中身の無いものに感じられます。見ている側のレベルに合わせて玄人に芸をさせられないのかもしれませんし、専門的な知識を持った識者が事実を語る場面を設けられないのかもしれません。おそらく視聴者がついていけないのです。そういう意味ではスポーツ中継は解りやすいと思いますし、深夜に放送している単に世界の風景を流している番組などは受け入れやすいものでしょう。それは視聴者に対して一方的に情報を与えるものであり、全てが断定であるからかもしれません。昨今の番組は「○○したいと思います」、「次はこの曲をかけたいと思います」など、「思います」が充満していますが、本来「思います」ではなく、「○○をします」と言わなくてはならないのにも拘らず、視聴者にお伺いを立てます。卑下するようで尊大なコメントといえるでしょう。 最後になりますが、昨今、テレビの限界は過激な放送が出来ないこともレベルの低下を招いています。BPOの問題もありますし、視聴者のクレーム、スポンサーの意向、多くのしがらみがつまらない番組を生み出しています。また、タイトルでシナリオが解ってしまうような番組が多くあるのではないでしょうか。もっとも、視聴者が期待する番組を提供してこそのテレビ局であり、それに伴う視聴率ですから、全ては否定すべきことでもありません。ただ、結果としてテレビ離れが進んでいる理由は真摯に受け止めなくてはなりません。私達は未来の断定と結果、そして成果の公告ないし謝罪を求めているのです。非を認めること、成功をそれとして報道することこそが真実を伝えることになり、それがメディアの役割になると考えます。これは投資とも繋がる問題です。外れた予測への謝罪をなくして、一部の成果ばかりを過大公告するような投資サイトは閲覧するに値しないことでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月13日記述 |
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【新潟県人の見識と電力会社の凋落】第305回 |
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現在、新潟県知事は高度かつ勇気ある行動を取っているように思います。あとは新潟県民全体が東京の下請け的立場に成り下がるのか、それとも郷土に誇りを持ち、子どもを守る愛情を優先するかを選択する状況になっています。これは東電が突然、柏崎刈羽原発の再稼働の申請をしたことに端を発した問題です。これは国民に原子力の再稼動の新基準を示しながら、一方で電力会社には緩和しているという矛盾があってのことに起因しています。せめて新基準くらいは守って欲しいものと思って止みません。 東京電力を始め地方の電力会社は財界の雄ですから、多くの金融機関等に社債を持たせ、日本を代表する一流企業でもありますが、このところ電力会社というのは国民の希望がどうであれ、ともかく利益だけを考えるとても貧弱な会社になってしまいました。全くモラルが欠如してしまったとしか言いようがありません。 私は以前から述べているように原子力に関する技術開発には賛成です。安全な原発を作ること、そして、原子力発電に関わる最先端の様々な技術開発はとても重要なことだからです。原発に関わる開発や技術が多方面に応用できることも事実です。バルブひとつ、溶接手法ひとつをとってもそうです。 結局新潟県の人はどのように反応するのでしょう?とても興味があります。日本人の心が問われている問題です。ちなみに、アメリカの原子力発電所は主たる消費地の東海岸に近いところがほとんどであり、フランスはパリのごく近く、ロアーヌ川の上流に原子力発電所を作っていることから、具体的かつ実際的に原発の安全性を示しているのです。原発は安全なのだから、どこでも作ることができるという確信があるのです。そもそもそうでなければ日本で原子力発電所を安全に動かすことはできません。地科学的にも原発が危険なのは日本中の人が理解しています。しかし東京に作らず、お金を地方に配って稼動させようとしているのですから、日本人は子どもの安全よりお金を優先しているのかと思わざるを得ない部分もあります。本当に安全であるならば堂々と東京に建設してほしいものです。それが国民に安心をもたらす結果となるでしょうし、万一の場合の代償を考えれば、それだけ安全な発電設備であることの裏づけになると思うのです。 原発しか電気を作ることができなければ別ですが、現在は豊富かつ安い天然ガスや石炭を使った火力発電で充分に安全で経済的な電気を作ることができますから、原子力発電所を無くしては電力不足を恒久的に招くなどという言葉に騙されてはいけないと思います。福島の原発事故から2年程度しか経っていないのにも拘らず何の反省も責任も問わない体質は日本人の豹変性を示しているのかもしれません。その時の気分や都合に流される国民が多いことは、株式投資で負ける人間が多いことと共通していると思います。そこにはトレンドといった気分に流されやすいという日本人特有の問題が裏にあるからかもしれません。 <サイト管理人> 2013年 7月14日記述 |
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【断らない人は、仕事がうまくいくことについて】第306回 |
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田中和彦さんが書いた「断らない人は、なぜか仕事がうまくいく」という本が徳間書店から2010年に発刊されました。最近読み返しましたので、今回のコラムはその内容を示しながら解説を加えてみようと思います。実に興味をそそるタイトルだったことを思い出し、改めて読み返したのです。著者は50代前半であり、リクルートやキネマ旬報などを経て現在は人事人材のコンサルティング業務を行っております。 断らないという姿勢が人生を劇的に変えることを理詰めで記述されたこの本は当時も今も新鮮に思えます。断る理由の「自分に向いていないから」というのは大きな間違いで、場数でそれを知ることが出来ることを記しています。そして、主観に意味が無く第三者の意見の方が正しいと諭しています。場数の部分は経験則に関わるので少々私は反発的に捉えますが、自分のことは自分以外の人間が良く知っているということは納得がいきます。 ここからは田中さんが著書の中で示していることを以下に示します。なお、自分に希望が持てない人や、自分を大切にしすぎる人は想像もつかない世界に行き着くことは決して出来ないのです。 (1)向いている仕事は実は他人が知っている。 自分を自身で評価しても都合よく解釈し、また精神的負担から逃れる兆候がありますから、自分に向いている仕事を自身で判断することは出来ません。よほど公平な人間であるのならば向いている仕事も選択できるのでしょうが、最終的には間違った結論に至るのではないでしょうか。だからこそ人間は他人の意見を常に取り入れ、それを尊重し、ある程度は騙されたつもりになって遂行する必要があるのでしょう。 (2)断らないことは人生を劇的に変える力がある。 向いていることは他人が知っているわけですから、上司から勧められた仕事(プロジェクト)は断らずに遂行するべきでしょう。出来ないと思っても懸命に取り組むことで得るものは多くあります。成功・不成功も大切ですが、そこから原因を考えることは自分の伸長に繋がり、もう一段上の自分に到達するでしょう。それが人生を劇的に変える力になるのかもしれません。なお、肝心なことですが、「断らないことと断れないこと」とは違います。大変そうだからこそあえて断らないことを選択すべきです。断れないという決断力の無い人間はたいした成果は産めないことでしょう。 (3)自分で考える自分ほどあてにならないものは無い。 他者からの受け入れやすい言葉ばかりを取り入れる人は自分を見失うことでしょう。自分にとって都合のいいことばかりを言ってくれる人間を大切にしては自分の成長はありません。自分にとって都合の悪いこと、自分にとって負担になることを言ってくれる人を大切にすることが一番重要で、自分で考える単純な自分から解放されるのです。 (4)挑戦を避けた人間に新しい人生は無い。 故人かつ芸術家である岡本太郎先生もこの点について触れていますが、挑戦をして失敗をしてもそれ以上のものを手に出来るという考え方です。そして、失敗の原因を突き詰めることこそが次なる成功に結びつくのです。挑戦し失敗した人間には再挑戦の輝きがあるのです。 (5)若いうちは使われてこそ意義がある。 20代に培う仕事のスキルが30代の成長につながり、40代の自由に繋がると説いています。そうした人間はどんな環境でも生きていける資質が養われることでしょう。誰もが敬遠する仕事は基礎となるレベルが高いのです。よってそれだけ価値があるのです。死ぬ気でやってみることです。そして死ぬような結果にはならないでしょう。また、時間の使い方についても真剣かつ自然と考えられるようになることでしょう。 これらのことは株式投資に通じないでしょうか。自分の考えを最終的に組み立てることは大切です。しかし、自分の考えとして判断し行動する為の規範は自分の中だけで決めるのではなく、相場や他者の意見を徹底的に取り入れ、そして公平にジャッジすることから始まるのでしょう。自己流で投資を行っても銘柄に好みが生まれ、ファンダメンタルズを無視した投資になりかねないでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月15日記述 |
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【受け手の自由を考えることの難しさについて】第307回 |
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私はよく料理屋で食事をします。考え事や気分転換のためであるとか、少し読み物をしたい時などに行くようにしています。そして、その時の雰囲気もあり体調もあるのですが、料理に味気がないと感じることがあります。そのような時に恐る恐る「お塩はありますか?」と聞くと、たまに「味がついていますから必要ありません」という答えが返ってきます。店員がこのような返事をするお店の傾向は決まっていて、私の独断と偏見になるかもしれませんが「割と料金が高い、洒落て作られている」などです。味がついていますという返事は、すこし言葉を正確に表現すると「当方で付けた味に文句があるのか」ということになります。 世の中には高血圧であまり塩辛いものを食べられない人もいますし、反対にやや味の濃いものが好きな方もいます。また、体調やその日の仕事にもよる場合があります。汗をかくような仕事をしたときにはすこし塩辛い味とアルコール度の高い酒を体が欲しがるのは私だけでしょうか。ですから、刺身にどのぐらいのわさびと塩を使うかは健康、体調、性格、前の食事で何を食べたか、その日の仕事や遊びによって変わることから、もしその料理屋で「味がついています」というならば、玄関に「本日のお味」というのを掲示して「本日は血圧上140、下90、年齢男性40歳、女性35歳、デスクワークをして、昼食は天丼を食べた人に合わせて味を付けています」と表示するべきなのかもしれません。これ以上書くとクレーマーのようですが、そもそもお客のために料理を出しているのか、それとも料理人のための料理なのか、錯覚しているお店が多いのではないかと思える今日この頃です。 このようなお店はデザインという点で、料理屋の机、部屋、照明、食器、箸、お盆、机の上にあるその他の小さなものなどが調和していることも殆どありません。気分の良い時に「このお皿は素敵ですね」と水を向けると、女将さんが得意げに「○○へ行ったときに買ってきたの」と得意げに言います。しかし、私の出向くこの料理屋はサラリーマンが夜、会社のストレスも抱えながら食事やアルコールを飲む店ですが、そこでの皿は趣はありません。工業的な厳しいデザインが施されています。これは雑然とした机の上に置かれた異物のようにさえ感じられます。 近所にはコーヒーの美味しいお店もあります。それは入れてくれるコーヒーが美味しいのです。しかし、その店の主人の好みに合わせてミルクも砂糖も最初から混ぜてあるというのでは味気がないでしょう。なお、私は「醤油」というより「塩」が好きで、刺身でも目玉焼きでも、塩を使いたい方です。しかし「当店では目玉焼きには醤油を使って頂くことになっています」と冷たく言われることがあり、こうしたことを考えると「受け手のために」というのはとても難しいと感じています。それは料理ばかりではなく、全ての面で言えるような気がしてなりません。お節介というのは過ぎてもいけませんが、お節介の内容自体に正しさを求めてもいけないのかもしれません。提供する側は相手に選択肢を与えられるだけの最高のサービスを提供することが肝要なのでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月16日記述 |
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【「経済制裁」と「戦争」について真摯に考える】第308回 |
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大東亜戦争当時、日本はアメリカと戦争しても勝てるはずもないので、それまで苦労して開拓してきた満州や中国から早々に手を引けば、国土はある程度維持されたと思いますが、アメリカがその代わり中国に侵略するだけだったでしょう。当時はともかく力のある国が力の無い国を支配するのが常識だった時代です。アメリカ自体もフィリピンを植民地にしていましたし、オランダはインドネシア、フランスはべトナムです。
こうした帝国主義時代の問題の根幹は人間の独占欲や意地にあるように思えます。このような時人間は「譲れない」と突き進む傾向があるのです。結局、日本は戦争に負け、300万人の戦死という大きな犠牲を払いました。
アメリカは経済封鎖で日本を追い詰め、日本軍はパールハーバーを奇襲しました。乗せられたのではなく、自ら相手の土俵に乗ることを選択したのです。よくアメリカの謀略に乗せられたという人もおられますが、言い訳に過ぎません。しかし「経済封鎖」と「戦争」とはどこが違うのでしょう。 経済封鎖で人を餓死・凍死させることは簡単です。鎖国政策をとり、貿易が無い時代には自給自足でしたが、近代国家ではそうなりません。国民の生活に欠かせないものが途絶えたら、それは死を意味します。 原油、鉄鉱石、レアアース、レアガス、上げればきりがありません。そして経済封鎖で最初に死ぬのは国民の内でも弱い立場の人々です。それは子どもや老人を指します。目の前の家族や子どもが餓死するのを見るぐらいなら、いっそ自分が戦争に行って死ぬと覚悟を決める親は今でも多いと思います。結局、残酷さや非人間性は「経済制裁」での「戦争」でも同じなのでしょう。 このように経済制裁はあたかも平和的な手段のように見えますが、「経済」という力を利用した暴力ともいえます。戦争も「軍事力」を利用した直接的な暴力です。二つの国があり、お互いに「正しい」と言っているとすると、どちらが正しいかは絶対に判らないのです。太平洋戦争の時には、アメリカは日本が間違っていると言い、日本は自分たちは仕方がないと言いました。現在、日本は北朝鮮が誤っていると言い、北朝鮮は仕方がないと言っています。それぞれ「自分が正しく、相手が間違っている」と言っているだけで、本当に正しいのがどちらかは決まっていません。近年のイラク戦争でもそうでした。ブッシュはアメリカが正しいといい、フセインはイラクが正しいと言いました。そしてテロはイラクとは関係なく、大量破壊兵器もイラクにはありませんでした。何が正しかったのでしょう。 それでも力の強いアメリカの方が弱い方の国に爆撃をし、住民を殺し、政府を作りました。大量破壊兵器が無くても事実上イラクを占領しています。もしアメリカが「正義」を元にしていて「力」で占領していないのなら「誠にすみません。大量破壊兵器はありませんでした、思い違いでした」といって撤退するべきだったでしょう。 私は経済制裁は戦争と同じ行為と思っております。真綿で首を絞めるのも爆弾を落とすのも同じだろうと思います。人間には悔しいことがあります。我慢しても我慢できないことがあります。しかし、「平和」というのはそれを乗り越えて妥協する事を意味しています。 もし第二次世界大戦直前、あれほど苦労し、満州で多くの日本人の血が流れたことを過去の事として諦め、中国から撤退していたら太平洋戦争は起こらず、300万人の人の命は助かったでしょう。しかし、満州で流された血を強く意識するとその何万倍の無関係な人が死ぬことは歴史的に明らかです。 国を守る、国の名誉を守るのは大切なことです。でもそれは「国」全体の名誉というより日本人、一人ひとりが気高く誠実であることで獲得するものではないでしょうか。北朝鮮が暴力で「拉致」をしたことに対して、日本が経済という暴力で北朝鮮に圧力をかけたならばそれは相手の土俵に乗るだけです。 哀しいのはいつも庶民です。罪もない庶民が錯覚と指導者の意地の犠牲者になるのです。 今の政権は罪の無い庶民に対して何をしてくれるのでしょう。それとも庶民が学び、自らの手で自分達の為に尽くしてくれる政権を建てる時が来るのでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月17日記述 |
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【ねじれ国会は正常であり、解消は自然となされるもの】第309回 |
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新聞記者はそれぞれが書く記事で多くの人に影響を与えることから、用語の使い方については慎重を期すのが普通でした。私のような教養の乏しい環境に育った人間は、新聞を見て正しい用語の使い方を学んだものです。そのマスコミは最近「一方的な空気」を作るために奇妙な用語を使います。その一つが「ねじれ」です。「今度の参議院議員選挙の最大の争点はねじれの解消」とニュースで言っておりますが、これはマスコミが伝えるべきことでしょうか。 そもそも、ねじれた国会が良くないと発信することは、選挙という国民の選択をマスコミが否定していることに繋がり、ねじれを解消しようということは衆議院に倣って参議院も与党が過半数を占めるべきであるとマスコミ自身が誘導していることになります。ましてや選挙を前にして「ねじれ解消」となると、衆議院が自民党だから参議院を自民党に入れるように視聴者に呼び掛けていることになってしまうのです。本来のマスメディアのあり方をもう一度考えるべきでしょうし、国民も報道の内容をしっかりと精査する必要があります。 戦後は両院で与党勢力が優勢となる状況が長く続いてきたことから、参議院の存在理由が薄くなり参議院を軽視する風潮を作り出していました。しかし、新聞、テレビ、ラジオ、インターネットを通じ、マスコミが安易な国民を誘導できる環境が整い、かつ政権が安定しない昨今では参議院の重みが認識されるようになってきました。このような状況の中で、与党の参議院での過半数奪還は国会正常化どころか国会危機状況を生み出すのかもしれません。リフレ派の政府は一方的な政策しかとらず、党議拘束が強く議員が単なる投票機械になっている現在、両院での与党過半数確保は日本経済を不健全な方向に導くように思えてならないのです。日本が世界に最たる内需国家であるにも拘らず外需依存の政策をとっていることは、GDP比で20%にも満たない輸出系企業を優遇し、それ以外の業種を見捨てているとしか思えません。 与党の思いのままにならない参議院があるからこそ、常に行政は国会に配慮をし、妥協をして議案審議を進めていくことができるのであり、これこそが民主主義政治の正常な姿でしょう。現在参議院で過半数を占めている野党も全て反対ではなく、譲歩して話し合うべきであり、与野党の両者が相まってこそ、二院制の効果が期待できるのです。今の「ねじれ国会」こそが本来の「正常」な姿であることを多くの方に認識してもらいたいと思っております。 繰り返しになりますが、もともと「ねじれ」が悪いのではなく、各党の党議拘束が強く、議員が単なる投票機械になっていることが問題なのです。憲法の精神からすると、衆議院と参議院の考えが違って当たり前であり、議員ひとり一人が国民の代表として正しく行動することが大切ではないでしょうか。もしも各局の解説員が批判するとしたら、まず「ねじれ」という「異常事態」と思われる用語を使わないように呼び掛け、その上で「せっかく、日本も衆議院と参議院が別々の考えを持てるようになり、二院制の意義がでてきたのだから、議員一人ひとりが党議に拘束されることなく議論をするべきだ」と言って欲しいものです。そのぐらいの判断能力によって報道がなされないと、その意義すら認められません。ねじれ国会こそ国民が真に求める政策が通過する環境なのですから。 <サイト管理人> 2013年 7月18日記述 |
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【資格試験を受けることの意味について考える】第310回 |
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私は30歳の頃から資格試験を受けるようになりました。生活の優先順位としてはまず仕事、次に資格取得の為の学習、その次にゴルフや釣り、写真といった趣味、最後に他者との付き合いといった感じになっています。ですから、基本的に仕事が終わると資格試験の学習を行い、決まったスケジュールをこなしてからが自由な時間となります。実に窮屈と思われることでしょうが、慣れてしまえば学習をしない毎日の方が落ち着かない環境となっています。 これまで私が取得した資格は色々とありますが、プロフィールで記述しているものは一部分です。そこで今回は多くの方が受検される宅地建物取引主任者試験を念頭において考えてみたいと思います。 私は全ての試験勉強を独学で行います。スクールや通信教育には余分な費用がかかるということもありますが、スクールでは自分の時間が束縛されることや、答えや答え方を押し付けられる為、通わないようにしています。大切な内容よりも試験の要点を教えられては後の応用力に差が出ると考えてのことでもあります。また、インターネットで多く見られる合格方法などというものも一切見ません。それは他人が他人なりの能力に合わせて行った学習方法だからです。つまり、他人の論理は一切排除して自分の論理の間違いを修正しながら学習することに意義を見出しております。宅建では400時間きっちり学習を行いました。本業ではありませんし、全く知識が無いところから入っておりますので当然の時間といえます。50時間で受かるであるとか、この問題集を一冊解けば受かるといった話には決して乗らず、最も売れている大手出版社の参考書の前書きを参考に学習スケジュールを組み立てた結果、400時間の学習の必要性を感じたのです。半年程度学習期間を設けましたから、一日約2時間程度自分の時間を割きます。土日を除けば仕事が終わってからの学習になりますから、今日の分は明日に回そうという気持ちも少々生まれますが、それを行うと眠ることが不安になることもしばしばです。ですので毎日きっちりと学習を行うことを心がけました。結果として一回目の試験で合格をすることができました。他の資格試験も同様に一回で合格しております。 なぜ一回目の試験で合格をすることにこだわるのでしょう。一回で受からないということは学習時間を満足しているのならば学習方法を間違えていたことが証明され、その年の試験で使った参考書や問題集を捨てることに繋がります。同じ参考書を用いてもう一度学習をしても結局同じ結果しか生み出さないでしょう。ですから全ての環境を変えて次の年の試験に臨まなければならないのです。これは実に大変な労力を伴います。失敗の後の代償を考えれば一回で合格する方が余程時間的にも精神的にも楽なのです。ですから徹底して一度で受かる為のスケジューリングを行い実践するのです。 ちなみに、資格自体は対価を生みません。稼ぎとなるのは資格ではなくキャリアでありスキルなのです。当たり前のことです。私は資格取得の為の講師なども行っておりますが、資格自体を直接用いた業務はほとんど行っておりません。ですので、金融に関しても証券に関しても不動産に関しても素人です。資格は目的ではなく手段であり、何かをするために足りない権利や知識を補うために必要なパスポートといえるでしょう。しかし、資格を取得するだけでは意味がないと言い切れるでしょうか? 資格を取得する為の試験は自分の論理が通用しません。特に民法などは自分の良心とは裏腹な内容のものも多くあり、感覚で回答をしても正解には至らないのです。また、過去の判例に従って回答をするような問題に関してはなおさらです。ここで言いたいことは法律論ではなく、自分の感覚を如何にして排除するか、自分ではなく相手ともいえる法律や決まりごとを素直に受け入れられるかということです。 多くの人は自分の感覚かつモノサシで生きています。自分が常に正しく、自分の正義感にそぐわないものが悪であるという判断をしてしまいます。もちろんそれらの全てが否定に値するものとはいいませんが、世の中の裏で機能している法律などにはそぐわないケースが多々あるのです。ですから資格試験を受ける為に最も重要なエッセンスは自分の論理を捨てて、各種法規を受け入れる純粋かつ真摯な姿勢が求められるといえるでしょう。これは株式投資でも大学受験でも通じるテーマではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月19日記述 |
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【政府ではなく国会主導の政治を行う為の族議員】第311回 |
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族議員の存在は1970年代から顕著になったようです。これは政府提出法案の国会提出前に党政務調査会で法案の事前審査を行うことを自民党内の手順として確立されたことと、それ以前のように潤沢な予算を配分することが困難になったことにより、党内での調整が必要とされた為でしょう。そのような中、田中派は建設や郵政などの族議員を多く抱えていました。また、私の尊敬する田中角栄は派閥内の議員を族議員として養成し、さらに族議員をあらゆる政策分野に配置して陳情を処理するシステムを作り上げました。大きな利権に結びつく部会には新人議員の入会者が殺到し、人気のある部会や調査会には主流派閥が群がり、非主流派閥は不人気部会に追いやられたと聞きます。 官僚や特定の業界が反対する政策について、政府が族議員を味方につけられた場合、改革推進の原動力となってきた事実があります。例えば、1980年代の国鉄改革においては、中曽根康弘と連携した運輸族の働きが国鉄民営化の推進力となったのです。つまり、国鉄の民営化は族議員の力によって達成されたといっても良いのです。 つまり、族議員は日本の政治行政における政策決定過程において、合意形成の促進に貢献してきたのです。族議員は専門的知識を獲得しながら、官僚との密接な関係を築くプロセスで存在感保っておりました。70年代のオイル・ショック以降の経済成長の減速は官僚主導の政治を揺るがし、結果としてバラマキ政策が財政的に困難となり、財源確保をめぐる省庁間の対立が激化したことから、官僚側が政治決定をする際に与党議員(族議員)に頼る必要性が生じたことも裏にはあります。ここで官僚と深い関係を維持してきた族議員が政権との間で調整を果たす役割を果たしたのです。具体的には、自民党内の政務調査会において、官僚と政権の利害調整を図り、政治行政の合意形成を促すといった感じです。このようにして族議員は、間接的にではありますが、国会の合意形成に大きな影響を与えてきたのです。 日本の経済成長が右肩上がりであった時代では、道路族やダム族と呼ばれる族議員集団は、省庁との連携を図りながら、選挙区において道路建設やインフラ整備の大型公共事業を実現してきました。しかし、90年代から始まった行政改革によって、与党内の党首が大きな影響力をもつようになると、族議員の相対的な重要性は低下してしまいました。とりわけ、牽引型リーダーシップを発揮した小泉首相は、内閣法案を国会に直接提出することを繰り返し、族議員の無力化を進めました。そして族議員を抵抗勢力という言葉で揶揄し、その存在を否定しました。また、民主党政権は政治主導を旗印に与党の一元化をはかり、国会の事前審査会を廃止しました。その理由は、政調会が利権の温床であり、官僚による政治家操作の舞台となっていることを危惧したからでしょう。これにより、この場での活躍を期待された族議員の影響力は低下したのです。 官僚との関係を築きながら、専門的知識を獲得した族議員はその能力を誠実に活かせば無能な政府首脳に代わって優れた政策を提案できることでしょう。そして、官僚以上に専門的知識を有する族議員は有能な官僚からも信頼され、国会の事前審査制が設ける政策調査会においてイニシアティブを発揮し、合意形成を誘導できると思うのです。民主党が進めた政治主導改革によって事前審査制度が廃止されたので、現在、族議員が影響力を及ぼせる範囲は狭まっておりますが、各分野のスペシャリストである族議員の存在は今こそ求められるのではないでしょうか。問題は議員に誠意が存在するかどうかであり、無用な予算を確保するといった利権政治から脱却することではないでしょうか。族議員の養成や、陳情を処理する仕組みそのものはすばらしいと思うのです。現在の国会議員の大半は専門性が無く、自ら主導して議員立法をするだけの力など無いといってよいでしょう。これは与党、野党を問わずのことです。 <サイト管理人> 2013年 7月20日記述 |
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【政府の強迫的なアベノミクスと株価の関係について】第312回 |
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以前のコラムに書いたことですが、金利はマネーサプライに大きな影響を与えます。経済学の基本に以下の定義があります。 「M×v=P×y」 M:マネーサプライ v:貨幣の回転速度 P:物価 y:GDP 一般的に景気が良くなれば金利が自然と上昇します。しかし、金利と株価の関係は非常に難しいもので、一概には何とも言えないというのが私の答えです。なお、私がこれまでに述べた日本の経済問題は貨幣の回転速度が不足しているという点が多分に含まれています。故人の小室直樹先生が言われたように、日本にはマネーサプライは十分にあり、GDPを支えるだけの生産力やサービス力があるにもかかわらず、貨幣の流れが異常なのです。日本人の倹約精神があってのことのようです。これは過去15年を振り返っても確かでしょう。日本人には資本主義の精神たる倫理の部分が欠損しているということなのですが、日本は資本主義と社会主義が混在している国ですから個人に倫理を求めても無理があるように感じております。 本来ならばマネーサプライが上がると物価も上昇し、期待インフレ率も上昇するため名目金利も上昇するという関係が成立します。しかし、ゼロ金利政策を進めた日本はこの15年間定義そのものが成り立ちませんでした。 アベノミクスで行おうとしていることは、マネーサプライを大幅に増加させ、円安主導による国内流通物価の上昇+金利の安定です。最初に書いたMとPを大きくするものですが、果たしてv:貨幣の回転速度(設備投資や個人消費)とyに影響するのでしょうか。貨幣の回転速度が上がらなければGDPの押上げには繋がりません。正常なGDPの押上げとは個人も含めた国内資産が経済を回すということなのですが、政府はインフレ期待や円安、株高を理由に多くの個人を不安におとしめることから強制的に消費を促そうとしているように思えます。アベノミクスとは国民のへの強迫でしょう。 なお、金利商品と日経平均株価の問題ですが、私は金利商品の代表である債券相場と株式相場は間逆の2パターンが成り立つと思っています。まず、株価は景気の先行指標であり、金利は景気の流れから上昇することを考えれば遅行的指標であるといえます。よって、両者には時間的な差があって当然です。ただ、景気の上向いた状況では株価も金利も互いに上昇するケースが見られます。景気が良くなれば企業収益も伸び、それらを織り込む株価は上昇していることとなり、好景気を受けて金利も上昇します。資金需要が増すためです。逆に景気が悪くなれば赤字企業も増え、株価も下落し、それに伴う評価額の減損処理、そして金利も下落します。 しかし上記とは逆に、金利が上がれば株価が下がるという考え方も成り立ちます。これは、金利も株式も金融商品として見れば容易に想像がつくことです。株と債券の両方に投資をする場合、金利が上昇すれば債券の需要が高まり、資金が株から国債などの金利商品に移行するからです。ですので、反対に金利が下がれば高い利回りが期待できる株式市場に資金が流れ株高をもたらすことになるのです。 以前、量的緩和政策を解除する方針が当局より発表されましたが、その後金利商品への資金移行が警戒され、日経平均株価が大きく下落する局面がありました。ただ、ゼロ金利政策でも株価が上昇しなかった事実もあります。 こうして書いているとまるで意味不明なことの羅列になりますが、総括すると、長期的な視点では金利と株価は比例関係にあるようで、一時的に反比例になることもあります。ただ、金利が異常値を示した場合(大幅な円安、債券価格の大幅な下落等の場合)は記述した2つのパターンすら成り立たないように思うのです。 <サイト管理人> 2013年 7月21日記述 |
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【宗教的なまでのインフレ期待と恫喝について】第313回 |
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政府日銀のインフレ目標政策は「インフレになる」であるとか「物価が上がる」と一般の国民全体に信じ込ませることにあります。これを信じ込ませることができれば、消費者はモノを安いうちに買おうと思うでしょうから、結果として消費が増えることが考えられますから、企業の利益が増えるに違いないという皮算用です。企業の利益が増えれば、労働者の給料も上がるに違いないというのは理想論です。リフレ派の人々はインフレ期待を煽り、インフレを信じて行動した者は救われるという宗教的ロビー活動にいそしんでおります。現金を持っていても物価が上がれば目減りするであるとか、小額であれ今のうちに株を買うべきである、家を買うなら今であると国民を脅しているだけなのです。 確かに、金融市場は思惑で動きますから、為替にしても株価にしても、実体経済とは全く異なる理由で乱高下することがよくあります。というのも、欧米の金融機関やヘッジファンドの運用担当者からすれば、株価が上がるにしろ下がるにしろ、市場が大きく動くことを望んでいるからです。彼らは市場が大きく動かなければ大きく儲けることができないのです。ですから、彼らは相場が大きく動く材料にアンテナを張っていますし、一旦市場が大きく動き始めれば、積極的に動き出します。ユーロ危機以降、大きく動きかつ流動性が高い市場が無かったことから、アベノミクスによる金融緩和は彼らにとって絶好の投資材料に映ったことが現在の日経平均株価を作り上げたのかもしれません。 ただ、国民の消費活動が思惑だけで動くことは考えにくいでしょう。特に日本ではなおさらです。資産のほとんどを株式で持っているような人には別の話となりますが、大多数の国民は株に投資をしていませんし、投資していたとしても数百万円程度が大半でしょう。 リフレ派の人々はインフレになれば賃金が上がると言い切ります。確かに、賃金が上がれば消費は増える可能性があります。しかし、今の先進国では構造的に賃金が上がりにくい状況になっているのです。大きな原因のひとつが、2000年以降の資源エネルギー価格の高騰にあります。これによって、先進国の企業および国民の所得は新興国に流出し、その額は拡大し続けてきました。例えば日本の場合、2012年には所得の流出額が18.9兆円と過去最大となっています。エネルギーは価格にかかわらず輸入せざるを得ないわけですから、国全体での損失が大きくなるのはもちろん、エネルギーを使う企業にとっても負担が厳しくなります。企業の売り上げが伸びても、エネルギー価格が上がることで、人件費に回す資金が削られるのです。リフレ派の人々は何としてもインフレにするのだと言いますが、仮に為替インフレを起こすことができたとしても、大多数の労働者の賃金が上がることはありません。物価だけが上がり、賃金が上がらない社会がやってくるだけのことです。デフレ以上にひどい時代がやってくることは必定です。強い円と緩やかなデフレは日本経済が世界で最も信認を得ていることを示していました。自国の通貨が下落して喜ぶ現総理は国を売ったといっても過言ではないでしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月22日記述 |
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【公的債務の議論とは金融危機の議論であるべき】第314回 |
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日本国の借金は1000兆円といわれていますが、公的債務の議論では、日本の国債保有者の多くが日本人なので基本的に問題ないという見解も聞かれます。この点については、公的債務問題が財政破綻の可能性を勘案してのものなのか、金融危機の可能性を想定してのものなのかで前提は大きく変わってくるでしょう。私は日本の公的債務がさらに増大したからといって、ただちに日本が財政破綻を引き起こす可能性は低いと考えています。金融機関も含め、市場関係者の中で直接的な財政破綻のリスクを気にしている人はほとんどいないからです。問題は国際的に日本の財政が危険であると認識され、債権市場で日本国債が大量に売却される点にあるでしょう。 国債の現物は日本人が保有しているとしても、先物市場には外国人投資家が多数参加しております。また新発の短期債は外国人の保有比率は20%近くになっております。ヘッジファンドなどが先物市場で一気に売りを仕掛け、現物保有者の一部がこれに追随すれば、国債の価格をあっという間に下落させることができる水準です。もちろんこれだけで日本経済を破綻させることはできませんが、国債価格の下落は金融機関にとって大打撃となり、金融市場は大きく混乱するでしょう。市場関係者の多くが口にする公的債務の問題点はこのことを指しているのであり、金融危機の可能性を心配しているのです。 つまり、直近で問題になるのは公的債務そのものではなく、公的債務リスクが存在すると市場から認識されることです。その意味で公的債務が各国の比較でなされることや時系列的な比較で突出した水準にあることはマイナスに作用するでしょう。当たり前の話ですが、財政再建は日本にとって避けて通ることができない課題なのです。 増税を肯定する私ですが、これ以外にも財政再建を実現する方法はあります。カナダでは1990年前半に政府債務のGDP比が100%を超え、財政再建を決断した経緯があります。具体的には緊縮財政で景気に悪影響を与えないよう、成長率がプラスになるタイミングを見計らって、支出の抑制を断行したのです。結果、90年代後半には財政収支がプラスに転じ、その後は政府債務比率が減少しました。 高齢化が進み、極めて重い社会保障負担に苦しむ日本と単純に比較することはできないかもしれません。しかしカナダの事例は、財政再建を実現するには、順調な経済成長が何よりも重要であることを示しております。日本でも資産バブル崩壊以後、唯一、高い経済成長を実現していた2005年から2007年にかけては一時的に公的債務比率の増加が止まっていました。この事実は、今後の財政再建を考える上で、非常に有益な示唆を与えてくれるように思うのです。財政出動ばかりが政策ではなく、緊縮財政をとること、そしてそのタイミングを計ることが大切であり、今はその過渡期にあるのではないでしょうか。金融主動の経済対策を続けることは日本国債にリスクが生じていると世界的に認識されかねません。見せ掛けだけの景気回復ではなく、景気回復の兆しが現れた時期に素早く構造改革および行政改革を伴う緊縮財政を政府が採れるかにかかっているのではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月23日記述 |
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【流行語大賞に値する「ゴキブリ決算」という造語】第315回 |
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兜町では「ゴキブリ決算」という造語が生まれました。5期前にはサブプライムローン債の破綻からリーマンブラザーズの倒産。その後、円高傾向と大震災で赤字から脱却できなかった企業が、昨今の円安の恩恵を受けて黒字に転換した企業のことを指します。大手企業は他の上場企業の株式を持ち合っていますから、有価証券の含み益が利益に寄与しており、時価総額、ひいてはファンダメンタルズ指標もあてにならない状況になっています。PERが相場押し上げの主役となってもいますが、先を想定しての株式トレードには疑問が残る今日この頃です。 確かに1ドル70円台の円高に苦しんできた自動車業界にとって円安の効果はあるでしょう。特に国内生産車の輸出比率が高いマツダは国内生産の8割を輸出しております。同社は円高で赤字が続きましたが、円安で5期ぶりに黒字転換した代表的な企業です。トヨタも同じく国内生産車の半分が輸出ですが、連結営業利益を5期ぶりに1兆円の大台に乗せました。ソニーも5期ぶりに最終黒字となりましたが、からくりは米国本社ビルなどの不動産や子会社の株式売却、株高で金融子会社の利益が増えた為です。主力のテレビ事業は9期連続の営業赤字のままであり、企業の利益体質は改善されておりません。 なお、ソニーはドル建てでスマートフォンなどの部品を調達しており、製造コストの低い海外で生産し、輸入販売しております。1ドルが90円を超えると1円の円安で営業利益は30億円のマイナスになることから、円安は歓迎とはいえない状況です。なお、東芝も円安で海外工場から逆輸入する液晶テレビやパソコン事業が打撃を受けております。1ドルが90円を超えると、1円の円安で営業利益は15億円目減りする計算です。さらに、家電量販店や牛丼チェーンのようなデフレ恩恵企業も円安で苦しい状況が続いております。素材の代表格である新日鐵住金は旧新日鐵以来最大の最終赤字に転落し、造船業も不振が続いております。 輸出企業は円安歓迎しておりますが、本業で収益改善した本物と、見せかけ組を精査する必要があるでしょう。内需系企業は個人消費の持ち直しを収益アップに繋げられる会社と、ただ為替差益のマジックに酔っている会社があります。知識の乏しい一般人は円安インフレになれば経済は回復すると思い込んでいるようですが、円安の弊害とインフレのもたらす架空の経済好転を真摯に考えなくてはならないでしょう。私の調べる限りでは日経平均採用銘柄のうちで1/4程度はゴキブリ決算の対象企業に思えます。2014年3月期の決算でその真意が問われることが必定です。そのようなワケアリ企業には投資をしないことが大切です。株価がPBRベースで1.5倍程度になっている企業が多い中注意しなくてはならないことはゴキブリ決算企業の増資懸念ではないでしょうか。 <サイト管理人> 2013年 7月24日記述 |
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【2013年参議院選挙が終わって考えるべきこと】第316回 |
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学校の教科書は反日的な日本人が書いているので、日本の戦争はすべて侵略戦争であると記述されています。ただこれは愛国心の問題とは別であります。しかし少々おかしいと思って日本擁護の歴史の本を読んでみると、日本万歳、すべては外国が悪いと書いてあることから、どちらが正しいのかさっぱりわからないのが現状です。「中立的に事実を書いてある本はないのか」と知識人に聞いてみても、「歴史に中立など無い」と言われてしまいます。しかし私は知りたいと思います。日本人が書くなら少しは日本寄りであっても良いのですが、おおよそは正しい歴史を知りたいのです。それは私が日本人であり、自分たちの祖先のしたことを正しく理解したいからです。 NHKなどを非難している私ですが、大河ドラマなどを見ても歴史的に比較的忠実です。それは時代考証がしっかりとなされているからであり、韓国の歴史ドラマのフィクションとは一線を画します。ここで問題にしたいのは韓国のドラマは歴史モノとして捉えるのではなく娯楽として捉えるべきということです。決して否定するのではなく、作りものとして面白ければ作品としては成功しているのです。チャングムの誓いにしろファン・ジニにしてもそうして見ればよいと思っています。 私は以前より歴史的な事実を確認する為に、このコラムを書こうとしています。これまで私が勉強したことを総動員して、事実に忠実に、中立的に書いてみたつもりです。私たちの祖先のしたことを最終的に確定して、その結果が良くても悪くても、それを受け入れ、いつか自信を持って日本について語りたいものです。安易なネット右翼的な内容にならないことを留意してもおります。最近はインタネットの右的な内容ににすっかり洗脳されてしまった人が多くなりました。しかし、そういう人に歴史的事実を問いでもたいした答えは返ってきません。明らかに公平性に欠き、歴史的事実を知ることから逃げているのです。残念なことでもあります。そしてグローバル化した社会では歴史と経済は切っても切れない関係にあることも忘れてはなりません。 現状は選挙も終わり、これから3年は平穏な毎日が続くものと思われます。選挙結果というものはそれが自分の希望とどういう関係にあろうと、民主主義ではそれで良いのです。しかし、今こそ原発、エネルギー、景気、それに歴史をジックリ勉強して次に備えるタイミングでもあるのかもしれません。私のように比較的反政府的な立場であった人間も一度頭の中をリセットして考えるべき時に来ているように感じています。民意は大切にすると共に、選挙直後から政府・与党を非難するのではなく、その中身をしっかりと精査しながら世情や歴史を眺めてみようと思っております。 <サイト管理人> 2013年 7月25日記述 |
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【脳科学万能主義の危険性について考えてみる】第317回 |
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現代人の多くは、思考及び記憶は、言葉だけに依存しているという間違った認識があるのではないでしょうか。それが、昨今の考えることの根本を歪めているように思えてなりません。実はこの過ちを最近の脳科学は実証しているのです。記憶には、陳述記憶と非陳述記憶があり、それぞれを担う脳の場所が違うことが明らかになってきました。つまり、人間の思考には言語と形によるものがあるのです。そして、基礎的な思考は、どちらかといえば形による思考が役割を担い、人間的な考えは言葉による思考によって役割を担われています。 人は生きる為に必要となる記憶や思考は形で覚え、生きていることを現す記憶や思考は言葉で作っております。しかしその捉え方を安易に行うことは問題があります。形にはセンス、言葉には思い込みが介在します。例えとして言葉について言えば、10進法で「8」という数は"8"と表記され、8進法に直せば"10"2進法にすると"1000"になります。繰り上がりのカウントを変えるだけで見え方が異なるのは言葉(言語)のトリックとも言えるものであり、思考そのものの妨げや偏った思考を形成させてしまいがちなのです。そして、人は自分にとって理解しやすい言葉を自然と選択する傾向があります。その傾向は自分の好みとなり、思想となるのです。つまり、現代を生きる人間の大半はテレビや新聞、インターネットなどによる多くの情報から自分にとって受け入れやすいものだけを取り入れ、それ以外を自然と排除しているのでしょう。正しさよりも好みで生きる道を選べば、先の大戦を起こした二の舞を踏みかねません。 次に学習と記憶についてですが、学習というものは記憶だけの問題ではありません。ここに脳科学の限界があると思うのです。つまり、学習の根底にあるのは意志となり、その意志自体を生み出す脳の場所がどの部位であるかが明らかにされない限り、学習の真の意味は理解できないでしょう。よって、その限界を前提として脳科学を教育(自己啓発)の中に取り込んでいく必要があると思います。だからこそ脳万能主義に陥るのは危険と考えています。脳が主に担当しているのは認知の部分です。認知というものは思考の入り口です。そして出口である意志の決定には、自己の主体的な働きが必要になります。脳の重要な役割が明らかになるにつれて、脳科学万能主義のような思想を流布する者まで現れてきています。しかし、脳は所詮人間の一部分です。結局脳を肉体の一部と捉えることによって脳の発育に沿った生涯的な自己教育が可能となるのではないでしょうか。 私達は脳科学に認知心理学や発達心理学、そして、学習心理学を繋ぎ合わせ、脳がどのように発育していくのかを解明して学習といった自己啓発的な生涯教育に取り込んでいく必要があると思っています。これは株式投資を行うに際しても共通の問題でしょう。 <サイト管理人> 2013年 7月26日記述 |
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【現世における輪廻というものを少しだけ考える】第318回 |
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人間は何か悪いことが起こると良いこともあり、良いことがあると悪いことが起こる傾向がありますが、これは感情論に過ぎません。車を運転していると赤信号が続くことがありますが、それもせいぜい10分ぐらいでしょう。そしてその後は青信号が続こともしばしばです。人は自分にとって都合の悪いことを記憶しがちですから、思った以上に赤信号は少ないケースもあり、思った以上に青信号であったりもします。このことはドライブで遠出をする際になど、実際にカウントしてみると解ることです。そうした際はおおよそ主要道路(国道や県道)を通りますから、青信号の方が圧倒的に多いのが結論なのです。 ただ、徹底的に運が悪いこともあります。そんな時には「仕方がない。これも因果かと思って諦める」必要があるでしょう。全ては状況が決めることなのですから、どうしようもないのです。「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、まさにその通りなのかもしれません。個々の人間が出来ること、それは「今日一日は何とか頑張れる」ということであり、日々に感謝して寝床に着くことです。明日が来るかどうかは起きてみなければ判らないことです。よく「人事を尽くす」といいますが、やれることはやっておくという意味なのでしょう。しかし全ては人間が仮に決めてやっていることでもあります。 こうして考えていくと若いというのは辛いことだと感じます。まだこの先長い未知の将来がありますし、子供や親、兄弟を含めた家族もおり、自分一人の身とはいえないからです。だからこそ健康でいたい、みんなに迷惑をかけたくないという感情が生まれるとも思います。しかし、歳をとるとだんだん責任も無くなってくるので、おおよそは気軽になるでしょう。今日一日が何とかなれば良い、それで十分なのだという感情が一般的に先行していくはずです。歳をとると丸くなるというのはそうした部分から来ているのかもしれません。時には膝が痛いこともあるでしょう。腰が痛いこともあるでしょう。しかしそれさえも気にならない状況といったらよいでしょうか。社会福祉制度や医療も細分化された現在を客観視すれば、100年前と比べれば随分と楽な人生を過ごせていると思います。問題は情報の乱立による精神的な苦痛が付きまとうことかもしれません。 人生についてよくよく考えてみたり毎日というものを考えてみると何やら「繰り替えし」が目立つように思います。朝ご飯、昼ご飯、お風呂、洗面、トイレ、パソコン、インターネット、テレビ・・・どれもこれも繰り返しなのです。繰り返しも10回か20回なら良いのですが、人生を始めてからずっと繰り返していることもあります。そもそも人生とは繰り返しなのでしょう。体力的に強いものが生き残る世界ではありませんから、それが現世における輪廻なのです。しかし、人生を一日で区切ると繰り返しも減ります。ご飯は3回で、風呂も1回です。それなら新鮮で飽きることもないでしょう。人生はその日の朝に始まり、寝る時に終わることになります。しかも、歳を取ると遠い将来を考えなくても良いわけですから、回りの人に迷惑をかけることも少なくなるでしょう。そもそも病気が怖いのは今日が怖いのではありません。明日が怖いのです。だから明日のない人生には病気は怖くありません。今日一日・・・そう思うと何か自分の身の回りを眺めたくなる今日この頃です。 <サイト管理人> 2013年 7月27日記述 |
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【小室直樹先生が言及した日本教について再認識する】第319回 |
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日本人の勤勉さの裏には日本教が関係しています。今回はこの日本教というものを少し考えてみたいと思います。 日本教とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平氏による造語です。そして日本教について詳細に解説を加えてくださったのは私が師と仰ぐ小室直樹先生です。小室先生は学問に対する情熱や徹底性をもった方で、東大における小室ゼミから多くの有識者を輩出しました。橋爪大三郎や宮台真司らです。 さて、日本教の中身ですが、簡単に言いますと「日本に入ってきた宗教の全てが日本教になる」ということです。仏教では戒律を重んじますが、比叡山延暦寺の開祖ですら戒律を排斥した過去があります。儒教についても同様です。韓国では儒教式葬式というものがありますが、日本は儒教における先祖崇拝の部分のみをピックアップして道徳として利用しています。 なぜそうなるのでしょうか。日本教を作っているのは現代風に言えば空気でしょう。仏教では心理、悟りに重きをおき、儒教では政治制度や人民の幸せを高めることに重きをおきます。しかし日本教の日本人は国民の好みが一番大事であるから、日本人が日本に住んでいく上で住みやすい環境を整えることが大事であり、宗教は二の次になってくるのです。つまり、神よりも日本人の方が偉いといった諸外国とは逆転の現象が起こっているのです。人間が大事であるといった思想が第一にあるのです。 一神教では神が人間よりも先に存在しており、人は神によって作られたものになります。これに対して日本教では日本人が神に対して注文をつける形態をとります。神や仏は人間の為に存在するという考え方とも言えます。表面的には神仏を崇拝しています。そして困ったときにはそれにすがる弱い国民性なのです。よって、日本人の場合行動規範がありません。だからこそ生まれた日本教であり、多くの人々が無宗教を自認しているのです。こういう理由からイスラム教のような戒律に厳格な宗教が日本に定着することは未来永劫ないでしょう。全く正反対の性質を有するからです。 結局いろいろな価値観や哲学、宗教がありますが、自分にとって都合のよいものを取り入れ、結論としてそれを信じるのが日本教たる日本人なのです。ですから支持政党も安易に変えてしまうのです。そして政党自身も政策に一貫性を持たせることが出来ず、マニフェストと実際の政策が正反対になることもしばしばなのです。 では日本人の勤勉性はどこから来るのでしょう。儒教には勤勉という思想がありません。政治的指導者が命令することで就業しますが、日本人の場合自ら就業を求めます。断定も無く、戒律も無い環境でありながら自然と生まれた空気が勤労性を生み、勤勉性を生んでしまうのです。結果としてプロセスを説明することは難しく、合理的でもありません。しかし、資本主義社会ではプライオリティを発揮しています。とても不可解な環境におかれているのです。 大半の人々は日本教とその空気を自認しないまま生涯を終えます。しかし、日本人の豹変性や議論の前から結論が出ている(議論の場とは別の場所で議論される)ことを考え、個々人が自らの思想を持って、かつ論理的に物事を考えるようにしなくては悪い面の日本教から逃れることは出来ないでしょう。全体としてロジカルに物事を捉えられない、歴史的にも経済的にも一部分のみを切り取り議論とも言えないことを平気で口走る低レベルな国民が多い状況を一日も早く打破する必要があるでしょう。しかし、日本教というものは2000年以上の歴史を経て作られた一種の宗教ですから、それが適うとは思えないのです。よって、これから先日本人は合理的な一神教の資本主義国家と対等に渡り合うことなど出来ないのかもしれません。 <サイト管理人> 2013年 7月28日記述 |
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Column & Blog 8
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