Column & Blog 7


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[No,1〜No,39] [No,40〜No,79] [No,80〜No,119]
[No,120〜No,159] [No,160〜No,199] [No,200〜No,239]
[No,240〜No,279] [No,280〜No,319] [No,320〜No,359]
[No,360〜No,399] [No,400〜No,439] [No,440〜No,479]
[No,480〜No,***]

 No,240  【人間の錯覚から考察を加えてみる】
 No,241  【日本と日本人:日本の気候風土を考える】
 No,242  【投資は楽観的な時こそ危険のシグナル】
 No,243  【無能な首相の政策たるアベノミクスの評価】
 No,244  【日本教の日本人と生活が世界に受入れられるか】
 No,245  【矛盾から始まる成長性や学問について】
 No,246  【知識を得る程に恐怖心がかさむことについて】
 No,247  【今更報道されるシェールガスと石油の枯渇】
 No,248  【秩序の無くなった債券市場と私達の生活】
 No,249  【アベノミクスはアベノリスクに過ぎないこと】
 No,250  【EUの抱える問題と通貨ユーロのリスクについて】
 No,251  【本サイトではなぜ現在の株価高騰を批判するのか】
 No,252  【当面私たちが注意しなくてはならないこと】
 No,253  【ロジカルかつ真摯に投資を行うことの意義】
 No,254  【職業というものの抱える限界について考える】
 No,255  【パチンコ産業を甘く見てはならないことについて】
 No,256  【太陽光発電を導入する前に考えるべきこと】
 No,257  【日本銀行の政策矛盾とそのリスクについて】
 No,258  【日本教に染まる日本人の多数決主義の弊害】
 No,259  【今日一日の人生と考えることもひとつの健全】
 No,260  【世界中に手本となる国が無い日本について】
 No,261  【争いと論理に縛られた私達について】
 No,262  【現代の戦争とは経済戦争でありいつも犠牲は国民】
 No,263  【目的をもつと結果が逆になることを考える】
 No,264  【幻想に生きる私達について考える】
 No,265  【韓国経済を左右できる日本と日本企業について】
 No,266  【株高頼みのアベノリスクの終焉がもたらすもの】
 No,267  【今の金融政策を何度でも否定せざるを得ない理由】
 No,268  【怒りっぽいと結果として損をすることについて】
 No,269  【自分ではなく相手の身になって考えること】
 No,270  【私が父親から教わった貧困を誇るということ】
 No,271  【10年後に所得が150万円増えるというプロパガンダ】
 No,272  【脳も筋肉も年と共に劣化しないことについて】
 No,273  【著作権に関する私の考え方について】
 No,274  【投資の始まりは心理的に自分を知ることの始まり】
 No,275  【憲法を改正された時がこのコラムの最後でしょうか】
 No,276  【世界の人口と穀物生産量、そして私達の倫理観】
 No,277  【現状、給料が上がっても生活は豊かにならないこと】
 No,278  【仏教から考えるスピリチュアルの危険性】
 No,279  【結婚に対する価値観の変化と全廃論の芽生え】

  





 【人間の錯覚について考察を加えてみる】第240回

 昨今のニュースでは「地震はいつ起こりますか?」という愚問が飛び交います。地震学者は必ず起こる言わざるを得ませんし、確率も毎年高くせざるを得ません。この質問は「私はいつか死にますか?」というのと同じレベルの質問であり、いつかは来るものに対していつ来るのかを聞けば返せる答えは「今来てもおかしくない」になってしまいます。聞き手が無能である証拠です。大切なのは日頃からの備えです。マスコミは視聴者の不安を煽るような表現は避けるべきだと思っております。不必要な知識は不安に繋がるのです。

 また、多くの知識を持つ人間は知識の呪いを受けます。知識はある一定の方向に人間を向けてしまうからです。相手の使う専門用語に酔ってしまうからともいえます。理解しにくい単語ほど影響力が強いでしょう。解ったような気がしてしまうのです。
 多くの人は銀行員やファイナンシャルプランナーの言うことはすんなりと聞きますが、その結果のサブプライムローン不況です。結局他人の知識を自分の知識だと錯覚することから、問題が発生してしまいます。そして、情報が多いほど損をすることもあります。自己において情報が多いほど混乱するのです。サブプライムローン債という債権は金融商品を作るエリートが集って問題を大きくする結果となりました。
 結局のところ、取り入れる知識を絞り込み、自分で判断し行動することこそが危機を乗り切る最大の手段になるでしょう。

 日本が東日本大震災で「福島パニック」になった時、アメリカ合衆国は外交官を強制的に送り返したようです。しかし、ニューヨークの放射線量は当時の東京よりも高かったことから、東京に戻したという話を聞いたことがあります。ニューヨークにもエリアによって自然に放射線量が高くなる地区があるということです。つまり、安全というものは的確な測定がなければ解らないのです。イメージから危険と判断された東京がニューヨークに対して安全であったことは人間の錯覚の大きさと単純さを物語っているようです。いつも人間は頭で考えてしまい、錯覚に陥ってしまいます。

 「いつも野菜を食べている人は健康」と思いませんか?これは間違いです。野菜を食べると健康になるという科学的根拠はないのです。相関関係は因果関係ではないことに注意しなくてはなりません。
 「モーツアルトを聞くと成績があがる(モーツアルト効果)」はグレーです。そもそも冷静になることと、知能テストを行う人間の知能が同じであることが必要条件ですが、効果を測る条件は揃いません。つまり、モーツアルト効果は証明できないといってもよいでしょう。
 「脳は10%しか使っていない」これは完全に間違いです。そもそも潜在能力がどのくらいあるかを測りようがないからです。
 他にもたくさんの例がありましたが、興味があるようでしたら本をお読みになることをお勧めします。

 もうひとつ、私達が報道から因果関係を勝手に思い込む例を紹介します。
 「ある晩、静岡大学にいた彼女が岐阜に帰ると言った、彼は帰るなと言った。彼女は故郷に帰った。その後彼は薬物自殺をした」。このような記事を読むと事実だけを書いており、嘘は一行もありません。しかし彼が死んだ理由は彼女のせいに思えてきます。しかし上記の文章は出来事の羅列に過ぎなません。事件を最後に置くと、その直前の出来事が原因に思えてしまうのです。

 デマの基本は、偶然に聞いた出来事を重要な情報と錯覚してしまうことから発生するということです。私達は錯覚を避ける術がありません。錯覚が起きることを忘れた錯覚ほど怖いものはありません。原子力発電の賛否は別として、安全神話という奇妙な神話にして国民が錯覚してしまったことが危険であるのです。
 「私は錯覚する生き物である」ことを理解することが、錯覚から逃れる唯一の方法でしょう。そしてこの平衡感覚が株式投資における投資ロジックの構築に繋がるものと思います。

<サイト管理人> 2013年 5月11日改筆



 【日本と日本人:日本の気候風土を考える】第241回

 過度に愛国心を鼓舞してはいけないと思いますが、自分の国に誇りを持つことは決して悪くありません。というより良いことに思えます。昨今の捻じ曲がった愛国心の風習は受け入れがたいものがありますが、国を考えているという点において辛抱のなる範囲で、現総理の稚拙なコメントも苦笑いで済ませられます。
 私が周囲に「日本人は、孫たちが中国の孫に負けないようにしてあげなければならない」というと、「そんなことを言うと中国人に悪い」と言われますが、中国のお爺さんも孫のことを心配しているはずです。どの国も、まずは自分の国が繁栄することを考えるでしょう。子供や孫の為に良い環境を残すことが大切で、まずはそれができないで外国や世界のことを心配しても空しいものです。世界はひとつという人もおりますが、残念ながらその考え方には無理があります。

 日本は穏やかな気候です。春夏秋冬、山紫水明、実に素晴らしいところで、それは、温帯の大きな島国で中央に山脈があるのが原因でしょう。ただ、気温は少し低めです。もし、沖縄が台湾辺りで、北海道の宗谷岬が青森ぐらいだったら、もっと住みやすい国土であったでしょうが、無い物ねだりをしても仕方がありませんので、今のところで満足すべきでしょう。

 島国というのは、気温の変化が少なく(海洋性気候)、水が豊富で綺麗、それに魚が捕れるというような自然環境ばかりではなく、外敵が直接襲ってこないということもあり、やや閉鎖的で穏やかになりますが、本当に日本は「この世の天国」でしょう。世界で苦しんでいる人には申し訳ない部分もありますが、なんと幸運なのだろうと感じる今日この頃です。

<サイト管理人> 2013年 5月12日記述



 【投資は楽観的な時こそ危険のシグナル】第242回

 株価は為替に左右されているように見られていますが、メリットを得られる会社と得られない会社が存在しますから、現在のようにほぼ全面高、全面安を繰り返しながら日経平均株価が切りあがっていく状況ではのんびりと構えるのが良いと思います。多くの分野の学問を修めるのも良いでしょうし、直接資格取得の為の学習を行うことも良いと考えます。FPや証券外務員2種、宅地建物取引主任者などの資格は生活に関わる情報を手に入れることが出来ます。これらの資格は私も取得しましたが、宅建の法規などは実生活に関わるトラブルの対処法を学べることから、有意義なものと思います。
 ちなみに、小泉政権時代の為替レートは1ドル120円から130円程度でしたが、当時もデフレは続き賃金は増えずに非正規雇用が拡大しました。今後の日本は少子高齢化が本格化し、労働人口の減少や居住区域が偏ることが予想され、不動産投資も安易に行える状況とも思えません。インフレを期待するという安易な言葉を良く耳にしますが、もしも現在の金融主導でそれが適うとすれば必ず悪性の資産バブルを発生させることとなり、もし何らかの拍子で破綻すれば残高1000兆円の国債利回りがどうなるのか想像もつきません。強制的に作り出した金融相場というものは必ず強い副作用がついて回るからです。

 最近は株価の上昇で活気のある証券業界ですが、投資の世界では大半の人が損失を出しております。何100万人もの敗者の中から、異端の勝利者を見つけ出して主人公に仕立て上げるのがマスコミです。ユニークな主人公が数多く現れてメディアを飾ると、誰でも簡単に利益をあげられるように感じてしまいます。しかし、情報発信側の問題は、市場が過熱気味になって一斉に特集を組むことです。記事を売ることが仕事ですから当然のことといえます。株価が低迷している際や、パニック的な売り物が増える時こそ本来株式を買い入れる機会のはずですが、投資本はあまり売れません。しかし、日経平均が直近高値を更新すると投資本が売れるそうです。群集の心理というのか、何事もトレンドに乗り遅れまいとする人間の安易な一面を垣間見ることが出来ます。

 結局、メディアが取り上げる時にはもう織り込み済みという前提で考える必要があります。一番気をつけなければならない問題は、投資を行ったことの無い人が一気に過熱した状態の時に乗り遅れてはならないと市場に入場することです。昨今の人々はますますマスコミによって行動を支配されています。楽観的な時こそ裏では危険なシグナルが出ているのです。

 私の考える勝つ為の投資とは、一般的な思考と行動と正反対に向かうことを念頭においており、現在の相場をやり過ごせるだけの冷静さを持ち合わせる必要性を常に説いております。それができなければ新聞や雑誌、テレビなどでしきりに情報収集しても、結果、情報に振り回される投資敗者になってしまうでしょう。今後いくらでも投資の機会は巡ってくるでしょうから時間を有意義に使うべきと思います。

<サイト管理人> 2013年 5月13日記述



 【無能な首相の政策たるアベノミクスの評価】第243回

 アベノミクスの評価が真っ二つに割れています。一つの見方は「全然ダメ」というもので、「お金なんか配っても、経済の拡大の方には使われずに、「デフレ下の資産バブル」を産むだけ」という考えの学者と、「お金さえ配れば、活動が盛んになって一気に景気が回復する」と言っている学者がおられます。どちらも途中まで同じで、議論は精密で紛れがないのですが、結論は正反対のものです。
 アベノミクスの基本は、デフレで景気が悪いのと、アメリカが金融緩和をしてドルが余り気味で円高になっているので、円を刷って円安に誘導し、物価を2%上げるということです。それには「マネタリーベースを増やす」と言い、「インフレになるぞ」と脅かすことです。その結果、もともと「もっとお金を使いたい」という人が多いから、購買意欲が刺激されて国内ではものが売れ、円安になるので輸出が増え、円安で海外からの輸入品が増えるのでそれほど物価は上がらない、だからとにかくインフレになるまで資金を供給すれば良いと平然と言い放ちます。政府日銀は何十年前の発想をしているのでしょうか。

 もともと人間の活動が1年に2%ぐらい拡大するので、それにそって金融も拡大していくというインフレターゲットという考え方は既に先進国で実施していないのは日本だけだったということも私たちは頭に入れておく必要があります。
 もう一方は、もともと金融は緩和されているからこそ、ゼロ金利で、それでも需要は弱かった。だからこれ以上、金融を緩和するとそのお金は株などの金融商品にしか行かないのでデフレのまま金融バブルになるというものです。
 国内物価は円安で原料価格が上がるので値上げ(インフレ傾向)になりますが、すでにグローバリゼーションしているので、価格の上限は抑えられます。内需系の企業は簡単に価格転嫁できないのです。ですから一部の輸出産業だけ良くなって、あとはダメになることでしょう。マネタリーベースが増加しているので円安が加速し、1ドル150円ぐらいまで円が暴落する可能性があるということは実に恐ろしいものです。

 学問は「一つ一つの事実を精密にくみあげ、精緻な論理で合理的な結果に到達する」というものですから、結果は一つになるはずです。どうも経済学者の話を聞いてみると、Aグループの人は「お金は従」としているのに対して(アベノミクス反対派)、Bグループの人は「お金が主」と言う考え(アベノミクス賛成派)になっています。これは基本中の基本で、「必要に応じてお金を刷る」というのか、「お金があれば人は行動をし出す」というのか、経済の基本的な事になります。しかしそれが決まっていないのです。だから途中に「個人の判断」が入るから、経済学の専門家もこの先は「わからない」と思うしか無いでしょう。

 先日、春からの値上げのニュースが解説されましたが、ニュースの流し方自体は「値上げは悪だ」という感じです。内閣の支持率が70%を超える中で、インフレターゲット2%ということは、とりあえず物価は2%の上昇するのを国民が支持しているはずなのですが、実際はそうでもありません。
 まだ学者も一般人もどうしたら良いかわからないのでしょう。でも、実はインフレターゲットは消費税の増税は全く別の狙いがある可能性もあり、日本経済そのものとは別に個人の資産にも大きな影響を与えるので、もう少し慎重に考える必要があります。

<サイト管理人> 2013年 5月14日記述



 【日本教の日本人と生活が世界に受入れられるか】第244回

 人は宗教の無い社会で人生をおくることはできるのでしょうか?その点において日本は稀であり、一神教ではありませんし、多くの人間にあなたは何教ですか?と質問をしても「お墓があるから仏教徒か、初詣に行くから神道かな」といった程度の答えしか返って来ません。私は比較的敬虔な仏教徒ですが、既存の宗派は一切認めておりません。釈迦の説いたこと、釈迦の悟ったことに近づくことを心の糧にしております。ちなみに、欧米はキリスト教、インドはヒンドゥ教、ロシアはギリシャ正教です。韓国はゆがんだ儒教、中国では異質なお金教が繁栄しております。

 ただ、かつて日本に住む人々が精神的な活動に大きな時間を割いていたことは事実です。神社仏閣を建て、多くの仏を彫りました。決して日々の食料が満足ではない時代、生活が苦しい時代でも心に時間を割いていたのです。

 現在は日本教とは言っても少々形を変えてきており、多くの日本人はモノばかりを追い続けています。お金を追い続けているともいえます。このページは株式投資に関するものですが、投資は投資によって利益を上げてそれを実生活に反映させる為のもので、大半の人は利益を更に増やそうと投資市場から資金を引き上げることをしません。これはアメリカや中国のお金教が感染したことに起因するのかもしれません。経済は変動しますから、結果として手元資金を大きく減損させて退場する人が後をたたないのです。
 そもそも投資で更なる投資を行う人は何のために生きているのでしょうか?今日一日を充実して過ごすという基本的なことを考えているのでしょうか。もう一度原点に立ち返ってこのことを考えられることをお勧めします。

 少し話を戻しますが、日本にキリスト教は何度も入ってきましたが受け入れられません。イスラム教はキリスト教の兄弟ですが日本には受け入れられません。ゾロアスター教やギリシャ正教も神は同一ですが、近しいからが故、紛争が耐えず、日本人には理解ができません。神道と仏教は日本人になじみましたが、強烈な宗教生活は受け入れられておりません。ですから教徒といものはおらず、経典は無く、戒律もありません。山にも海にも神がいるのでとりあえず祈ろうとは思うのでしょうが、そこに強制力はありません。日本はおそらく世界でも希に自然発生的な「日本教」に支配されているのです。これには良い面も悪い面もあります。日本教といっても理解に苦しむ方が多いと思いますが、これは神道といっても良いでしょうし、仏教の変形とも言えます。東日本大震災から多少日本人の心は拝金主義から変質すると期待しましたが、残念ながらそうはならなかったようです。

 すでにヨーロッパでも「神は死んだ」と言われて久しくなりました。神に変わる確固たる道徳律こそ現代が求めているものでしょう。それができれば戦争もリーマンショックも無くなるのですが、ここまで経済中心に成立した世界を根本から否定することは難しいでしょう。自分が良ければ他はどうでも構わないという拝金思想が大きな経済恐慌を生み出すのです。やはり人間には欠陥があると思わざるを得ません。

 かつて日本が統治した台湾、朝鮮、満州が、中国やヨーロッパの植民地になっていた東南アジア諸国より格段に発展し、住民が幸福になったのは「道徳的社会」だったからです。結局良き日本教が伝わったということでしょう。それは犯罪率が低い社会は幸福な社会であり、道徳的規則を守るのは秩序をもたらすからです。私自身占領政策自体には否定的な部分もありますが、日本人がこれは間違いないと思っている本当の日本教は今後世界に広まる可能性があります。それは経済主導の世界が崩壊した時のお話です。今はその過渡期に来ているのかもしれません。

<サイト管理人> 2013年 5月15日記述



 【矛盾から始まる成長性や学問について】第245回

 今や私達の社会では呪いの言葉が支配しています。これらはもはや公用語になっています。その言葉を使えば使うほど他者のみならず、己にも波及していることを考えなくてはなりません。私自身呪いに囚われている一人なのでしょう。皆があまりに無自覚です。自分だけが正義であり、弱者は救済を求め、被害者は償いを求め、政治家は正義を傘に動いております。過剰な自身感情を求めているのです。こういう感情や言葉遣いはいつから始まったのでしょう。

 自尊感情は金銭欲が強くなった1980年代から強固なものとなり、私というものが際限なく偉くなり、他者への奉仕や連帯感というものがないがしろになっているのです。これはますます勢力を増しているのが現状です。それまでの日本では自虐的な文化が残っておりました。私など存在しなくても社会は成り立つものである。身近らの消滅をもって事業の完成とす、こういった感覚が日本人の多くにありました。

 また、教育現場でも誤解があります。教師は無責任にもあなたたちには無限の可能性があるという言葉を遣うということです。そんなものはあり得ないのです。実に抽象的な話で、裏づけが無いのです。教師が子供達に向かって無責任なビジョンを与えるのは決して善ではありません。可能性のほうが無限に無いと考えるのが自然です。可能性が少ないから何とかしようと学びが始まるのです。無限の可能性に囚われ、自分の能力を過大評価することは人間を退化させます。程度の低い国会答弁を聞いて納得してしまう。自分にとって都合のよい記事ばかりに目を配り、そうしたニュースばかりが記憶に残る人が多くおり、思考方向に誤ったベクトルを植え付け、呪いにはまっていくのです。身の程を知れ、分を弁えろ、これこそが学びの原点です。人間は矛盾があるから学ぶのです。そして、矛盾の無い国は国力を失います。

 さらに、歪んだ自尊感情が生んだ事件は多く存在しております。人を殺しておいて誰でも良かったとまるで事件を記号化することで妄想的に呟く呪文、これは本当の私がやった殺人ではないと言いたいのです。本当の私になれなかったから人を殺したと言っているのです。幸せになれるはずだったのに、政治が悪いから、企業が悪いからと論理をすりかえて自らの行為を肯定するのです。そしてさらなる殺人者が生まれます。際限のない犯罪の理由は同じなのです。

 今私達は自分と同じような人間が笑いながら生活していることに耐えられなくなっているのです。ひたすら他者を記号化することで、自尊感情を守るという稚拙な行為に走っております。メディアはこれに加担してもいます。矛盾の言葉を受け入れなければ学問は始まりません。人間は生まれもって公平ではありません。公平な社会を求めても無理があります。そこには欲が絡むからです。私達にとって大切なことは社会的不公平という矛盾を受け入れ、努力し、学び、他者への奉仕に繋げることなのです。

<サイト管理人> 2013年 5月16日記述
(参考)内田樹:呪いの時代



 【知識を得る程に恐怖心がかさむことについて】第246回

 一般的に知識が乏しいということは、物理的な痛みは伴いますが、恐怖心を憶えることは比較的ありません。つまり知識が豊富になるほど人は恐怖心に苛まれます。産まれたての子供は高い所を怖がりません。“落ちる=痛い”ひいては死ぬという“知識”がまだ備わっていないからです。逆に大人はその知識がある分、落ちる危険を回避する為の準備ができますが、その時常に恐怖心にかられるわけです。
 慎重であることは知的に振舞う前提ともいえますが、結果恐怖心の現れであり、怯えずに危険を回避することなどできないのです。結局知識が臆病を招き、謙虚さを遠ざけるなら、持たない方が良いと思うこともありますが、知識を得た人間は更なる知識習得へと欲を駆り立てられてしまいます。これには際限がありません。

 知識的なことの実際は未知への恐怖であり、知らない事への恐怖です。知らないこと、理解できないこと、自分に認識できない事象があるという恐怖。これは向上心のある人間にとって避けて通ることのできない問題です。そのため、知的好奇心が旺盛な人や、慢心のない人には切ないことでもあります。そのため、この恐怖心から逃れるために、意外なほど簡単に宗教に逃げてしまう知識人が多い事は、強制捜査をうけた某宗教団体の幹部に、そう言った知識者層が多かったことが過去にも証明されています。詳しくは知りませんが、自らの病を医学で解決できなかったり、科学で解明できないことに直面した事が、きっかけだったようです。その反面、神秘的な事象を全て拒絶する人もまた恐れているからこそ拒絶するとも言えるでしょう。

 知らない事への恐怖は、民族主義や民族差別を引き起こします。自分たちとは違う、自分たちの知らない事を行っていると言う恐怖から、戦争や虐殺を引き起こします。このことも歴史を学べば解かることでしょう。ちなみに、想像できないがゆえの恐怖という問題も発生します。自分の信じていたモノ(信仰、知識、信念、力)が脆くも崩れ去ったときに起こる恐怖心も、ここに分類されます。精神的恐怖は知らない事から、知っていることに変わる恐怖であり、知っている恐怖から、知らない事への恐怖と言えるでしょう。ふたつの背反する事柄に知識を得た人間は恐怖心がつのる一方なのです。

 人生において、変化を恐れるのも未知への恐怖となり、転勤、転職、転校といった環境の変化も未知への恐怖と希望が入り混じって起こります。将来の予測を現在の知識で行うことは不可能であり、時間が経過するまでわからない恐怖感と言えるでしょう。また、能力や知識が有る人は、それが無い人の状況を想像できないものです。学問がよくできる先生は、それが苦手な生徒の思考方法を想像できませんから、生徒のレベルに合った教え方を考えられず、何故この生徒はこんなことがわからないのだろうという印象を持ちがちです。世の中に天才といわれる人はほんの一握りですから、昔はその先生も生徒と同じような心境だった可能性があります。しかし、技術や知識を一度獲得してしまうと、先生はそれ以前の状況を思い出すことは不可能です。これが知識の呪いであり、知識の危険性なのです。知識を持った個人投資家は知識に縛られ、教科書的かつトレンドに縛られることでしょう。

<サイト管理人> 2013年 5月17日記述



 【今更報道されるシェールガスと石油の枯渇】第247回

 石油のような「還元炭素資源」は昔の生物などの活動によるもので、その上に土が滞積するので、地下2000メートルから7000メートル付近にあります。これが「石油資源の本体」で、今までの石油などは単にこの「本体」から漏れて地表近くに出てきたものです。そしてこのシェールガス(現在はガスが主力ですが、同じ層に石油や石炭も存在する)があることは昔からわかっていて、掘削の研究は数10年行われています。なにしろ数千メートルのところから掘るのですから、実際に掘り出したらどのぐらいのコストになるかはわかっていませんでした。石油メジャーは随分前から把握していたのかもしれませんが、いずれにしても世の中ではオープンにはなっていませんでした。
 2000年頃、シェールガスの試掘が行われ、普通に掘ることができることがわかったのですが、その頃まだ原油が安く1バレル30ドルぐらいでしたから石油会社は掘削をしませんでした。その後2007年のバイオ燃料騒動などから、1バレル140ドルぐらいまで原油の価格を上げてから、2009年にシェールガスの商業生産に入り、天然ガスの3分の1程度の価格で流通し始めたのです。日本は高いエネルギーを平気で使う贅沢な国ですから、石油卸売り大手はまず日本で高い値段を設定し他国との交渉に当たるという変なシステムが横行しています。
 こうした一連のことを一切報道せず、「シェールガス革命」とまさに今始まったように報道して国民を錯誤させているのがマスコミです。

 さらに問題なことは、NHKの解説者は未だに石油確認埋蔵量が40年と言い張っていることです。もし本当ならアメリカやイギリスの石油メジャーは今後どうなるのでしょう?コメンテーターが「今まで100年の歴史を誇ってきたメジャーが今後数十年で幕を下ろすことは考えられない」と言いますと、解説者は「私が言っているのは確認埋蔵量」ですから無くなることとは違うと答えます。結局原油の問題はこういう形で誤魔化され続けているのです。ちなみに、現状メジャーの様子からも原油獲得に焦っている様子は伺われませんし、アメリカによるガソリン依存脱却の為の高速鉄道が敷かれるなどと言う話も聞きません。ちなみに、本当に石油が枯渇するのならば、先に掘って取りおかねばならず、取りおいた分が多くの備蓄を生みますから、石油系資源はあと数千年存在するという推測が当たり前になるのかもしれません。ちなみに、ここで言う数千年とは経済性を加味して掘れる期間です。
 なぜ多くの人が「石油埋蔵量残り40年」という言葉を信じるのでしょか。おそらくそれは地球に存在する石油の前提を錯覚しているからでしょう。原油価格とシェールガスの価格は相対する関係になりますから、2007年頃起こったような原油価格の投機的な暴騰は今後起こりにくくなると思われます。

 情報は社会的権威やマーケットによって支配されています。真実を見極める目、裏を読む目が益々求められる時代になることと思いますし、この能力は普段の生活や株式投資に活かせるものと考えています。日々の情報も大切ですが、それらに振り回されるような投資はお勧めできるものではありません。

<サイト管理人> 2013年 5月18日記述



 【秩序の無くなった債券市場と私達の生活】第248回

 日本銀行の総裁がこれまでにない緩和を発表した目的は、国債の買入れにより金利低下を促しつつ為替を円安に振れさせ、資産価格を上昇させると考えるのが自然です。現在の短期国債の金利は無いに等しいので利下げによる金融緩和の効果はみられませんが、長期国債にはある程度の金利がついているので、それを日銀が買えば金融緩和の効果だけが出るとの思惑がありました。
 緩和が発表された当日こそ10年物の新発国債の金利が0.3%台まで下がりましたが、その後0.6%台に上昇し、この急激な動きを止める為のサーキット・ブレーカーが何度も発動されました。19日現在は約0.85%で、住宅ローンや長期プライムレートなども引き上げられるといった混乱がみられます。とはいえ、現時点で緩和効果の結論は出せませんし、0.8%台というのは過去10年を見ても水準としてはまだ低いといえます。とりあえず今言えることは市場の困惑でしょう。これまでリスクがほとんど皆無と考えられていた日本国債がリスクを負っているとマーケットが感じているとすれば、これから先の状況は劇的に変わる可能性があります。金利上昇に伴う生活への影響は大半の日本人に影響を及ぼすことでしょう。
 ある程度の資産があり、株式などの商品への運用といった余裕がある人間はそれなりの対処も可能でしょうが一過性のものと思います。成熟経済の日本が今後GDPを増やし続け、予想インフレ率程度の賃金上昇が適うなどということは難しいでしょう。年金減額の問題もありますが、金融主導による悪いインフレは国民生活を困窮させるものです。そして実態の無い価格のついた株式市場は小さな要因で暴落する危険性があります。私自身は現状インフレ経済に移行するとは思っておりませんが、日本国債がリスク資産として扱われるようになった現在、貯蓄の無い人間がこれまで通りの生活を送れるとは思いませんし、変動型の住宅ローン等の債務を抱えた個人は常に金利を意識しなくてはならないのです。中小企業で貸借上大きな借り入れがある会社は資金繰りに奔走することにも繋がります。不動産等の資産価格が上がれば問題は無いという人もおりますが、人口減少の中で地価が上昇するとしても地域は大きく限定されることでしょう。

 今のように景気拡大ムードで株式が上がっている時はPERや配当も上がると予想されるので、金利は上昇すると考えるのが自然です。さらにこのタイミングでアメリカでは金融緩和を終えるといった観測が持ち上がり、米国の長期金利は2%程度まで上昇しています。市中からとはいえ国債を大量に購入した日銀によってトレードの場を失った機関投資家が外国債に資金を移すのは当たり前の話で、日本国債の需要が低下しかねません。この半年程アベノミクスという言葉のみが先行していますが、この中身をしっかりと理解しない国民が大半を占めておりますから、次の参議院議員選挙の結果次第では日本経済は最悪の状態を招くことでしょう。自業自得ですから仕方ありませんが、大半の日本人はリスクを負わされる結果となったのです。負わせているのは政府であり、その政府をつくる国会議員を選出したのは国民です。結局責任は有権者にあります。行財政改革を遂行せず、紙幣の発行や移動で国家が安定するなどといった夢物語から目を覚まさなくてはなりません。

 話が逸れましたが、そもそも異次元緩和の目的として国民にインフレ期待をもたせることがありますが、これは本来の金融緩和という目的と矛盾しています。簡単な式を以下に記します。
 ●「名目金利」=「実質金利」+「予想インフレ率」
 つまり、実質金利は短期的には一定といえますから、予想インフレ率が上がると名目金利は上がってきます。もし政府や日銀の目標の通り2%のインフレが実現すると、当然長期金利は2%以上になります。こうした国債の価格下落の動きが出ると、投機的な売りが更なる売りを呼んで、欧州のような長期金利となる可能性もあります。

 財政が逼迫している国家で国債の金利が上がることの危険性は、昨今の欧州を見れば明らかです。もし日本国債の金利が3%程度まで上がると、政府債務は1000兆円以上あるので、これは最終的には30兆円以上の歳出増に繋がって一般会計を大きく支配します。税収はこれ以上に増えるでしょうか。それとも強制的に徴収する新しい税制が出来上がるのでしょうか。既存の税率が引きあがるのでしょうか。このまま債券市場が秩序を失えば、国債を大量に保有している金融機関にも大きな評価損(数十兆円)が発生し、金融システムそのものが崩壊する危険性をはらんでします。政府だけではなく、金融機関、ひいては日本のありとあらゆる企業の運営に支障を来たしてしまいます。個人的には増税に反対ではありません。大切なことは物価の安定であり、強い円を維持することです。その為の行財政改革です。一過性の株価上昇に目を奪われ、成熟経済の進むべき道を見誤れば更なる失われた10年を生み出すことでしょう。

<サイト管理人> 2013年 5月19日記述



 【アベノミクスはアホノリスクに過ぎないこと】第249回

 最近は実に暗澹たる日々を送っております。毎日耳に入るアベノミスクという言葉ですが私は大嫌いです。中身は大層なことを言っているわけではありませんし、やろうとしていることは無意味で無謀だからです。何十年前の手法を取っているのでしょうか。時代錯誤も甚だしく思います。そもそも首相が中央銀行を相手どって恐喝的な態度をとったことは後年まで失政として残るでしょうし、「私の発言で円が安くなったではありませんか」などと発言する無能な人間が国家の元首であることは残念でなりません。自国の通貨安は対外的に見れば国力の低下を意味しますから、自分の国の信用を低下させて誇らしげな態度を取る頭のおかしな人間が国の舵取りをしていることを危惧してなりません。

 通貨供給量を増やすことはデフレの解消に繋がらないという結果が既に出ているにも関わらず、その供給量を増やして何になるのでしょう。余ったお金は実体経済に反映されず、株式に向かいました。これからも続くようですと不動産やその他の投機対象に向かう可能性があります。マネタリーベースの増加といった初歩的な手法を新興国で行うならば話はわかりますが、日本は成熟経済です。その点をしっかりと考えるべきです。
 一方で実物(モノの世界)は世界中の価格競争から容易に火がつくことはありません。モノの値段は世界で決まる時代になっているからです。ただ、円安の進行から輸入材や燃料の価格が上がる中で、サラリーマンの賃金が一段と抑え込まれる可能性があります。円安分を企業が商品に価格転嫁しきれないからです。つまり、カネの世界だけでバブル化が進み、現物の世界ではデフレが進むことでしょう。これはデフレ下に起こる資産バブル(資産インフレ)を意味し、最悪かつ無意味な時間を過ごすことに繋がり、国債の信任にも関わってくる問題です。製品デフレと資産インフレが同時進行するという最悪の状態を招きかねない今日この頃です。政府や現日銀総裁には節度を持っていただきたいと思います。国民の生活水準の二極化が進んでしまいます。

 参議院議員選挙程度まで為替のトレンドは変わらないかもしれませんし、その先しばらく円安傾向が維持されるかもしれません。結局は「いろいろなことのツジツマが合わなくなって来ている」ことを国民が理解すればマーケットは冷静さを取り戻すことでしょう。
 理屈で考えれば円安になる理由はありません。世界最大の債権国の日本に資産が集まるのは当然のことで、世界最大の債務国のアメリカを考えればドルが過大評価されるのはおかしいでしょう。これから先自然と為替は円高になることは明らかです。ユーロに関しては存続する前提がドイツ次第である為、持つだけで大きなリスクを負うと考えるのが自然でしょう。つまり、これから先にはドル安、ユール離れ(ユーロ安)、円高が成立することでしょう。そもそも国内が完全に空洞化しているアメリカはTPPをバネに輸出立国として生き抜くことを考えている以上、円に対してドル高は困るのです。
 国内のメディアにのみ目を向けるのではなく、NYタイムズやロイターなどのニュースをしっかりと見聞きすることが経済に対する正しい感覚を養う為のヒントに思います。実体のない日経平均株価は数ヶ月来資産バブルの域に入っております。もしも為替と株式が連動しているならばいつ梯子を外されてもおかしくない状況であることを個人投資家は知っておくべきです。

<サイト管理人> 2013年 5月20日記述



 【EUの抱える問題と通貨ユーロのリスクについて】第250回

 統合欧州(EU)はこの数年来深入りしてはならない方向に進んでいると感じています。何でも統合欧州レベルに一本化することで制限や規律が強くなっており、経済が安定しているドイツ一国と他国との間に亀裂が深まっているということです。現在のユーロの価値はドイツがどういう方向に動くかにかかっているといっても良いでしょう。
 このことはドイツ以外の国々にしてみれば実に皮肉な展開で、ユーロという単一通貨を作る切欠が何としてもドイツの突出を許さないが為であったにもかかわらず、結果は逆になってしまったからです。ユーロという通貨が作られたのはドイツマルクを消滅させて、EUに入れ込みその独壇場を阻止することが目的でした。

 なぜユーロという通貨ができたのでしょう。要因は冷戦終結による東西ドイツの統合にあったのではないでしょうか。それまでもヨーロッパでは統一通貨の必要性が議論されていましたが、ベルリンの壁の崩壊から一気にユーロという通貨が必要になったのです。東ドイツを吸収した西ドイツは東欧諸国を巻き込み経済共栄圏を構築できたからであり、フランスを中心とした国々は先の大戦前の状況を思い浮かべたことでしょう。一方ドイツもその他の国々の恐れを知りながら、ユーロを拒否しなかったのは敗戦国であったこと、独仏枢軸の状況を構築することしか選択肢がなかったことを察していたのかもしれません。今でさえメルケル首相がドイツに有利な発言をすれば帝国主義主義の再来と言われるのです。日本同様、第二次世界大戦に負けた国は実に辛い立場におかれています。何も強く発言できないのです。

 繰り返しになりますが、ヨーロッパ全体としてユーロを導入したにもかかわらず、現在はドイツ中心主義になっているという現実があります。今後は劣等国がこれをどうやって受け入れるのかにかかっているのですが、ギリシャ、スペイン、イタリア、ポルトガルといった国々はドイツの意図とは異なる政策を実施しがちです。これはドイツとしても辛いところで、生かすも殺すもドイツ次第にもかかわらず、それが受け入れられないのです。ドイツが援助するのは当たり前のことであるという考えに則っているとしか思えません。彼らにしてみれば、いつまで私達は依存されなければならないのだという感情を抱いていることでしょう。一方的に資金を提供することに難色を示せばすぐにでもヨーロッパの金融システムが崩壊するにもかかわらず、個別加盟国は比較的自由に振舞っているのですから当然のことでしょう。確かに各国はドイツの顔色を見ながら態度を決めてはいますが、必ずしもドイツの意図する方向には進んでおりません。ドイツ国民の感情はギリギリのところに来ているのではないかと思われます。さすがに首相も自分達の言うことを聞けとまでは言いませんが、本音はここにあるはずです。

 こうした実態が顕在化する前にドイツがユーロ圏から離脱してユーロが崩壊するか、それともドイツがかつてのローマ帝国のようにヨーロッパ諸国に対する支配力を強固なものとするかになるでしょう。大ドイツ帝国と言ったらよいでしょうか。いずれにせよ二択しかありません。結局深入りしすぎたEUは窮屈かつ不安定な共同体になっているのです。ユーロという貨幣は実に危険性をはらんだリスク通貨であると自覚しなくてはならないでしょう。

<サイト管理人> 2013年 5月21日記述



 【本サイトではなぜ現在の株価高騰を批判するのか】第251回

 私はサイト開設当初より株式投資をお勧めしておりません。なぜなら投資には大きなリスクを伴うからです。売りが売りを呼ぶ局面、買いが買いを呼ぶ局面があり、結果として株価はその後逆の動きをし始めます。マーケットが下降トレンドであれ上昇トレンドであれ利益を出す人がいれば損失を出す人がいます。そして多くの人が最終的に損失を被る歴史を辿ってきました。なぜ損失を被ってしまうのでしょう?

 以前にも書きましたが、人間の行動の基本は「不愉快だから何かをする」と言えます。ボランティアも同じで、助けない自分が不愉快だから被災地に赴きます。偽善とは思いませんが、人は結局自己愛の為に相手を大切にする以外あり得ないからです。相手ありきではなく、自分ありきなのだという基本的なことを多くの皆様が忘れてしまっているとも思います。こういう言い方をすると冷たく感じてしまうと思われますが、相手を思って何かをするということを突き詰めていけば、今自分が何かをしなければならない、それをしない自分が許せない、そして、それをしないことが「不愉快だから」という感覚に行き着くのではないでしょうか。
 この考え方は人を好きになることや物を買うことなどにも共通して言えることで、全ては利己主義の上に成り立っています。世の中の為になったか、自分に対する徳を得たかはあくまで結果です。つまり、相手に対する優しさなども一方通行のもので、相手に都合の良いことを言うのが優しさなどではなく、自分が信じることを貫き接するのが究極の優しさと言えるでしょう。不愉快だから自分が良いと思うことを押し付けるのであって、相手がどう思うかというのは後付けの付録に過ぎないでしょう。しかし、優しさの本質はここにあると思うのです。
 株式投資に置き換えて考えると、この銘柄を買いたいと思うのは「この銘柄を今買わないと不愉快だから」と言えます。そして、不愉快だから...は本心ですので、そのタイミングで株式投資を行えば高い確率で負けてしまいます。

 投資で大切なことは自分を捨てることです。不愉快という考え方の一切を捨て、ロジカルに買い入れる条件を数値化することです。すべてを数値化することは難しいと思いますが、おおよそのものは可能ですので、買わないと不愉快だからという感情は抑えられると考えています。
 私自身、投資を始めた頃相場が加熱してい局面で出遅れ銘柄を買いたくなることがありました。押し目買いの場がやってこないことの焦り、つまり不愉快が故に購入した経緯もあります。しかしそうした手法で望んだケースの勝率は5割程度で、このパターンでは結果的にイーブンです。よって、投資では本心を消すことに重きをおいて投資に望んでおります。株式投資において一番大切なことは自らをマインドコントロールする、不愉快を自制することではないでしょうか。株式投資は自分との心理戦争と思います。私事で恐縮ですが、投資を始めてより年率でこれまで10%程度のリターンを得てまいりました。デフレ下であることと現在の銀行金利を考えれば10%という数字は決して低いものではありませんし、リスクを最小限に抑えた結果と感じております。

 日銀の金融大緩和により堅実な投資ではなく投機的な動きが加速している現在、実体経済を反映しない株価がつき、ある一点において暴落に巻き込まれる可能性があります。そのタイミングは誰にもわからないのです。株価の上昇に酔ってしまうのは一種の麻薬のようなものかもしれません。私は徹底的にリスクを好みません。ですから実体経済と株価が乖離しているような状況では投資を推奨しないと同時に、資産バブルを招いた現政権の無能さを徹底的に非難し続けることでしょう。日々真面目に働き子育てを行い、変動型住宅ローンを抱えて必死で子育てをしている人々が苦しむ姿を見たくはありません。円安に伴い特に内需系企業が商品に価格転嫁しづらい昨今、価格を据え置く為には商品の価格を上げるか商品の質を下げるか、従業員の賃金を下げるしかないのです。場合によっては非正規社員の増加に繋がるのかもしれません。いずれにせよたいしたメリットはないのです。無能な政権はTPPへの参加も含め日本の解体を目指しているのでしょうか。GDPに対する日本の輸出依存度は17%程度に過ぎないにもかかわらず、経団連で強い発言力を持つ一部輸出系企業の優遇的な政策は理に適っておりません。
 私が現在の株価の上昇を批判するのはリスクの観点も含まれますが、窮地に追い込まれた人々が少ない生活資金を生活防衛型投機を行いかねないからです。大多数の低所得層の方々が損失を被るような株価の上昇から下落は傍から見ていて辛いものです。

<サイト管理人> 2013年 5月22日記述



 【当面私たちが注意しなくてはならないこと】第252回

 現政権は金融市場に期待した政策を行っておりますが、90年代から金融市場の動きと生産活動の動きは連動しておりません。昨今の株高は企業収益が増えるだろうから株価が上がるというよりも、為替要因に端を発し、そこに海外からの投機の資金が入ってきた結果になっています。ここ数ヶ月は個人投資家も積極的に投機を始め、多くの金融商品が好調な販売を成しているようです。

 今のところ企業収益が増えるだろうから株価が上がるという曖昧な状況で株価の上昇だけが続いており、実体経済には何も変化が無いといっても良いでしょう。どう考えても因果関係が逆転しています。株価は半年後の企業業績を織り込むとは言われるものの、現状、何年先までの日本経済の好調を前提とした株価になっているのだろうと危惧してなりません。本来日本のようにマーケットが大きく成熟した経済になると、先に実体経済があって金融商品に価格が派生すべきであるにもかかわらず、そうはなっておりません。日本が世界中の金融立国の食い物にされているとしか思えません。
 また、以前のコラムに書いたように、株高の裏で弊害が生じております。国債価格の下落です。経済の成長が進まず、賃金が増えない状況が数年続いた場合、企業や個人を問わず金利の支払いに窮する可能性を秘めております。過去10年スパンで見た場合、まだ割安水準と思いますが、10年物の国債利回りの乱高下は債券市場に秩序がなくなったことを意味しております。

 私はアベノミクスという言葉が大嫌いですから、アホノリスクと言いますが、この3本の矢なる失政は簡単に以下の3点です。

 A.金融政策 日銀が2年で270兆円の国債を市中から購入する
       ETFも含めた金融商品を購入する
 B.財政政策 今後10年で200兆円の公共投資を行う
 C.成長戦略 特定分野へ民間投資を集中的に増やす

 昨今の株高により、リフレ派の人々の政策に日本人の大半は洗脳されたとしか思えませんが、このサイトを立ち上げてから最も危惧していた状況になってしまったともいえます。政権発足から半年程度経った時点においても経済を継続的に好転させる要因が出てこないのです。為替や有価証券損益による一部収益改善の報道はあるものの、根本的に貨幣の回転速度を上げるだけの力にはなっていないのです。今回の政策では貨幣の回転速度、つまり個人消費が大きく伸びていくことが最大のポイントですが、デフレ下では適わないでしょう。政府もさすがに個人の財布に手を入れることができないからです。できることは増税しかないのです。マンションや住宅の購入を煽る宣伝があちこちに見られますが、少子高齢化を考えれば不動産という資産のバブルは今後も起こらず、日本全体で見れば地価の下落は続くこととなるでしょう。公共事業が経済を好転させるなどというのは旧来の自民党が行ってきたことの繰り返しです。私は自由民主党の支持者ではありますが、成熟しきった経済で無理やり公共事業を行っても効果がないばかりか、そこに必ず介在する無駄を許すことになってしまいます。インパクトを与える言葉の裏には必ず嘘がついて回ることを考えなくてはならないでしょう。必要な工事を必要な時期に必要な順序で行うだけなのです。先に予算ありきではありません。

 いろいろ書きましたが、当面私たちが注意すべき点は株価上昇よりも金利の上昇です。日本政府が1000兆円の借金があってもギリシャのようにならない理由は資金繰りがついてきたからです。財政赤字を出しながら国家の体をなすのは国民の預金が800兆円程度あり、それが毎年2〜3%増加していることがまずあげられます。企業の内部留保も株価高騰で膨らみました。政府の対外純資産も250兆円程度あります。簡単に言えば借金大国ではなく資産大国なのです。これは今のところの話である為、財政赤字を含めた10年先を見越せば破綻状態に陥りますから消費税率を上げる必要があります。この点に反対はありません。今後15%程度まで上げればプライマリーバランスが保たれるとの試算もありますが、おそらく正しいものでしょう。重税国家かつ高福祉国家を維持するならば必然のことだからです。ただ一点間違えてはならないのが、国の負債と個人や企業の資産が別物であるということです。これらを同じ土俵に上げて日本国債の信認を語る人は国家主義思想をお持ちか、経済を都合よく解釈しているのでしょう。

 最後になりますが、デフレ脱却は無理なことです。日本はこれ以上の成長が望めない以上当たり前です。その理由は以下の2点です。世界で日本は一人当たりの資本取得が一番であり成熟しきった経済であること。成長のメカニズムは安く資源を輸入して高い技術で商品化し輸出するものでしたが、BRICSの台頭からそのメカニズムそのものが成り立たなくなっていることです。世界中で安い製品を求める中で日本だけが高付加価値の製品を売り出し買い手を探すのはますます難しくなっていくことでしょう。
 今こそ冷静に財政健全化、行政改革を考え、国家としてのビジョンを明確化すべきだと思います。政府が行うことは未来へのビジョンを示すことであり、過去の成長に縛られた失政の繰り返しではないと思うのです。大切なのは成長ではなく効率かつ健全性ではないでしょうか。

<サイト管理人> 2013年 5月23日記述



 【ロジカルかつ真摯に投資を行うことの意義】第253回

 投資で一番の問題は時々の気分によって買い入れるタイミングや銘柄選びが変ってしまうことです。オバマ大統領が就任当時打ち出したグリーンニューディール政策で脚光を浴びた原子力や風力、太陽光発電、LED証明関連、液晶関連銘柄を買われた方もいらっしゃることと思います。トレンドとは一過性のものであり、何々関連という言葉に釣られては高値掴みの元となってしまいます。
 大切なことは時々の人気銘柄や企業の技術開発タイミングを狙うことでもありません。そうしたものから極力遠ざかり、割安な株を買い入れる条件を一定に保つことなのです。これは私も含めた皆様の心の尺度の問題でしょう。
 私が勧める投資手法は長期投資をされる方には向きませんが、投資に関する尺度については、自分のそれが一定であるのか、また、大きな外部要因の変化によるロジックの組み直しから尺度を変更すべきかを常に意識しなければならないものです。

 私は日経平均やTOPIX指数を簡単に確認しますが、いざ買い入れに際しては日経平均採用銘柄しか見ません。その中からスクリーニングをかけ、買い入れる銘柄の優先順位をつけます。そして翌日買い入れ割合に応じた成行買いを行います。
 多くの方は自分の気に入った銘柄や嫌いな会社があると思います。思想的にどうのといった部分もあれば、前回の取引で利益が出たから、損益を出してしまったから、その他理由はいくらでも思い当たります。当たり前のことですが、株式相場は皆様の好みを聞いてくれるわけでもなく、証券所は皆様方全員に利益を分配する為の取引所でもありません。

 ここで何が言いたいかというと、銘柄の選定に際して差別的感情を入れてはならないということです。あくまでロジカルに選別するために多くの指標があるのですから、それを有効的に活用することこそ一番の問題で、好き嫌いは二番目より遥か彼方の順位になります。
 以前利益を上げた銘柄の財務諸表には一切目もくれず、ひたすら株価を追いかけている人、そして、以前買った時の価格が次回購入の目安と思っている人などは真っ先にプログラム化されたトレーディングシステムの標的とされるでしょう。
 肝心なことは四季報や企業のIR情報を調べ、財務的にどうなっているのか、利益率はどうなのか、配当性向は、過去の増資の経緯はどうなのか...を中立な立場で見る目と、先に書いたスクリーニング能力およびその閾値を自ら定めることです。

 参考として、過去の四季報は必ず取って置くことです。1集(新春)から4集(秋)まで発売されますが、少なくとも過去5年分の四季報(20冊)を手元に置かなければ、財務状況の推移、投機筋の買い時期、売り時期を確認することすら出来ません。古いデータはインターネットで参照できないことがその理由ですが、少々がさばるのが難点です。
 この四季報を更に発展させると今度は日々の大量保有報告書のデータベースが気になるようになります。デイトレーターを目指すわけではありませんので、必ずしも必要な作業ではありませんが、時々の底割れの可能性を測ることが出来ます。

<サイト管理人> 2013年 5月24日記述



 【職業というものの抱える限界について考える】第254回

 日本に存在する多くの職業には誰でも採用後そのまま就業できる仕事と、資格がなければ何もできない仕事があります。医者などは「医科大を出て国家試験に受かる必要」がありますし、おおよその教師も「教職課程を修得して教員採用試験に受かった人」になります。弁護士もそうです。あげればきりがありません。こうした人々はなぜ特別な大学を出て、特別な試験を受けなければならないのかですが、社会との信頼関係が必要だからでしょう。例えば、医者が大学も出ず国家試験も受けずに勝手に医師と称して手術ができるならば大問題です。これは直接人の生死に関わることだからです。これと同じように教員も採用試験も受けずに自分の趣向で教育をしたら、社会科学的に間違ったことを子どもたちに教えることになるでしょう。よってこのような職業に就く人は、特定の大学を出て、特定の試験を受けた人という事になっています。

 しかし、医者や教員は何でも自分の思う通りできるというわけではありません。そこには大きな制約が存在しているのです。
「医師は自分で治療方法を考案し実践てはいけない」、
「教師は自分の考えを生徒に伝えてはいけない」
という制約です。

 これを聞くと違和感を覚える人がいるかもしれません。医者は患者さんを治療するのだから、自分で考えた治療方法を使っても良いのではないかと。しかしそれは全く違うのです。ある医師が微量の毒物を注射したら頭痛が治ると思いついても、頭痛で訪れた患者に毒薬を注射してはいけません。医者は自分で考案した治療方法を使ってはいけないのです。医学の学会で認められ、医師会で承認されているような治療法に限定されます。安楽死などの問題もこういった点によります。どんなに患者が苦しんでいてもそれが学会で認められない限りはしてはいけないのです。
 教師も同様です。教師がいろいろ勉強した結果、地球が六角形であるという結論に達したとしましょう。しかし子供たちに「地球は六角形だ」と教えるのは禁止されています。その先生がどう考えようと自由ですが、教室で生徒に教える内容は学会で認められていることや科学的に受け入れられていることでなければならず、自分の信念に反しようと「地球が丸い」という場合は「地球が丸い」と教えなければいけないのです。

 新しく物事を創り出したり、科学的な事実を見い出す研究者(科学者)と医者や教師のように「相手に何かをする」という人では決定的に違うのです。新しく何かを発見する人は、自然を相手にしていて人間を相手にはしません。医学でも新しい発見の対象物が人体に関するものであっても、個別の人を相手にしているのではないのです。このことを守ることは「専門家の倫理」の中の重要な項目の一つでしょう。

 現在はますます社会が複雑になってきて、多種多様な事件が起こっています。その度に消化不良のコメントが流れてきますが、基本的な約束や論理をしっかりと理解しなければ情報を間違った方向に見聞きしてしまう時代になったと感じています。コメンテーターも何者か解からないような人々が多く、専門家ではない人間が多くを判断しがちです。経済ニュースもしかりで、研究者なのかそれ以外なのかわからない人間のコメントが多い昨今、投資のような先行きの読めないものに向かう際は、情報のソースをしっかりと見極め、時としてマクロに、場合によってはミクロに物事を捉える冷静な目が必要とされているように思います。多くの個人投資家はそれが適わないからこそ目先の株価に反応してしまうのです。このところ投資人口が増えたような報道がありますが、本来投資とは株価とは関係なく始めるものです。そもそも明日の株価の予想など誰にもできないのです。だからこそそれをあえてしない株式投資手法が求められるのです。明らかな換金売りの時を待ち、相場が落ち着いてから現物でリバウンドを狙えば良いのです。

<サイト管理人> 2013年 5月25日記述



 【パチンコ産業を甘く見てはならないことについて】第255回

 私が小中学生だった頃、高度成長の末期を迎えている時代では皆が今よりもずっと人生を楽しんでいたように思えます。単なるノスタルジーではありません。ちなみに2000年の平均月給は40万円程度でした。当時の職場ではソフトボール大会などが行われ、主婦が中心となったバレーボール大会やインディアカ大会が盛んに行われていました。年に1回は職場旅行があり、貸切のバスではビールを飲んでカラオケ大会、温泉に着くとコンパニオンさんたちと大騒ぎをしていましたように記憶しています。良し悪しは別として明るい社会でした。
 家庭でも自家用車に乗って休日が来ると家族とドライブに出る人が多く、当時の道路事情は今よりも遥かに劣っていた為、ゴールデンウイークや盆休みの渋滞は100KMを超えるケースが多く見られました。
 私は言いたいことはそんな時代を懐かしむことではありません。またそれが日本人として一番いい社会というわけでもありません。しかし今よりも活気はありましたし、貨幣は回転していましたから経済は健全でした。こうした意味で貨幣が回転することの大切さを考えるべきですし、結果として個人主義ではなく団体主義に繋がるという点も考えるべきです。

 最近は随分静かになったように思います。確かに当時に比べれば高機能な車を持てるようになりましたし、デジタルカメラの性能がフィルムカメラ並みになってきたことから写真も手軽に撮れるようになりました。とはいえ、私の場合はフィルムカメラ愛用者ですので、デジタルになってからは写真を撮る機会は減りました。高速道路網も発達しましたが、かえって家族でドライブに行くことが無くなってしまったことに似ているように思います。人は難しいからチャレンジする生き物であり、玄人的なものを好む傾向があるようにも思います。

 静岡に住んでいると伊豆方面へのドライブはとても楽しいものです。温泉があり、観光地ならではの雰囲気があります。工業地帯に住む私にとっては一種特別な存在とも言える伊豆半島の温泉街には風情や旅情感を覚えます。インターネットでひとりで遊ぶことができるようになった代わりに麻雀や囲碁のように相手がいなければできない娯楽は減ってしまいました。大きく見て日本人の人生は楽しくなっているのでしょうか。私が思い込んでいるだけかもしれませんが、現代の社会で楽しみといえばほとんどパチンコと家で飲むことだけという感じがします。当方はパチンコはしませんが、どこも平日の夜や休日の駐車場は多くの車が停められています。パチンコを排斥しようといった運動がありますが、むしろパチンコだけが現代の日本人にとって大切な娯楽という感じがしてなりません。よく農業の経済規模が8兆円であるのに対してパチンコ産業が30兆円を超すということや、朝鮮系のオーナーが多いという風潮で恨みを買いがちなパチンコ業界ですが、裏を返せばいかに日本人がパチンコを娯楽として認めているかを示している結果でしょう。

 人間の心の中には、賭け事をしたりそのスリルを味わう欲望があります。それが人間でしょう。一日競輪にいれば1万円は賭けるでしょうが、これほど楽しい遊びをして1万円は安いのかもしれません。現在のパチンコはCR機の導入後大変にスリリングできていて、新台も定期的に導入されます。パチンコにのめり込んだ挙句離婚になったり、夏場子供を車に置き去りにしてその子供が車の中で死んでしまう事件もあります。しかし、それはパチンコそのものに問題があるのではなく、パチンコが面白いからに過ぎません。個人的にパチンコを行わない私が言うのもおかしな話ですが、パチンコを追放するのであればそれに代わるもっと娯楽を普及させてからにして欲しいものです。

 最近は実に暗い社会です。電気はこまめに消しましょう、たばこを吸ってはいけません、お酒もほどほどにして早く帰りましょう、好きなものを食べてメタボリック症候群になってはいけません。これでは仲間同士で楽しく集ってストレスを発散することもできないのではないでしょうか。ただひたすらに真面目な行動をして、暗い顔をしていなくてはなりません。そんな人生は何の面白さがあるのでしょうか。楽しみのない生活は、そもそも人間のすることではありません。朝起きてご飯を食べ、駅まで歩いて満員電車に乗り、どんより仕事をし、そのまま家に帰って夕食を食べて、テレビを観て寝てしまうという生活はまっとうな生活ではないと思うのです。それは頭も心も要らない社会だからです。どこまでも携帯電話で追いかけられ、メールは夜中まで来ます。しかし、こんな酷い生活でも自分の時間が無くなるのに慣れてくるのは恐ろしいことです。

 今はパチンコなどの娯楽を大いに楽しむべきではないでしょうか。私はドライブや競輪が好きです。株式投資も良いのですが、投資は常に行うべきものではありませんから、何時でも手軽にでき、かつスリリングな何かを皆さんも探してみてはいかがでしょう。他人の人生を追い込むことは容易ですし、批判をするのは簡単です。このコラムの内容もほとんどは批判的なものになっています。とどのつまり、多くの人が楽しめることを考えることはそれだけ難しいのです。

<サイト管理人> 2013年 5月26日記述



 【太陽光発電を導入する前に考えるべきこと】第256回

 太陽光発電は補助金として、2012年度から実質48円kWhという価格で買取がされています。ドイツに肩を並べるような優遇の仕組みとなりましたが、買い取り価格は、毎年見直されることから来年度もこのような価格になるとは限りません。この仕組みには大きな疑問が残ります。そもそも買取り価格は太陽光発電協会が経済産業省に申し入れた言い値であって、この価格は、買取り価格設定時点の国産太陽光パネルの流通価格設定を根拠にしています。現状国際マーケットでは太陽光パネルの価格競争が進み、ドイツ大手の太陽光発電パネル製造会社であるゾロンやソーラーミレニアムが相次いで倒産し、世界最大手のQセルズは企業再建まで追い詰められています。原因は、東アジア圏における企業の成長よる太陽光パネル価格の崩壊にあるようです。結果としてドイツ政府が補助金を出し続け、高額固定買い取りをしても、税金は国内に還流せずに電気料金は上がり続け、買取り価格制度そのものもが見直される結果となりました。このことはドイツばかりでなくアメリカでも同じような事態が起こっています。日本も同じ道を歩むのでしょうか。太陽光発電パネルの大手ソリンドラを始め、続々とパネルメーカーが破綻し日本の国内でもこの問題は深刻化するでしょう。

 世界ではFIT制を導入し、買い取り価格を高く設定したために太陽光発電バブルが生じました。結果、買い取り価格が膨らみすぎて、制度そのものが矛盾を抱えております。天然ガスや原油、昨今のシェールガスも含め天然資源は豊富に存在しており、発電価格も太陽光発電と比べて安価であるにもかかわらず一部企業を優遇したことや、グリーンニューディールなどといった一過性のトレンドが招いた不幸です。スペインなどは、国全体の財政危機とも連動して多額の債務を背負い込んでしまい、経済危機に拍車をかけているのが現状です。イタリアでも同様で、電気料金の上乗せ額が上昇した逆効果で、買い取り額の引き下げと、買い取りの上限枠を設定しています。イギリスでも買い取り価格を大幅に引き下げています。日本が導入を決めたFIT制は経済的には成り立たないビジョンです。マスコミはドイツの脱原発政策を賞賛しますが、結局はフランスからの原子力発電による電力の購入や火力発電政策に回帰しているのです。報道機関は太陽光パネル設置を煽るのではなく、こうした現状をしっかりと伝えなければ不公平になります。

 現状、経済産業省の勧めるFIT制度は、太陽光パネルの製造国に対する限定がありません。また買取り価格も高額ですから、太陽光発電バブルが発生しています。メガソーラー発電所が続々と建設されていますが、長続きしないものと思います。膨張し続ける買取り価格と、発電量の増大に制度が揺らぎ始めます。電気料金の値上げは発電用資源価格の高騰ばかりではなく、無理な価格設定による太陽光発電政策が影響しているのです。日本がFIT制を導入する際、目先の利益ではなくもう少しヨーロッパやアメリカの現状を分析すべきだったでしょう。欧米で導入しているといった安易な発想で進めば同じ失敗を繰り返します。欧米で導入した結果が最も重要なのです。太陽光はドイツの政策史で最も高い代償を払う結果となるというシュピーゲル誌の見解は、少なくとも日本でも広く共有されるべき認識でしょう。

<サイト管理人> 2013年 5月27日記述



 【日本銀行の政策矛盾とそのリスクについて】第257回

 4月4日の日本銀行による大規模な金融緩和導入後に起こった長期金利の上昇傾向については日本銀行内の複数委員から「金利を押し下げることを目的とした国債の大量買い入れと、長期的な金利の上昇に繋がる2%の物価目標の実現に対する姿勢が矛盾している」ことが指摘されました。委員の一人は「日本の債券市場の不信任感は増している」との懸念を示しましたし、別の委員からは「金融機関の金利設定や投資手法が名目金利の動きに影響されるため、日本銀行が考えているような金融機関の国債売却といったポートフォリオのリバランスの遅延が懸念される」との指摘がありました。一方では現在の金利上昇は「予想物価上昇率の期待と実体経済が好転していることを示している可能性がある」との指摘もあり、日本銀行の委員の内でも意見が対立しているようです。私にはどちらが正しいのか解りませんが、日本国債の信認が揺らいでいることや、金融機関が今後の対策に苦慮していることは現実として起こっていると感じています。

 最近の株価をみてもわかるように、金融資産価格の上昇についてある委員からは「バブルを懸念する声も聞かれるが、PER(企業収益等)のファンダメンタルズを反映したものであり、まだ過大評価の水準とはいえない」との見方を示したようですが、日経平均採用銘柄でPERが50倍を超えるような銘柄が多く存在していることを考えると、単純に受け入れられる言葉ではありません。業種によって大きなファンダメンタルズの開きが出ているのです。

  4月26日の金融政策決定会合では9人の審議委員が先行きの経済見通しを示す展望リポートをまとめ、今回から予測を出す期間を1年延ばして3年分とし、3年後には物価上昇率の見通しが1.9%、つまり、現在の物価目標付近に達するとの見通しを打ち出しました。これはあまりにも楽観的と言いますか、個人や中小企業、資金繰りに難儀している上場企業の立場を考えない見通しであり、現在の経団連を主導する輸出関連企業をあまりにも優遇したものと思えます。GDPにおける輸出産業の割合が17%であることからも、日本は成熟した内需産業を有する大国なのです。特定の業種のみが恩恵を被るような状況で、あまりにも多数を無視した見通しかつ政策に思えてなりません。

 モノの値段が国際的に決まる昨今、2%の物価目標を3年程度で達成することは困難と思っておりますが、日本銀行による金融緩和が長期間継続されるか、極端な追加措置が実施されるとの思惑が今後市場で高まれば、金融面での中長期的な経済の不安定化につながる懸念がありますから、緩和の継続期間や規模を今よりも縮小することも含めた柔軟な対応を考えるべきと思います。

<サイト管理人> 2013年 5月28日記述



 【日本教に染まる日本人の多数決主義の弊害】第258回

 一神教の場合行動パターンが制約されますが、良くも悪くも日本人が洗脳されている日本教の場合、国民は一定の行動パターンを構築できません。そもそも規範が何も無いからです。だからこそキリスト教もイスラム教も儒教も規範があることから理解できないのです。特にイスラム教はコーランに行動規範が書いてあるため、日本教とは相容れないものとなります。全く正反対の宗教です。
 民主党政権を樹立したのも国民ですし、現在の行き過ぎた自民党政権を作ったのも国民です。おおよそはマスコミの報道に流されている結果であり、ニュースの裏にある事実を見極めるだけの能力が大半の国民に備わっていないからです。
 日本人は何を信じているかというと、自分よりも大切なものを信じるのではなく、自分の役に立つならば良いという何でもありの状態になっているのです。大多数の人はそのことを考えていませんが、それを無意識に信じ込んでしまいます。

 思うにどうも日本人は多数決が全てであると思い込んでいるようです。意識してなくても多数決的な雰囲気の決まり方が巷に溢れています。身近な話では複数人数での会食先を決める時などは最たるものです。多数決に負けた人間は黙って従うのが心の基本であり、日本において多数決という言葉から生まれるイメージは公平的な感じでそんなに悪くないのでしょう。私は違和感を覚えます。そもそも多数決は意思決定において優れた手法でしょうか。私は日本教に染まった日本人には多数の論理を優先することは非常に危険だという感を受けます。

 多数決は民主主義の完全な原則ではないのです。多数がそれぞれの意見を持ってその意見をひとつに決める必要性がある際の単なるひとつの手法だということを認識すべきでしょう。個々が議論尽くした上で考えがひとつに集約されないからこそ多数決という方法に委ねるのです。理想は議論の末に全国民が納得する政策やモラルが得られたならば全会一致になり、こちらの方がはるかに平和的で意義のある結論が出ることでしょう。ただここにおける問題は、議論する国民には高校卒業レベルの能力が求められることです。大半の人間が学校教育を無駄なもの、受験の為のものと勘違いをしておりますが、肝心なことはそれらが基礎学習であり、そこから個人が考え、自らの考えをまとめていく作業なのです。

 多数決というものは参加する人間が全く他人に影響されない強い意思や思想を持っていて、一切の利権といった思惑なしに正しく筋の通った議論がなされた結果であれば、最大多数の幸福が約束されるという意味で始めて価値を持ちます。しかし現実的にはそんなことはありえないでしょう。少数派が資金(スポンサーの利権)を用いたり、情報操作をすることで国民の多数の心を占領するからです。
 また、日本には厄介な別の問題があります。それは多数派こそ最大の民主主義であるというタイプの考え方です。つまり意見の本質で判断でず、多数派の意見かどうかが判断材料になることです。このような思考の蟻地獄に陥ってしまうと意見を発信する側も中身のある意見を考えることよりも多数派になることのほうが重要になり、悲惨な悪循環を生みます。それが現代政治です。また、日本において多数派に身をおくことは非常に有利となる現実があります。中身ではなく多数派であることの力学が自然と生まれているのです。

 曖昧かつ良いところのみを切り取る日本教の日本人は多数決が好きで,多数派に安心感を委ねますがこれは最も危険なことです。もちろん多数派嫌いの人は多く存在しますが、このような人も多数派の意見の矛盾点を指摘できずに多数派は嫌いだという単なる稚拙なアンチに過ぎません。多数決はきちんと本質的議論がなされて始めて意味を持ちます。ただの多数依存は議論を本質から逸らせてしまいます。多数派の意見かどうかというムラ社会的な発想を捨て、今こそ意見(政策やモラル)の内容を正面から考えるようにしなくてはならないと思います。

 株式投資でも同様ですが、多数派の論理に乗っては絶好のカモになります。買い踊りを煽るニュースやコラムは高値で株式を掴む投資家を募集しているに過ぎないのです。株価の上昇と共に株式投資セミナーに通う人間が増えておりますが、実に愚かな行為です。セミナーに参加するなら株価が大きく下落した時でしょう。セミナーの盛況は自ら考えを持たない拝金主義の愚民の行為に過ぎません。強い言い方ですが他力本願性は一切株式投資には通じません。

<サイト管理人> 2013年 5月29日記述



 【今日一日の人生と考えることもひとつの健全】第259回

 人間は何か悪いことがあると反転して良いこともあり、良いことがあると悪いことが起こるように思えます。結局この繰り返しです。例えば車を運転していると赤信号が連続して車が気持ちよく進まないことがありますが、それもせいぜい10分ぐらいのことです。しかしその後は青信号が続いたりします。とはいえ、徹底的に運が悪いこともあります。そんな時には仕方がないと諦めることが多々あります。これも前世との因果に関係しているのかと妙に輪廻転生に引きずられる人がいることも事実です。そんな人は全ては神様が決めることなどと都合のよい解釈から精神を解放します。人事を尽くして天命を待つなどというのはその典型でしょう。ありえない発想です。
 人間が出来ること、それは今日を何とか頑張るということであり、そして今日に感謝して寝床に着くことです。明日が来るかどうか、それは起きてみなければ判らないのです。

 思うに若いというのは辛いことだと思います。まだ将来があり、家族もいるので、自分一人の身ではないからです。だからこそ健康でいたいと思い、周囲に迷惑をかけたくないと思うのが一般です。しかし、歳を重ねると責任も小さくなってくるので、割合と気軽な状況に置かれるのが今の日本です。今日一日が何とかやっていければ良いのではないか、それで十分なのではないかという感覚が強くなっていきます。膝が痛いこともあるでしょう。腰も痛いこともあるでしょう。でも、考えようによっては気にもならない程度の些細なことです。何とか立ち上がれればその後は惰性でいけることが多いからです。社会福祉が充実した日本は楽な人生をおくれる環境が整っています。昨今のTPPや生活保護申請要件の改定は好ましいものと考えておりませんが、それでもまだまだ高福祉国家であることに変わりはありません。

 最近人生をよく考えてみる機会があります。私には何やら「繰り替えし」が目立つように感じられます。もちろん、朝飯、昼飯、風呂、洗面、トイレ、パソコン、ネット、テレビ・・・どれもこれも繰り返しです。この繰り返しも10回程度なら良いのでしょうけれど、人生を始めてからこのかたずっと繰り返しているのもですから実に退屈で、人生とは繰り返しとも思えてなりません。しかし、人生を一日で区切ると、繰り返しという概念も減ります。ご飯は基本的に3回、風呂も1回です。それなら新鮮で飽きることもないでしょう。人生は、その日の朝に始まります。そして寝るときに終わります。しかも、歳を取ると遠い将来を考えなくても良いし、回りの人に迷惑をかけることも少なくなります。病気が怖いのは、今日が怖いのではなく、明日が怖いから発生する感覚です。だから明日のない人生には病気は怖くないものです。今日一日、そう思うと自分に残された時間はあと何時間・・・、こんなことをしていても良いのかな?とも思いますが、結局、のんびりやろうかと完結することが可能です。

 大局でものを捉えなくてはならない株式投資に対して、今日一日を生きることに満足を覚えることは相反するものです。私が長期投資を勧めないのは人生を数ヶ月や数年で考える必要が産まれるからです。もちろんそれ以外の理由がありますが、出来る限り短いスパンで人生を区切れば精神的な苦痛も軽減されることでしょう。多くの方のトレードの方法も変わってくるでしょう。

<サイト管理人> 2013年 5月30日記述



 【世界中に手本となる国が無い日本について】第260回

 これまで日本は敗戦後の復興から高度経済成長を経て順調に発展し、多くの人が家電製品を求め、ローンを組んで我が家を持ち、そしてマイカーを買いました。ドイツは日本より少し早く優れた工業国となりました。それに対して戦勝国のイギリスはイギリス病で病み、サッチャー首相が登場して荒療治をしました。これらのすべては戦後に起こったことです。そして、ここが重要なのですが、日本とドイツは敗戦国であり、イギリスは戦勝国という点です。結局負ければ勝ち、勝てば負けるという歴史の循環性を示しているように思います。しかるに貧乏とは金持ちであり、病気は健康、そして不幸は幸福なのかもしれません。人間の行く末は明確な道があります。成功の先に破滅があるということです。ある意味で成功は失敗の始まりです。
 とはいえ人間は成功のための改善がなければ堕落してしまいます。それは人間の脳の構造から来るものですから、人間を止めなければ改善か堕落の道を進むしかありません。よって、それ以外の継続的均衡といった状態は存在しないでしょう。このことは平家物語に詳しく書かれていますが、ここで1000年前の著述を繰り返す必要は無いでしょう。

 戦後アメリカやヨーロッパの一部に高度成長の見本があった際は、日本の政治家や官僚、学者はアメリカやヨーロッパを直接見に行き国家の舵を切りました。そこに見本があるのだから、その通りやればよいという考え方です。その時には日本の「従順さ」と「適応力」、「開発力」が功を奏し、みるみるうち欧州を抜き去りました。ただ、抜いたといってもヨーロッパが目指した道に過ぎなかったのです。そのうち、欧州の工業主義的な思想が止まり、環境的配慮が優先的になった今、ヨーロッパと日本では前提となる環境自体が違うにもかかわらず、同じような政策や経済的発展を求めてこの20年を無為に過ごしてしまったといえます。欧州の問題はバルト海や北海のような閉鎖的な海域に対してのものであり、日本のように周囲が海に囲まれた国とは無縁の問題なのです。しかしながら、欧州の通りにするという日本の慣性力は留まることを知らず、全く異なる環境下で同じ環境目標と行動をとりました。

 そもそも今の日本には手本となる国は存在しないのです。アメリカやイギリスは既に中身のない金融立国になって貨幣の流通量をコントロールすることに重きをおいています。私観ですが、ヨーロッパには近いうちに第二の金融ショックが来るでしょう。これはドイツ一国の手腕にかかっている問題です。
 本来、日本にとっては手本が無い方が良いのかもしれません。明治維新以来、日本は常に未来に対する見本があって、それを模倣してきました。その過程で一つひとつのことを考えずヨーロッパがやっているから正しいという論理を採って来ましたから、現在は自ら考える良い機会といえるでしょう。他の国がやっていることを参考にするのは大切なことですが、それが正しいという証明にはなりません。だからこそ、私たち日本人は将来に対する見本の無い中で、自分たちがそれを考えなければならない時代をむかえているように感じています。まるで株式投資のようです。

<サイト管理人> 2013年 5月31日記述



 【争いと論理に縛られた私達について】第261回

 人は多くの思いを心に抱き、それぞれが心の襞を持っています。その大半は悲しみであり、焦躁感でもあります。それを理解してくれる友人というものは素晴らしいと感じます。なぜそれが適うのでしょう。やはり長期間同じ境遇や同じ時代の中で生きてきたからと思います。
 昨今、友人の心にある襞は厚く高くなっているようにも感じられていますが。何かちょっとした連絡があれば、それがどんなに複雑なことでも、友人の気持ちは何となく解ることは私にとってひとつの不思議です。

 もともと日本人はあまり質問をしません。相手の顔を見て笑い、その仕草で全てを理解します。外国人から見るとアジア人の笑顔は気味悪く見えるようですが、それは日本人が一瞬で外国人を読み取ることに対して、外国人サイドは日本人が何を考えているのか判らないからでしょう。日本人のこの優れた能力は欧州人の論理的主義からは実に不条理なことと理解されます。直感的に理解するというコミュニケーションの手法は仲間作りには良いでしょうが、知らない人との間やそれまでの環境が違う人との交際にはあまり良い方法とは思えません。

 日本は島国で単一の民族国家です。隣村との間には厳しい峠が存在し、多くの交流を阻んできたことから、多くの日本人の人生の大半は顔見知りだけとのつき合いでした。静岡の山はかなり深く、町から1日ほど歩くと森に覆われた集落に出るような地域が多く存在します。江戸時代は当然として、明治時代や大正時代でもその集落の女性は一生の内一度も峠を越えて繁華街に出ることの無かった人がほとんどでした。 そのような生活では、外部から来た人には、出来る限りの歓待をして、彼らの珍しい様子を観察することに終始したことでしょう。山間部の人々は時間的にも人間的にも言葉でコミュニケーションすることは不可能に近かったのです。ですからひたすら観察したのです。好奇心が旺盛で直感力の優れた日本人は観察こそが最善の接触方法だったことでしょう。

 現代の日本文化は欧州を発祥の地にしたものが多くなっています。江戸時代まで続いてきた日本文化が全て無くなってしまったわけではありませんが、既に日本文化より欧州文化の方が数の上では多くなっている現実があります。
 ヨーロッパは異民族の争いと交流の中で文化を発達させてきました。ですから争いと論理の世界です。決して広いとは言えないヨーロッパに多くの民族が住んでいるのです。アルプス山脈やピレネー山脈などもありますが、大半は平らで異民族の間にも大きな山や川はありません。そんな中での生活から自己という概念や論理、コミュニケーションが発達したのも無理はないのです。日本人が欧州の文化を取り入れることで失いかけていることは言葉を超えた観察というコミュニケーション能力と相手を察する心です。その能力を失いかけた私達は論理を身につけ、権利を主張し、お互いに奪い合うという世界に身をおかなければならないのです。株式投資はそうした一面を持っているような気がします。そもそも日本的な従順感覚で株式投資に望めば失敗をすること必定でしょう。

<サイト管理人> 2013年 6月1日記述



 【現代の戦争とは経済戦争でありいつも犠牲は国民】第262回

 大東亜戦争時、アメリカと戦争しても勝算が少ない中、大きな資金を投入してきた満州や中国から手を引けば、今よりも大きな国土を確保できたことでしょう。しかし、アメリカが日本の代わりに中国に侵略したことでしょう。当時は力のある国がその無い国を支配するのが当たり前の帝国主義時代です。アメリカはフィリピン、オランダはインドネシア、イギリスはシンガポールやインドを植民地にしていました。
 アメリカは経済封鎖で日本経済を壊滅状態に追い詰め、結果日本軍はパールハーバーを奇襲してアメリカ軍に対して先制攻撃をしました。私は戦争を肯定しませんが、こうして考えると経済封鎖と戦争は何が違うのでしょう?

 経済封鎖を行うことでその地に住む人々を餓死させることは簡単です。国民の生活に欠かせない物資が途絶えることは死を意味します。日本は韓国にレアガスや石油系燃料を大量に輸出しておりますが、それをストップすれば韓国経済は壊滅します。モノが作れなくなるのです。韓国には日本のような石油メジャーはありません。これを行うことはWTO違反になるとの指摘もありますが、竹島を不法占拠している現実がある以上、安全保障上の問題を抱えている国に制裁を加えることは法律に反しません。
 結局経済封鎖で最初に死ぬのは国民の内でも弱い立場の人々です。経済的弱者であり、それは子どもや老人でしょう。家族である子どもが餓死するのを見るぐらいなら、親足る自分が戦争に行って死ぬ覚悟を決める人が多いのは正義心に通じるのではないでしょうか。

 話を戻しますが、残酷さや非人間性は経済制裁でも戦争でも同じなのです。経済制裁というものはあたかも平和的な手段に見えますが、経済という力を利用した恫喝と言えます。戦争は軍事力を利用した暴力です。それに加えて厄介なことに、二つの国があり、お互いに正しいと言っているとどちらが正統かは国際司法裁判所の判断以外決められないのです。
 太平洋戦争の時には、アメリカは日本が間違っていると言い、日本は自分たちは自国の利益の為にと言いました。現在、日本は北朝鮮が誤っていると言い、北朝鮮は正しい国策だと言っています。それぞれ自分が正しく相手が間違っていると言っているだけで、本当に正しいのがどちらかは決まっていません。イラク戦争でもそうでした。力の強いアメリカの方が弱いイラクに爆撃を行い、住民を殺し、傀儡政府を作り、フセインを裁判にかけます。結果大量破壊兵器が見つからなくてもイラクを実質的に統治しています。もしアメリカが正義を元にしていて圧倒的な軍事力で占領していないのなら早期に完全撤退できていたことでしょう。

 私は経済制裁は戦争と同じ行為と思っております。縄で首を絞めるのも原子力爆弾を落とすのも同じだろうと考えています。人間には悔しいことがあります。辛抱してもならないことがあります。しかし平和というのはそれを乗り越えて妥協する事を意味しています。

 国の体制を守るのは大切なことです。でもそれは国家全体の威信というより日本人一人ひとりが誠実であることで獲得されるものではないでしょうか?北朝鮮が暴力で拉致をしたことに対して、日本が経済という暴力で北朝鮮に圧力をかけたら、それは相手の土俵に乗るだけです。そして苦しい思いをするのはいつも名も無い庶民です。たいした罪のない庶民が錯覚に陥り指導者の意地の犠牲者になるのです。
 これは株式投資にも通じます。圧倒的な資金力を有するヘッジファンドの餌食になるのは経済的資金に乏しい個人投資家なのです。そして、ヘッジ対個人の戦いは長期戦では敵いません。

<サイト管理人> 2013年 6月2日記述



 【目的をもつと結果が逆になることを考える】第263回

 人生というものは実に不思議で、"目的"を持って行動すると期待した結果と"逆の結果"もたらすことが多いように感じています。なぜそのようになるのか常々不思議に感じてきたのですが、今回はそのことを少し考えてみようと思います。

 まず人間は目的を達成する過程で、当人が思い描く世界は「他のものが一定で目的だけ達成した状態」になるのですが、実は目的が達成された際には、その他のものも一緒に変わっていくことを理解できません。つまり、目的が適うにはそれなりの外的な理由があり、自分も変わりながら状況も変わっているということです。
 1980年頃、静岡県の地方都市(藤枝市)では家を買うために必要なお金は1500万円程度でした。ですから頭金を用意するために500万円を預金しようと必死になった方も多かったと思います。そして彼らは子育てを行いながら一年間で50万円ずつ貯めようと決心します。当時は資産バブル期ですから貯蓄ペースも速くなり利回りも良く、6年後に頭金の500万円が出来たとします。予定よりも随分早く目的が達成されたのです。ここで彼らは家を買おうと思うのですが、頭金が不足しているという事態に直面します。所得の増加に比例して生活費(子育て費用)もかさみ、住宅価格も大幅に上昇していたのです。1500万円で買えるはずだった住宅は4000万円になり、必要な頭金は1500万円になっていたのです。これはせっかく目的を持って効率的に貯蓄したにもかかわらず、結果は逆のものとなってしまったひとつの例です。

 そもそも、人間が心に抱く"目的"というのはとても曖昧で、外的要因に左右されるものであることから、その"結果"は目的とは程遠いものとなることが多いのです。そんな経験をした私達の大半は、いつの頃からか"目的"を持たずに生活をするようになったとは言えないでしょうか。それまでは何か"目的"がなければ努力できなかった状況であったにもかかわらず、"目的"を持たずに生活をしてみても何となく充実感が得られるのです。結果、毎日の生活では何をもたらすかを考えずに、ひたすら真面目に生きることだけを心がければ済むようになりました。

 快い人々は自分の為ではなく人の為に力を尽くすことを想います。朝起きて「今日も真面目に生きよう」と無意識的に決意します。「何をするか」であるとか「何を目的とするか」などといったことは考えません。とにかく「今日やるべきことを真面目にやる」とことだけを決めるのです。そして一日が終わると「今日も充実した」ことを感じ、テレビを見て寝ます。
 現在の人々は信念や目的がありませんから、成功や失敗ということを忘れているのかもしれません。ただ、自分に出来ることをやったという思い込みだけで、成功や失敗というような与えられるものには気を配らないことでしょう。

 先述の住宅頭金の例ではありませんが、目的と結果が異なるのは当たり前と考えるべきです。逆になることはしばしばです。しかし目的を持たない人間は信念や思想を持たず、目先のことにしか気を配ることしかできません。将来の予測は当てになりませんし、ましてや明日の株価の予測などは不可能です。しかし、将来こうしたいという強い思いや、投資で利益をあげたいという思い自体が目的に繋がり、学習を行うことに繋がり、人としての能力の伸長に繋がると想うのです。結果が逆になっても得るものは多くあります。一日を真面目に生きることは大切な問題ですが、それプラス目的を持って生きることは有意義な人生を送ることに繋がると想うのです。リスク管理という観点はこの状況から生まれるものと思います。

<サイト管理人> 2013年 6月3日記述



 【幻想に生きる私達について考える】第264回

 個人が感じる"多いや少ない"と、世界的に見た"多いや少ない"とはかなり違います。例えばある人が海岸に立つと「海はどこまでも大きい」と感じますが、それが日本海であるならば世界の中では大きい海域ではありません。日本の国土は37万平米で、人口は1億人を超えますが、これらの数字は個人が感覚的に理解できるものではありません。かく言う私も東日本大震災の際には日本は終わったと感じたものでしたが、日本の生産力や経済力はそれをカバーして余りあるものでした。そこに住む皆様には申し訳ないと思いますが、復興により需要が生まれ、全体としては日本にとってメリットのほうが大きいと解釈することも可能です。

 人間は踏み込んで考えてみると多くのことが"事実"ではなく"幻想"であることを知ります。自分が実際に目にしたことは事実と思われても、一歩を引いて物事観ると、事実と異なることは政治、経済界、自然界を問わずいくらでもあります。 人間は実に視野が狭く、自分勝手な生き物だと思います。もちろん私などその最たるものです。

 話を具体的なものに振り替えますが、現在日本の製品に含まれている有害物質は規制値の1万倍以上のものが多くあるそうです。高度な工業製品には多くの有害物質を含んでいるのでしょう。ちなみに、明治時代以前のように余り多くの工業製品を使わない時には毒物も限られた使い方がされていました。
 工業技術が発展しなければヒ素やカドミウムなどの有害物質を使う用途を見つけられませんので使用する必要がありません。水銀は神社仏閣に多く活用されましたが、量が少なかったり使う時が限られますので、水銀中毒という症状はみられませんでした。
 有害とされる鉛はどのレベルの有害物質に規定されるのかが明確化されていません。ガソリンのノッキング防止剤として用いられてきましたが、20世紀の中盤にそれが大気中の鉛濃度を高めて子供に聴覚障害を起こすことが明らかにされたことから使用が控えられています。鉛を用いないはんだを用いた製品が多い昨今、ウィスカ現象という副作用がみられるようになりました。鉛が混入されていないはんだは何らかの原因でヒゲのように伸び出し、回路間を結んでしまう(ショート)現象を起こします。基盤を持つ製品が突然動かなくなる原因のひとつとして大きな問題となっています。私自身自動車部品関連のメーカーに勤めていた時にはウイスカ現象の発生要因を研究しておりました。
 日本では鉛を明治時代より上水道の水道管に多用してきました。鉛は水にほとんど溶けませんので障害が出なかったのか、それとも鉛が多少水道水に溶け込んでも、人体が許容する範囲にあったのかは明確になっていません。

 子供を持つ主婦層を中心に社会は有害物質について常に敏感になり、鉛のような物はその対象になりやすいでしょう。社会は有害物質についての情報を歓迎する性質を持っているからかもしれません。間違えた内容であっても理解しやすければそうであると思い込み幻想に生きるのが人間なのでしょう。鉛は人間の身体に対して、どの程度なら無害であるのかは解っていないのです。解からないものは使わないというのがリスク管理の観点からは重要ですが、効率を阻害することは間違いありません。何でも有害物質に仕立て上げ、その幻想に浸るのは簡単ですが、大切なことはその有害物質とされるものがどの程度の量で人体に悪影響を及ぼすのかを研究することではないでしょうか。これは放射性物質についても同様の問題です。

<サイト管理人> 2013年 6月4日記述



 【韓国経済を左右できる日本と日本企業について】第265回

 私は左翼とも右翼とも言われますが、リベラルな人間でありたいと考えています。ただ、マルクスも好きですし、その矛盾も浅はかながら理解しているつもりです。マックス・ウェーバーの著書を読み、今の日本の歪んだ社会主義的な資本主義にも疑問を抱いております。日本教に縛られた日本人についてです。そんな私ですが、今回は保守的なコラムを書いてみようと思います。それは韓国を簡単に破綻させる方法です。

 まず、韓国の現状は若者の50%程度が就職できず、高齢者の自殺者が右肩上がりになっております。GDP比で7%程度しか社会保障に財源を回していないことが大きな要因でしょう。日本は15%程度ですから、韓国の社会保障サービスがいかに劣悪なものであるかわかると思います。また、韓国のGDPの内75%程度が財閥の売上げによります。2,3年前の古いデータですが記述します。

<韓国のGDPは946兆1000億ウォン>
・サムスングループ 270兆ウォン
・現代・起アジアG 155兆ウォン
・SKグループ 110兆ウォン
・LGグループ 85兆ウォン
・GSグループ 51兆ウォン
・現代重工業G 47兆ウォン
・ロッテグループ 43兆ウォン
・その他、ハンファG,韓進Gなど

上記から解かることは、韓国は完全な財閥経済であることです。そしてサムスンにせよ現代にせよ輸出系企業ですから、GDP比で見てわかるように携帯電話や自動車、船舶、鉄鋼、家電製品を海外に売り続けなければ経済が破綻する構造になっています。それだけ内需が貧弱で、外需依存であることを証明しています。ですから為替には敏感にならざるを得ません。昨今の円安・ウォン高は韓国にとっては切実な問題でしょう。
 また、韓国の銀行はウリ銀行以外全て外資系の銀行になっています。そして外資系の銀行はいつショートするかわからない債権を韓国国内に受け入れ、アメリカ国債や日本国債、ユーロ債などを自国に引き上げています。劣悪な債権を抱えた金融機関自体も決して健全な状況ではありません。ちなみに、韓国の外貨準備額は米国債に関して言えば確か500億ドル程度です。全体としては3000億ドル程度だったと記憶しています。この中にはサブプライムローン債などのジャンク債も多く含まれています。日本は1兆1000億ドル程度で、中身は健全な債権ばかりです。

 さて、今回のテーマである韓国経済を破綻させる方法ですが、日本には何十の方法があります。その中で解かりやすいものを3つ書きます。

(1) レアガスの輸出停止
(2) ガソリンの輸出停止
(3) スワップ停止

 まず、(1)ですがレアガスとはレアアースと同じように半導体関連の企業活動には欠かせないものです。そして純度が高くなければ使い物になりません。これらのほとんどを日本からの輸入で補っておりますが、これをストップさせれば全ての財閥系企業が操業できなくなり、経済は簡単に破綻します。
 (2)については韓国には石油メジャーがありません。日本には国際定石を筆頭に、JXHD、出光興産、昭和シェル石油、コスモ石油、AOCHDなどといった世界中に権益を持つ大手が存在します。そしてこれらの企業が生産したガソリンは韓国に輸出されているのです。それをストップさせれば(1)同様企業活動は完全に停止し経済は破綻します。
 (3)については当たり前ですので解説しませんが、日本がどのカードを切ってもサムソンや現代、LG電子は簡単に潰れるでしょう。いびつな経済構造を持っているからです。逆に言えば日本のソニーやパナソニック、シャープを救うことにも繋がる大きな問題です。保守的に考えて日本企業ひいては国民を国家が徹底的に守るのであれば韓国経済を意図的に破綻させても異論は無いはずです。(1)や(2)を行うことは明らかなWTO違反になりますが、竹島の問題で安全保障の問題を抱えている以上法規には反しないでしょう。国際的に明白な二国間紛争が存在しているからです。

 そもそも、経済的な問題を安全保障の問題よりも上に持ってくるのはおかしな話です。安全保障が先にあり、その下に経済交流があるのです。韓国は竹島の問題で実効支配を続け、従軍慰安婦問題で日本を攻め続けていますが、経済は完全に日本に依存しています。明らかに順番が違うのです。韓国国民が日本という国が自国を簡単に破綻させられるだけの力を有していることを自覚すれば安全保障の問題も歴史的な問題も解決へ向かうと思うのです。日本サイドからの恫喝ではなく韓国という国の立場を自らが考え、譲歩する部分や対話する部分をしっかりと考えなければ進む話も永久に進まないのかもしれません。日本は韓国経済を破綻させるカードを何十枚も持っています。それをちらつかせてから多くの交渉するような卑劣な方法は取ってほしくありませんが、いずれはそうした自体に陥るのでしょうか。

<サイト管理人> 2013年 6月5日記述



 【株高頼みのアベノミクスの終焉がもたらすもの】第266回

 最近の景気感の裏にある危険な兆候について何も考えず投資に走る人々が後を絶ちません。マスコミがこの金融緩和政策を賞賛することに私は強い危機感を覚えます。確かに政府は5月の月例経済報告において景気の総合判断を上方修正しました。これはアベノミクスがそれなりの成功を収めたとも言えなくはありません。しかし企業の設備投資はリーマンショック前に比べればとても弱いものであり、結局アベノリスクは株高や円安に影響したに過ぎません。結果として貨幣価値が目減りし、預貯金で現金をコツコツと積み立てている人々にとってはむしろ逆効果をもたらしました。円安によって貨幣価値が下がることの意味は簡単で、私達の「円」預金は世界的に見て20%程度減ったこととなります。強い円は強い国家の象徴であるにもかかわらず、円安を歓迎するムードは危険なことと思います。この辺りのことは以前のコラムから書いておりますが、最近長期金利の上昇がますます顕著になってきました。変動型の住宅ローン金利は0.1%〜0.2%上昇しておりますが、これは現政権が最も避けたかった展開でしょう。国債発行残高が1000兆円にも膨らんだ今、国債価格の下落はその利払いだけでも大変な金額になるからです。にもかかわらず無能な日銀総裁は景気上昇局面では長期金利の上昇は当然ついて回ると言い退けます。景気の上昇の担保は何も無いといってよいのです。債券市場が制御不能になっているにもかかわらず、それを認めないのです。支離滅裂としか言いようがありません。
 株式市場や不動産市場に資金が集まるような煽り方をすれば、利回りの低い国債から資金がますます逃げ出し、株や不動産に投機されるのは当然の成り行きです。このままいけば日本国債の神話を政府主導で破壊しかねません。日本国債神話とは日本の国債は日本人が持っており、彼らは国債を売らないとうものです。これは日本はギリシャ化しないというプロパガンダに過ぎません。政府の負債は国民の負債ではありません。国民は債権者なのです。外国人が債権を持っていようが日本人が債権を持っていようが、完全に信認を無くせば売りが売りを呼ぶこととなります。
 為替についても、制御が効かなくなっている感があります。円安の方法はあっても、円高へ振れさせる手段を心得ていないのです。そんな切迫した状況が早くも露呈しているのが今のマーケットに反映されているように思えてなりません。

 今後起こりうる最悪の状況はスタグフレーションです。投機的な商品価格が上がる反面、大半のモノの値段が下がり、所得は増えないという現象です。マスコミは今回の金融緩和を契機に設備投資や個人消費の拡大が起これば、経済は復活するといった報道しますがこれは間違いでしょう。現政権と日銀が一番の目標とするのは、一般物価の上昇局面を発生させることによるデフレからの脱却です。言い換えれば、彼らは中小企業が設備投資を積極的に行ったり、私たち庶民の消費が増えることを、狙ってはいないと思えてしまいます。
 金融緩和の結果、株や不動産などの資産だけがバブルに沸き、私たち庶民の毎日の生活に関係するモノの世界ではデフレが続くという、本来ならば起こりえないスタグフレーションが日本経済で起こってしまいかねません。今はその入り口に立っている状況ですから、引き返せるのではないかとも感じておりますが、無能な首相はそのことを理解できないようです。結局、現在の政策で恩恵を受ける人間は、株や一等地に不動産を持っている富裕層だけになります。
 株式投資を行う私自身がさらに恐怖を感じるのは、富裕層とは言えない人間も、生活資金や生活防衛資金を株や不動産に回しかねないということです。そのような状況が発生し、実体の伴わない資産バブルが崩壊すれば日本は世界からの信認を無くすことでしょうし、多くの人間が厳しい生活を強いられることでしょう。
 株はこれからも調整局面を超えて上がり続けるという掛け声に押され、投機に手を出した個人が損失を被る事態がなるべく小さくなレベルで収まることを願ってなりません。

<サイト管理人> 2013年 6月6日記述



 【今の金融政策を何度でも否定せざるを得ない理由】第267回

 為替が昨年に比べて急激な円安となり、株式も値を上げているのはなぜでしょうか。多くの方はアベノミクスの内容についてテレビ特集などをご覧になっているので、おおよその概要は理解されていると思います。私は基本的に自由民主党の支持者ですが、現政権が日銀を政府の出先機関のような存在に仕立てて中央銀行の独立性を無視し、金融緩和を強行できる体制にもっていったことを一切評価していません。中央銀行の独立性を損なうこのやり方は、資本主義の精神からすれば邪道であり、日本はいつから独裁国家になったのかと感じざるを得ません。

 金融緩和を行なって市場に大量の資金を回しても意味が無かったことは過去に証明されておりますが、今回の日本銀行が市中から引き受ける国債量の桁が違いました。これは国債マーケットから銀行や機関投資家を締め出すことを意味しています。結果として国債市場は混乱し10年物の利回りが不安定な状態になりました。日本銀行は金利を抑えるつもりで引き受けを行う予定だったにもかかわらず、当初の想定から外れた金利を示したことから、国債の買い入れを適時行い金利動向に注視せざるを得なくなりました。不健全な環境に対する重荷を背負ってしまったのです。

 リフレを推奨する人はデフレの解消が全ての経済問題を解決すると勘違いしているようですが、日本のデフレは全産業において発生しているわけではありませんし、モノの価格は国際的に決まる昨今、金融政策を行ったところで円安による資源価格上昇に伴う一部的なインフレーションに終わり、それを継続させることは不可能でしょう。そもそも家電や衣料がなぜデフレ状態になるのかですが、多国籍企業による生産拠点のグローバル化が大きな要因です。労働を集約する形の産業は人件費の安い国へと次々とシフトし続ける為、価格は常に低下されていくのが原則です。円高がデフレ要因と言われていますが、家電業界などの産業構造を考えれば、実際はグローバル化による低価格競争が主要因であることをもう一度考えるべきです。ここに来て円安政策を取ることは日本企業の海外企業に対するM&A費用を増大させることにも繋がりますから、産業界も両手を上げて喜べるものではありませんし、急激な為替の変動は内需系企業の資材価格上昇が収益に悪影響をもたらします。成熟した内需系企業は私達の生活に直結する製品を製造していますから、小麦粉やパン、家庭用調理油等の相次ぐ値上げを招きました。

 自動車産業を中心に一部産業の輸出が好調になったところで、非正規雇用の規制が緩和されその社員数が増加すれば、労働者の賃金の上昇は望めず、貨幣の回転速度が上がらないことからデフレの根本原因はなくなりません。デフレが悪というならば、金融主導の資産インフレは桁違いの悪ですから、低所得者層にとっては現状よりも生活水準が低下することを意味します。好ましいのは現状維持の緩やかなデフレ下における行政改革や構造改革であり、財政健全化です。そして、最も好ましいのは国民の多くが消費にカネを回し経済が健全に成長することです。経済は何事も自然に進むような形を取った方が良いのです。政府日銀は株式市場や土地をバブル化させ、無理やりに個人のカネを回転させよう(消費に向かわせよう)としていますが、実態経済はそう簡単に改善しませんから、このままの状況が続けばこの先暮らしにくい日本が待っていると思います。ある適当なレベルで落ち着いてくれれば良いのですが、それはいつになることでしょう。

 現状は円安+株価上昇の他に、EUが何とか経済のバランスをとっていることも輸出企業の業績にプラスの影響を及ぼしていると思います。外需の回復が少なからず日本企業にプラスの影響を与えていることも否定しません。しかし、欧州の金融不安は何も解消されていません。ドイツ一国が全てを背負っている状態です。ギリシャの問題も先送りですし、スペインやイタリア、フランスの財政状態も年々悪化しています。アメリカも産業の空洞化に頭を悩ませており、経済が回復局面にあるような報道がありますが、本来目指すべき産業立国ではなく、金融立国の体を取り戻したに過ぎないのです。つまり、ユーロやアメリカは依然多くの問題を抱えている状態です。金融不安が再燃すれば、円キャリーや日本から海外での運用債権は円買いへと逆流するでしょうから、また、昨年の為替水準に戻る可能性はあります。しかしこれは正常なことと思えるのです。

<サイト管理人> 2013年 6月7日記述



 【怒りっぽいと結果として損をすることについて】第268回

 このことろアベノリスクについての記述が多いので、少し日常的な内容を変えてみようと思います。今回は怒りやすい人の寿命が短くなることについてです。このことは以前からよく知られていますが、イラッとなった際、心臓から送り出される血液の量は数倍になると言われています。つまりは血圧が上がるということで、脳出血や現代病ともいえる脳梗塞にも繋がる問題です。そもそも人は、なぜイラッとするのでしょうか?
 他人に対して怒るということは、直接的に殴られた時をなどを別にすると、「あの人はおかしい」と思う時、「自分が正しい」と誤認する時でしょう。これが何で「誤認」かというと、相手と自分の考えが違う時に、「この人は間違っている」ということは、その相手からすると「自分が間違っている」と指摘されていることと同じだからです。つまり自分で自分の正しさを勝手に決めて、相手に怒りを覚えているに過ぎないのです。そもそも相手には相手の言い分があるのです。このように言う私ですが、相手がロジカルに物事を語らないケースでは怒りまでは行かないまでもイライラの感情を抑えることが出来ません。しかし、そんな時には心を抑制する方法があります。

1.イラッとしているけれど、この問題は大切なことだろうか?
2.イラッとしているけれど、怒るほどのこと?
3.イラッとし来ているけれど、自分で直せることだろうか?

おおよそは(1)の段階で終わることが多いのですが(3)まで行ってまだイラッとしている人はそれほど多くないでしょう。そもそも「正しいことは、他人が判断すること」です。正しいこととは、
1)偉人の偉業、2)相手の考え方、3)法律の3つから決まるのです。自分は偉人でも無いのに、なんで独断でこれは正しいことと決められるのだろうか。このことは思考レベルでは解かるのですが、なかなか実行に移せないのが実状でもあります。

 イラッと来ると急に血圧が上がりそれで命を落とすケースもあります。そんなことは大半の人が解かっていますが、今日もイラッと来て反省する人が後を絶ちません。私もその一人でしょう。もう、絶対にイラッと来ないようにしようと何千回思ったことでしょうか。でもまた今日もイラッとしてしまったと就寝前に反省します。しかしそれが人間なのでしょう。逆に、人間は"修養"によって有意義な時間を過ごすことが出来るのも同時に成り立ちます。イラッと来そうになったら、これは大事なのだろうか?、相手の考えや行動を無理にでも変えられるのだろうか?と思いながら心を静めるのが良いかもしれません。それがやがてパターンになり、あんなに暗い毎日だったのが明るくなると思うのです。私には難しい問題ですが、冷静になってみると自分が精神的に追い詰められるからイラッと来たに過ぎないというケースも多くあることに気付かされます。

 それでもまだ政府の政策にイラッとくる私は冷静さを失っているのでしょうか?それともイラット来るだけの重大の誤りを政府が政策として行っているのでしょうか?弱者を犠牲にする政治は認めたくありませんが、経済的強者が経済を牽引し、それがやがて経済的弱者に利益をもたらすコンマ以下の可能性を信じるべきなのでしょうか?何度考えても私には格差が広がる馬鹿げた政策にしか思えず、苛立ちを抑えられない毎日です。こんなイラッ感覚を長く引きずることとなればきっと寿命も縮まることでしょう。皆様はいかがですか?

<サイト管理人> 2013年 6月8日記述



 【自分ではなく相手の身になって考えること】第269回

 相手の身になって考えることはとても難しいものだと感じています。例えば新幹線の自由席に乗る時には誰よりも早く並ぼうと思うのですが、一歩引いて考えてみると、自分が座れば誰かが立つ可能性がありますから、並ぶという行為は座りたい人の席を奪うことに繋がります。考えすぎかもしれませんが、私に座席を奪われた人は年老いているかもしれませんし、体の調子が悪いかもしれないのです。日常においてこうした例をあげればきりがありませんが、結局どんなことでも自分中心に生きると見えない部分はそれだけ多くなるということです。何でも価値観や効率という言葉で逃げる人が多くなった昨今では通じない概念かもしれません。押し付けがましいと感じる人もおられるでしょう。私はおせっかいであれ相手の身になって考えることは結果如何に関わらず大切と考えています。ただ、こうしたことは歴史的にも通じる問題であって、江戸時代の人はどう感じていたであるとか、明治維新に関わった人はどう考えていたのかを思うと、随分見方が変わることに気づかされます。

 ある日ペリーの乗った黒船が浦賀沖にやってきて、日本に開国を迫る事件がありました。今はグローバル化の時代ですから、開国は当然のように思いがちですが、この時代はまるで違います。独立国家にはその国の方針があり、江戸時代の日本は鎖国政策を取っていました。その経緯は記しませんが、いずれにしてもそれが良いことであり当たり前だと判断していたわけです。ただ、鎖国は日本にとっても不都合な面もありました。食糧も生活用品も、全てを自国で調達しなければならなかったからです。そもそも長崎での一部物品のやり取り以外貿易がありませんでしたから、外国に頼ることができないのです。こうしたリスクがあるとはいえ、ある意味立派な国の方針であったことは確かです。自分の国のことは自分達で切り盛りするということを「悪」などと断定はできません。とどのつまり究極の保守主義政策だったのです。
 その一方でアメリカは捕鯨の為に太平洋を航海していた際に日本の存在を知り、捕鯨船が立ち寄る場所としては都合よいことから、まず琉球王国に上陸し、その後で浦賀にやって来ました。彼らの言い分は「自分達には寄港地が必要なのだからどこか港を使わせろ」です。そしてそれは平和交渉ではなく、黒船と大砲プラス軍隊をもって威嚇するという方法で実行されました。
 平和主義の人から見るとペリーの浦賀来港は強圧的かつ差別的であり、とても許されるものではないのでしょう。現在の私達の尺度ではなく、その当時の日本人(相手)がどんな感じを持ったかを学校教育でも冷静に考え、教えてみる必要はあると思うのです。教科書を暗記して終わりではいささか納得がいかない大きな問題です。平和の下でそれなりに暮らしていた日本人は、これから訪れるであろう世界戦争の時代と言いますか、強制的に戦争に巻き込まれる時代に対して大きな不安を抱いたと解釈すべきと思います。

 相手(当時の日本人の文明水準)を軽く考え、白人を崇拝するという現代的な感覚から見るのではなく、その時の日本人の身になって考えることで始めて真実が観えるように思うのです。株式投資でも損失を出す人が後を絶ちませんが、彼らを侮蔑するのではなく、何故彼らは損失を出してしまったのか、もっと言えば出さざるを得ない状況に追い込まれたのかを、その人の身になって考えることが大切に思います。これは同情の念や正義心からではなく、そんな相手の身になって考えることから、自分自身が同じ失敗をしないことに繋げられるとともに、彼らの感じた、または感じているであろう恐怖感を知ることにも繋がるのです。考えることは結果として彼らの損失を少しでも減らす為に役立つ問題かもしれません。

<サイト管理人> 2013年 6月9日記述



 【私が父親から教わった貧困を誇るということ】第270回

 私の父は戦後生まれの現役の建築家ですが、私が父から教わったのは「建築学」ではなく「武士道」だったように思います。新渡戸稲造の武士道には「武士道は貧困を誇る」とありますが、まさに父に教育されたのは「貧困」というものでした。私達家族の生活は貧困状態にありませんでしたが、それでも貧困について徹底的に教育されました。

 私が学生の頃私の家がどの程度裕福だったのか、金銭感覚の乏しい私には正確には把握できませんでしたが一般建築業を行っており、資産バブルを迎えていた頃ですから比較的余裕のある生活を送っていたように感じています。ただ、父は極端にお金の話をすることを忌み嫌いました。当時は毎月の報酬が現金で本人に渡されていましたが、父は会計に給料を取りに行きません。自分の手でお金に触れるのが嫌だったようです。仕方なく母親が持ち帰りました。そんな父でしたから、私には「貧乏の大切さ」を徹底的に教えました。小さい頃、私の勉強部屋は増築した小さな部屋でした。勉強をするのと眠るだけの広さしかありませんでした。そこで脚の下に電気ストーブをおいて寒さに震えながら毎日勉強したことを記憶しています。

 父親の教育の中心は「貧乏」でしたが、義,勇,仁,礼,誠などの徳目も鍛えられました。「訪問する際には必ず15分前に行って、約束の時間にドアベルを押しなさい」と習い、今でも私は1時間ほど前に約束の場所に行ったりしております。これも子供の頃に受けた教育の結果かもしれません。早めに行かないと落ち着かないのです。これはもう身体に染み付いてしまっているようです。「誠」も父の教育の中心で「証文は一切取りません。口で言ったらそれを守る」ということも徹底して鍛えられました。言ったことがすべてで、それに反することは許されませんでした。

 私も今では多くの業種を経験した後、建築関連業務に携わるようになりましたが、国立大学にいる時に、同期の学生に「国立大学は税金で運営されているのだから、学生が講義をさぼってアルバイトをしたらお金の二重取りをしていることにならないのか?という質問をしたことがあります。残念ながら相手は理解できないようでした。

 私は国立大学を修了したので、社会に出たらその分だけ恩返しをしなければならないと信じています。しかし、恩返しをしなければならないと考えるか、決して優秀ではないからこそ死ぬまで努力してある程度のお金を貰っても当然とするかのどちらが正しいかは今でも解かりません。ただ、35歳を過ぎた今でも新しい分野の学習を毎日続けております。それが努力や社会への恩返しに繋がるものと信じているからです。なお、私が恩返しをしなければならないと思うのは、父の教育を受けてそれが身に浸みているからでしょう。その判断は感覚的なもので論理ではありません。

 多くの人がそれぞれ違った少年・少女期を過ごします。そこでどういう教育を受けるかでその人の感覚が決まり、これは正しいこれは間違っているという判断の根拠になっているような気がします。すでに私の体質は変わらないのかもしれません。私は昭和51年生まれであり、昭和22年生まれの父とは違いお金を自分の手で触ります。株式投資も年に数回行います。経済情勢が大きく変わってしまったからです。しかし父が教えてくれた心は宿っていることでしょう。
 私の知り合いのお金持ちがある時、お前は頑固でどうにもならない。お金で動かないヤツほど困ったものは無いと言ってくれました。道理を重んじては堅苦しいと言われたわけです。私にとっては大きな賛辞でしたが、このことが私の言動が理解されない一つの原因になっているような気もします。何でもお金の世の中になってしまった現在、お金は賤しい、貧乏を誇るという考えは永久的に正しいように思えてならない今日この頃です。

<サイト管理人> 2013年 6月10日記述



 【10年後に所得が150万円増えるというプロパガンダ】第271回

 安倍首相は6月5日の午後、成長戦略の第3弾を発表しました。大きく分けて以下の三点です。

・大都市の国際競争力を高めるために"国家戦略特区"創設する
・"市販薬のインターネット販売を認める
・国民総所得を10年後には150万円以上増やす

 政府の成長戦略で150万円以上の増加を目指すのは1人当たりの国民総所得(GNI)です。日本企業や国民が国内外で得た所得の総額を指していますので1人当たりに換算しても年収とは異なるのです。首相はこのところ複数回の演説を行い、何箇所かで「年収」や「平均年収」「1年間の収入」「国民の平均の所得」と説明が変わっっていますが、用語を理解しているのでしょうか?とりあえず今回は平均年収ベースで考えてみます。

 平均年収の動向は経済と密接な関係を持っています。日本では終身雇用制度が根強く残っておりますから、一度賃金を上げると下げられないといった固定観念が働きますので、企業側は賃上げを行いたがりません。これは企業に責任があるのではなく、成熟経済の日本が抱えている宿命といってもよいでしょう。ましてや先行き不透明な現在の経済状況ではなおさらです。業績が本格的に回復し、かつ先行きの見通しが立つまでは賃上げを行うことは難しいでしょう。一方で雇用動向は徐々に回復基調にあることも事実ですが、大半の企業が生産余力がある状況ですから、新規に設備投資を行っても生産余剰力(管理・維持費)が増してしまうか、生産の効率化から求人が減る事態を招く可能性があります。本来は需要が起こり生産が増えて雇用が求められ、それにつれて自然と賃金が上昇するのが望ましいのです。強制的に金融緩和を行い、金融機関が日本銀行に持つ当座預金額を増やしたところで良いことは何もないのです。貨幣価値の下落を招き、余剰資金はリスク的な金融資産に向かうだけでしょう。

 現実を観ない総理は今後十年間で所得を平均で150万円増やすと言いましたが、大きく現実と乖離しています。そして一方では年金の支給開始年齢の引き上げ論議がなされ、支給額の減額も示唆しています。一体何を言っているのでしょう。私には全く理解できない考えです。「働けなくなった高齢者は死んでください」と言っているようにしか聞こえません。参考までに国税庁の平成23年度民間給与実態統計調査結果を示します。




この10年以上所得は減っています。しかし国民の生活は不便になったでしょうか。生活レベルは低下したでしょうか。大半の方々は賃金が下がるのは悪である、円高は悪いという方が理解しやすいのかもしれませんが、「円」が高く信任を得ている状況下では世界中から質の高いサービスを安価で得ることが出来ます。私の使っているデジタルカメラもパソコンも海外製です。それ以外の生活必需品の大半も海外で生産されたものです。ヒューレットパッカード・コンパックのパソコンは堅牢性も高く動作も安定していますし高性能です。デジタルカメラも然りです。こう言うと日本国内の産業が空洞化するという人もおられますが、日本の企業は円高を超えるだけの高性能製品を海外に提供できますし、内需産業も厚いのです。GDPで見れば80%以上を内需が占めています。確かに多くの物品を輸入しますが、それ以上に国内生産が充実しているのです。

 首相がこれまでに言ったことは「インフレ目標が2%」で「賃金上昇目標が3%」ということですが、余力資金の出来た個人は購買意欲がかき立てられ、世の中のお金が回るとでも言いたいのかもしれません。しかし金融主導とあっては健全的な話ではありません。ちなみに、賃金上昇目標が達成されたとすると以下のように所得が増えます。




そもそも賃金が上がれば生活は豊かになるのでしょうか?私は恒常的なインフレにはならないと考えておりますが、仮にインフレになった場合、商品価格に対して賃金の上昇ペースが上回るなどということはあるのでしょうか?金利が低く為替が安定し、モノの値段が上がり企業収益が良くなって始めて賃金に影響しますから、現在の政策はどれひとつ欠けてもなりませんし、順序もしっかりと考えなくてはなりません。本来政治家がやらなくてはならない財政健全化や構造改革を後回しにして、何十年前の政策かわからないようなインフレ目標の設定や賃金上昇目標の設定ばかりが先行しています。まるで太平洋戦争中のプロパガンダのように思えます。
 結果的に債券市場の混乱を来たし、投機的なマネーの動きを加速させている昨今です。総理の無能は選挙権者が責任を負うべきですから仕方ありませんが、意味の無いパフォーマンスは程々にして頂きたいものです。

<サイト管理人> 2013年 6月11日記述



 【脳も筋肉も年と共に劣化しないことについて】第272回

 人間の先入観は面白いもので、脳は20歳を過ぎると萎縮するであるとか、毎年何万個脳細胞が死ぬという通説があります。しかし、現在は年をとっても脳細胞は劣化しないということが科学的に証明されています。従兄弟である脳科学者の池谷裕二と直接話をする機会が数度ありそのことを教わりました。彼の著書にもこれらは科学的データも含めて記述されていますが、100歳の人間の脳と20歳の人間の脳には機能的な差は無いそうです。結局脳自体は萎縮しないのです。そして脳を使うことは大切です。遊びであれ、学習であれすべてが脳を使うということに当てはまります。年をとると経験則から思い込みが生まれ考えることを止めます。判断力は増しますが、決して新しい情報を取り入れるのではなく、既存の知識や見識で判断しようとしているのです。ただ、記憶力が悪くなるのではないのか?という疑問を感じている人もいるでしょう。しかし記憶に関しても年齢は関係ないそうです。記憶が低下したと感じるのは筋肉の衰えから来る集中力の低下が原因であり、ものを覚える土台が崩れているということです。
 女性の認知症が多いのは男性よりも新聞や読書をする機会が少ないことや社会的進出の割合が影響しているようです。つまり男性と同じ活動をしていれば脳機能はいっこうに低下せず、認知症の割合は減ることでしょう。ちなみに、新聞はデマが多いことからお勧めしませんが、読書をするのならば小説よりも論理的な内容のものが良いと思います。歴史であったり科学であったり、資源問題でも構わないと思います。自分の趣味にあったものを読めばいいのです。つまり活動すれば脳は健康を保ちます。軽いストレスも脳には好影響を与えるでしょう。ボケ防止には多少の不安要素を抱えながら生活を送ることも有効かもしれません。

 さらに、歳を取ったら筋肉が弱くなるという不正確な情報も横行しています。このような嘘が多くの人の人生の楽しみを奪ったのではないかと感じる今日この頃です。同じ活動をしていればほぼ筋肉は衰えないというのが正解らしいのです。ただ歳を取るとつい運動を敬遠しがちですので「歳」ではなく「運動をしない」という循環から筋肉が落ちるのです。「寝たきり」というのは「歳だから」という先入観と、「歳を取ると筋肉が弱くなる」ということを過度に宣伝した結果でしょう。同じ活動をしていれば筋肉は衰えないというのが正しいのです。小学校でも中学校でも体育がありかなりの運動量をこなします。だから子供は筋肉が強く保たれるのです。
 そもそも年をとったから歩くと疲れるのではなく、運動をしないから歩くと疲れるのです。過度に運動することはお勧めしませんが、適度な筋力トレーニングや日光浴をしてみると自分の身体が軽くなることが実感できます。身体が快適になるということです。肉体に負荷がかかることは大切なのです。そしてそれが自信ややる気に繋がり、ますます運動を行うようになります。これはとてもよい循環をもたらすことでしょう。

 私達の周りにはいろいろなデマがありますが、真実を見極め、脳を若く保ち筋肉を保つことは高齢化社会をむかえる日本にとっては必要不可欠なものと思います。株式投資でもデマが多く存在します。その日のニュースのほとんどが間違いを多く含んでおりますから、それに引きずられてトレードするようなことは負の遺産を残すことになるでしょう。真実を見極め、情報の本質を読み取り行動をする、そうした基本を脳や筋肉の問題からあらためて考えるべきではないでしょうか。余談ですが、最近の新聞では東京新聞くらいしかまともな記事を書いているように思えませんが...。

<サイト管理人> 2013年 6月12日記述



 【著作権に関する私の考え方について】第273回

 著作権の対象として考えられるのは美術や音楽、文芸、学術に属する作品でしょう。絵画や彫刻、建築、楽曲、詩、小説、戯曲、エッセイ、研究書などがその代表的な例となりますが、写真や映画、テレビゲームなど、新しい技術によって出現した著作物についても保護の対象として追加されております。
 最近は著作権をあまりに無視した行動をとる人が多く、動画サイトには映画やテレビ番組、音源がアップロードされており、これらを違法ダウンロードする人が後を絶ちません。ウィニーというファイル交換ソフトは使用禁止となりましたが、画期的なこのソフトウエアの問題点は著作権が付与されているファイルも交換できることにあります。Windows系のソフトウェアであるOfficeやOSそのものをダウンロードし使用している人も周囲におりました。驚くべきことはライセンスまでインターネット上に掲載されているのです。一体どうなっているのでしょうか。著作権者はなぜもっと訴えないのか、また取り締まりはもっと出来ないのかと不満を覚えております。

 さて、話を元に戻しますが、新しく創造されたものや創作されたものが著作権の対象となりますから、私の書いているコラムはどこかで見聞きしたことや、何らかの文献から得た知識を元に記述したものです。また、Yahoo!ファイナンスや内閣府などが示すデータも引用しておりますが、これらは独創性のあるものではなく、あくまでデータに過ぎませんから、著作権が発生するとは考えておりません。多くのサイトにおける経済統計などの指数やチャートは引用しても問題ないのではないかと思っています。とりあえず本コラムには私個人の独創性がさほど認められませんから、引用をされる方はご自由になさってください。ただ、一報をいただけると助かります。私自身の参考にさせていただけるからです。

<サイト管理人> 2013年 6月13日記述



 【投資の始まりは心理的に自分を知ることの始まり】第274回

 自分を知るためには心理学を利用することができますが、心理学とは一般的に通俗心理学を指しており、皆様が日常生活の中で自分や他人の心や行動を理解したり説明する際に用いる知識や理論のことです。これはポピュラー心理学とも呼ばれておりますが、メディアや多くのインターネットサイトにおける心理テストは稚拙なものでおおよそ学問とは程遠いものです。なお、心理学というと興味を持つ人がおられると思いますが、とても奥が深く、他の学問とも関わるものであり、近年発展の目覚しい脳科学とも密接な関係性をもっています。心理テストの中には過去に蓄積された基礎データそのもの捏造であることから検査も事実無根のものが多数あることが指摘されていますが、これは心理学者の誠実さと脳科学の分野でカバーしてもらいたいと思っています。

 株式投資で利益をあげるためには自己分析が重要な要素となり、私は一体何者でどういう性格なのか、どういうアクションに対してどう対処しがちであるのかといった性質を知っておく必要があります。そこから先は実際の売買に関わりますから、心理的な要素に行動学が加わってきます。投資を簡単に考えることも重要ですが、こうした基礎的な学問の上に則ってトレードをすることで始めてロジカルな手法を取ることが出来るでしょう。論理的な投資は利益または損益に対する買い入れの評価を正当に行うことにも繋がる為、次回以降の投資手法を客観的に考えることができるでしょう。そこで今回は初歩的な心理学についてまとめを行ってみようと思います。なお、心理学の世界は多岐の分野にまたがり非常に複雑なことから分類として区別することは難しいのですが、おおよそ以下のように区分することができます。

「心理学の区分」
・臨床心理学




悩みや問題を抱えた人を助ける方法を研究する分野です。心理検査や心理診断、心理療法などを含んでいます。また、精神医学的な知識や自己に対する理解も必要になります。具体的にはフロイトに単を発する精神分析学や分析心理学、行動療法などがあります。臨床心理学は、検査者側の主観が大きく関与してきます。

・教育心理学



教育課程にでの心の働きを研究する学問です。人間の発達には学習が欠かせませんが、心理学的な学習とは、体験を経て知識や技術、価値観、思考力などを身につけることであることから、学校教育で終わるものではなく、生涯にわたって行なわれます。

・発達心理学



人間の観察から発達法則を研究する学問です。この分野は年齢段階の区切りで細分化されることもありますが、脳が衰えないことは科学的に解明されておりますから、生涯を通して成長や発達を続ける人間について考える学問です。

・認知心理学




私の好きな心理学分野です。認知を人間の情報処理過程とみなして研究する学問です。知覚や記憶、思考、言語などの人間の情報処理の仕組みについて研究を進めます。特に記憶研究の分野では記憶のプロセスや忘却の問題をテーマとし、思考言語の分野では問題解決過程や推理、知能の問題をテーマとしています。株式投資には認知心理学が強く関与してくるのではないでしょうか。

・社会心理学



対人相互作用の観点から行動を研究する学問です。近年は国際化や高齢化問題、環境問題などがあり、これらが日常の生活に影響を与え、人間同士の相互関係も変容しています。こうした中で発生する問題をどう克服すべきかというテーマを担っています。

・人格心理学





臨床心理学の基礎領域で、性格心理学と言われることがあります。人格とは、個人を独特の存在として基礎づけています。人格の捉え方は様々な方法がありますが、人格を典型毎に分類する「類型論」、いつも一貫した行動傾向に視点を置く「特性論」、自我の働きを主とする「力動論」、行動の状況依存を重視する「状況論」などがあります。認知心理学と人格心理学は株式投資には欠かせない心理学分野でしょう。


その他の分野としては、青年心理学、知覚心理学、健康心理学、動物心理学、スポーツ心理学、環境心理学などがあります。これから投資を行おうという人も既に投資を行っている人も心理学的に自分を分析する機会をもたれることが肝要ではないでしょうか。投資だけではなく家庭や仕事といった投資よりも優先順位の高い部分に繋がってくる大切な問題に思えるのです。

<サイト管理人> 2013年 6月14日記述



 【憲法を改正された時がこのコラムの最後でしょうか】第275回

 このところ憲法改正議論がしきりですが、現在は自由民主党以外の政党はそれと言えないでしょう。その中心政党の政策が憲法改正を謳っています。私は憲法に対してはこれまで通り解釈で逃れるようにすべきという立場をとっていますから改正には反対ですが、第一党となるであろう自民党が改正するというのであれば仕方ありません。改憲勢力が参院で2/3を確保すれば改正されるのでしょう。国民投票もありますがこちらは有効投票数の過半数ですからパスする可能性が非常に高いものです。そうなっても私は日本から出ることも出来ませんし、現在の素案レベルでの憲法改正では日本人をやめる理由にはなりません。国内に住み、日本国籍を持ったまま暮らし続けるでしょう。
 なお、政党とは国民主権が基本であることから、民主党は公約を破った時点で政党ではありません。みんなの党や維新の会は議員になる為に集まった烏合の衆と思えています。税金を貰う人が楽をし、税金を払う人が苦労するのはおかしな話ですから、憲法改正よりも先に行政改革を進めて欲しいものです。無駄を含んだ財政出動や市場を混乱させている金融緩和も修正して欲しいと思っています。やるべきことはいくらでもあるのですが...。

 自民党思案では表現の自由が「公の秩序の範囲」に限定されますから、もしも現在の憲法が改正され、表現の自由が「公の秩序」の範囲になった場合、自由に見解を述べているこのコラム・エッセイも違憲の為に終えなくてはならないのかもしれません。よって、次回の参議院議員選挙の結果によっては終了しなければならないので、気楽なブログの準備を始めています。私自身が自由民主党支持者でありながら自分の行動を制限されることは残念でなりません。現行憲法下でも少々不都合なことはありましたが、戦後「表現の自由」や「学問の自由」が保障されていたことから日本は発展してきましたが、憲法改正、特に人権条項部分は私たちの子どもたちに大きな負の遺産をもたらすだろうと危惧してなりません。

 国家権力は縛りが無くなると暴走する可能性があります。これは過去にも起きた問題です。そこで、国家権力が好き勝手なことを出来ないように縛りをかけているのが現行憲法です。よって、憲法は国家権力の暴走から国民の自由を守ってきたのです。なお、憲法を元に多くの法律が作られます。民法も含む法律とは国家権力が国民の権利を制限するためのものであることから、憲法が国家権力を束縛し、国家権力に都合のよい法律を作らせない仕組みが成り立っています。もう少し言うと、憲法とは「国家権力を制限して人権を保障するもの」ということになります。このように憲法で国家権力を制限して、政治を行なう憲法を立憲的意味の憲法といいますが、今回の参議院議員選挙の結果によって立憲的意味が損なわれることには抵抗があります。国防の問題を解決する部分(9条)に関してはさほど大きな問題ないのでしょうが、日本人はアメリカから憲法を押し付けられたという政府の体の良い宣伝文句に惹かれて条文の多くを変更され、「表現の自由」や「学問の自由」を侵されるのは看過できません。日本人の価値観や思いを込めることもできず、改正すらままならぬ状況が続いてきたという一部の政治家及びマスコミに洗脳された人に限って日本国憲法の中身を理解していないでしょう。前文すら知らない人が大半ではないでしょうか。確かに条文では助詞のおかしな部分もありますが、全体として美しい憲法であると思います。以前のコラムにも書きましたが、現行憲法下でも自衛隊は違憲ではありません。戦車やF15改良型戦闘機、イージス艦、潜水艦は軍備ではなく装備(単なる備品)です。何ら問題はありません。F35も導入すればいいのです。活発な憲法改正議論は構いませんが、議会の2/3承認プラス国民投票によって改正されるのであれば仕方ありませんが、国民の自由は大きく狭められることでしょう。

<サイト管理人> 2013年 6月15日記述



 【世界の人口と穀物生産量、そして私達の倫理観】第276回

 この40年で世界の人口は増加の一途を辿り30億人がおおよそ60億人になりました。人口が増えれば食べるものも増産しなければなりませんので世界の穀類(米,ムギ,トウモロコシ等)の生産量は1年間で10億トンだったものが20億トンに増加しました。つまり人口が2倍になったので穀類も2倍生産するようになったということです。今から100年前の20世紀初頭には世界人口は15億人(推定)でしたから100年間で4倍になりました。そのさらに前の100年間は7.5億人が15億人になりこれも2倍になっていますから、18世紀を基準に考えると19世紀は100年で2倍、20世紀では4倍という数字になります。もしこのまま増加すれば100年で8倍ということになり人口は480億人と計算されます。
 現在の60億人でも世界人口は多いと思いますが、このまますると人類を除いては家畜以外の動物などは住むところが無くなることでしょう。そしてこの地上で480億人が生きていく為には毎日ジャガイモしか食べられなくなるとも計算されているようです。私はそこまで極端な状態になるとは思いませんが、現在と同様に富裕国と貧困国の間には食料事情に大きな差が生まれると考えています。ただ、楽観的に考えれば多くの人が住む地球は案外賑やかで良いのかも知れません。 今のところ穀物の増産量は順調といえます。世界の畑の面積は7.5億ヘクタール程でほぼ一定ですが、田畑に石油系肥料をたくさん撒いて生産量を2倍にしてきました。
 なお、穀類生産量の20億トンを人口の60億人で割ると、ほぼ300kgになります。人間が生きるのに必要な穀類は1年に300kgあればよいから辻褄は合っていますし、世界の飢餓が克服されて何年も経った理由は成り立っています。問題は投機的なマネーが穀物市場に流入し、貧困国では穀物を購入できずに飢餓状態におかれることです。穀物生産量そのものは問題無いのにもかかわらず不条理なものです。現在は約8億人の人が飢え、年間で1500万人の人が餓死していると国連の世界食糧計画が公表しています。冷たい言い方になりますが、貧しい国は国力を富ませることが第一であり、物資の援助を求めると同時に自国の発展のため国民が政治経済を学び安定政権を作るであるとか、治安を安定させることや経済的に解放するといった努力が必要でしょう。ただ、先進国側もやらなければならないころが多くあります。

 日本は裕福な国家です。ですから自分では穀類を食べる量の28%、おおよそ4分の1しか作りません。田んぼがあっても休耕田にしているのです。そして4分の3に足る量を輸入して、その半分をゴミとして捨てているのです。あまりに捨てる量が多いので「食品リサイクル」を実施しています。しかし食品はリサイクル出来ません。腐敗するからです。リサイクルして作るのは食品ではなく食べ残した食品を堆肥にすることです。ただ、堆肥となった食品がまた食品になる比率は1000分の1にも満たないそうです。ですからほんの僅かでも食べ残しを少なくすれば、堆肥などにする必要もないのです。お金持ちの日本人はどこまで許されるのでしょうか?お金を持っていれば何をしても良いのでしょうか?確かに今の社会システムでは隣に飢えた人がいても、お金を持っている人が食べられないほどのパンを買い、2,3切れを食べて残りをゴミ箱に捨てても逮捕されません。しかし本来は逮捕されるべきでしょう。社会の秩序の基本は「助合い」だからです。飢えて死んでいる人がいるのに食べられないほどの食料を買って捨てるのは間接的な殺人とは考えられないでしょうか。私にはお金という凶器を使った殺人に思えるのです。これは右的な問題や左寄りの考えから来るものではなく、倫理の話です。とは言え、偉そうに書く私はこれまで飢えたことがありません。ひもじいことすら少なかった人生といえます。

 国や人には経済力や能力の差もありますし、運不運(外的要因の絶対的状況)もついて回ります。しかし、越してはいけない一線があり、それは社会システムと倫理観で防がなければならないでしょう。輸入食品の半分を食べ残すという日本の呆れた現状から考えると、世界で8億人の人が飢えているということは認められないでしょう。国は政策を定めなければなりませんが、政治がどうであれ、日本人そのものが倫理を持たなければならない時は既に来ているのです。我々は世界に先駆けて「誠」を行動に示すべきでしょう。価値観の多様化は大嫌いな言葉です。答えは結局ひとつしかないからです。答えとは選択する道のことです。日本人全体が選択肢を誤らないように世界人口と穀物生産量、そして穀物市場に群がる投機マネーについて考えてみませんか。穀物市場などというものを野放しにせず、何らかの制限を加えるべきと思いませんか?

<サイト管理人> 2013年 6月16日記述



 【現状、給料が上がっても生活は豊かにならないこと】第277回

 円安になれば日本は豊かになれる、円安のおかげで2年ぶりに賞与額が0.7%増加しそうだ、円安のおかげで経済は豊かになり、生活も豊かになるという人が周囲に多くいます。そうした人々は日本国の実態を頭で理解できないのか、あまり学ぶことをしないのかもしれません。もしくは大メディアの洗脳をうけているのでしょう。
 そもそも、円安になれば日本経済は好景気に湧くのでしょうか?現在は様々な分野でグローバル・サプライチェーンが構築されており、円安で恩恵を受けるといわれる輸出産業にしても、さまざまな国から資源や部品を調達しています。円安になれば当然、それらの調達コストが上がり、利益を圧迫することとなります。実際、ガソリンなどは円安になってから国内価格が上昇しています。円安イコール日本経済の利益とは一概にはいえません。もっともガソリン価格は原油相場によっても左右されますし、小麦粉を始めとした穀物にも同様のことが言えますから当てにならない部分もあります。

 日本は一部の報道機関や歴代稀にみる無能な総理の声に押されて、金融緩和で円安に誘導する「通貨安競争」へと移行してしまいました。なぜ優秀な官僚の意見を取り入れないのでしょうか。行政改革、構造改革を後回しにするなら重税国家になれば良いのです。少々話が逸れましたが、結果的な通貨安競争によって一時的に円安や株高になったとしても、世界中にある相手国の景気が悪化すれば輸出は減り、その影響をダイレクトに受けることになります。先日のイタリアの総選挙の結果で国内政治が混乱するのではないかという予測が広がると、円が買われて円高になり、日経平均株価も値を下げることがありました。その後のキプロスの預金封鎖をみても明らかなように、欧州の債務問題はまだくすぶり続けています。世界の一地域で問題が発生すれば、円も日本の株価も大きな影響を受けるのです。本来金融主導で相場を作り、景気を下支えすることは統制経済に他ならないのです。

 世界全体の実体経済が良くならなければ、現在進行形の資産バブルは終焉を迎えるでしょう。そこで損害を被るのは、環境や雰囲気に踊らされて株や為替に手を出した人たちです。しかも現在の状況で心配なのは、富裕層など資金的に余裕の人だけが投資に参加しているわけではないことです。低所得者もアベノリスクに乗り遅れまいと、雇用が不安定な中で少ない貯蓄の中から投資に参加しているというケースも多いのではないでしょうか。私は株式投資というものは最低1000万円程度の余裕資金(10年分の生活防衛資金を除いた資金)で行うべきと考えております。主婦やサラリーマンを中心とした日本の個人投資家は海外でも有名になっていますが、実態は生活資金に困った人間が賭博に手を出すような「生活直結型の丁半博打投機」が大きなウエイトを占めているのではないかと思えます。
 一部の企業がボーナスの増額やベースアップを発表していますが、全体で見れば働く人たちの賃金は上がることはないでしょう。いまの政権は、労働規制を緩和し、正社員を解雇しやすくするなど「雇用の弾力化」を進めようとしています。かくすれば、企業は正規雇用を減らして非正規雇用の割合を増やし、総人件費を抑える方向に動くはずです。経営者なら当然の判断です。仮に今給料が上がっても、2,3年後にはリストラを言い渡されるかもしれない状況を生み出しだす雰囲気があります。円安を喜んでばかりはいられないのです。為替は色々な政策と一体に考えねばなりませんし、日本が内需国家であることを直視しなくてはなりません。輸出産業は経団連において大きな発言力を持っています。そんな一部の企業利益を優先したところで、日本経済全体の底上げには結びつかないでしょう。

<サイト管理人> 2013年 6月17日記述



 【仏教から考えるスピリチュアルの危険性】第278回

 数年前流行ったスピリチュアルブームは現在去っていますが、かつて美輪明宏や江原啓之といった催眠にかかりやすい人間が視聴率確保の為に利用されました。丹波哲郎も同じような部類でしたが、押し付けがましい表現はせず、比較的謙虚にスピリチュアルを説いた一人です。今回のコラムは容量が多くなる為に箇条書き形式で端折りますが、大筋でスピリチュアルの危険性と仏教について記述してみたいと思います。

●催眠で出てくるのものは記憶の再合成に過ぎません。

●悪魔とは遺伝子レベルでの恐怖を生み出す力を学んだ人。
 マウスは蛇を怖がる遺伝子を持っています。だから蛇らしいものを見ると逃げるのです。人間にも似たような部分があります。これには遺伝子レベルで研究した結果があります。インドのサンスクリット語で作られた複音のもので、誰もが震え上がる音楽が存在していることがそのひとつです。

●霊や死後の世界は全く信じないが、霊力は否定できない。
 認知的な世界は言語と言語の間にスリットがあります。そこに根源的な恐怖心が生まれ、また、その恐怖心を突いてくるのが霊力となるのです。言葉のレベルを超えているのが霊力なのだといえます。江原啓之というのは完全なまがい物でありますが、ウソをついている人かは疑問です。ただ当人は見えるような気になっているか、見えていると思い込んでいる人であり危険な存在でしょう。むしろ江原は被害者側なのかもしれませんが、催眠がかかりやすい体質が故に悪魔の洗礼を受けている可能性があります。生まれ変わり思想をするためには、100年前と今の自分が同じでないとならないのですが、それを証明することは出来ません。

●日蓮宗の修行について
 日蓮宗の修行僧は霊を見ています、また霊と戦う修行があり、実際に霊と戦って死んだ人もいるほどです。臨場感が上がり心臓が止まることはありますが、それは心の世界の話です。これを物理的な世界(科学)に持っていくとおかしなことになるのは明白です。

●アートマン思想
 数学の点のことを考えるものです。数学の点は存在するという人と無いという人がおります。面積や体積があると点ではないのですが、直線が交わっているところが点なのです。ただ、数学宇宙では点が存在します。点があるという人は点という存在そのものが永続的に存在していると考えているのです。無いという人は物理的にあり得ないと言っているわけです。あると言わなければ成り立たないのがスピリチュアリズムと言えるでしょう。
 ・点は未来永劫存在するものである・・・アートマン
 ・点があろうとなかろうといい・・・釈迦
 なお、永遠の魂であるアートマン思想とは、バラモン教から始まった議論です。
 ・大我(大きい我:宇宙の本質としての我)・・・ブラフマン
 ・小我(小さい我:自分の個我にある我)・・・アートマン
 大我も小我も共通した本質を持つというのが梵我一如(ブラフマンとアートマンは同じ)です。大きな我と小さな我一体であるというのがウパニシャッド哲学であり、これを批判否定したのが釈迦です。そもそも、生まれ変わり思想をする為には、100年前と今の自分が同じでないとならないのですが、それを証明することは出来ません。時空を超えて点(この私)は永続的に存在しないのです。参考ですが、自分にとって重要な集合体(自我)、順位がないものを(悟り)といいます。

●無限とは何か
 無理数には3.1415・・・などがありますが、これは計算方法としていえるものです。計算機が計算したところまでが無限のサイズになります。宇宙は無限ですがよく解らないことに似ています。どちらも無限ですが、いちいち考える必要はないと言ったのが釈迦(中観思想)なのです。

●仏教における空観・中観・仮観という考え方

 空観






宇宙の最小単位はわかっている。振動していると素粒子。振動があれば見えるという対象。なければ真空。映画の大きなスクリーンに近づくと光の点で出来ている。ここにカルマの思想を入れると、生まれ変わっても悪いことをしたというデータが残るということになる。悪いことをしている人がいるとすぐに殺して差し支えない。むしろよいこと。映画の世界と同じで、殺人と区別がつかない。カルマと徹底的な空観がくっつくと危険。何もなければ、幻で何もない世界。本当の幻の人としては達磨禅師。現代の日本では非常に困るが、たいして悪いこともない。

 中観


悪いことをしている点(人間)を殺そうと思うが、その人間が仮に役割を果たしているということを理解すると、存在としての視点が浮かび上がる。論理の世界で程ほどにというもの。

 仮観


この世は実態がある。未来永劫実態が存在する。領土は広いほうがいい、お金はあったほうがいいという考え方。煩悩の世界。


 スピリチュアリズムはアートマンの思想が裏にあります。魂の階層性も認めているのです。前世や来世などという無意味なことに重きを置き、本人の努力ではどうしようもないにも拘らずそれを平然と認めているのです。空観と仮観の悪いところだけが集まった危険なものでしょう。そこにカルマが入るとポアの考え方に繋がってしまいます。殺人も肯定するようなものが多くあり、オウム事件もそのひとつでした。

<サイト管理人> 2013年 6月18日記述



 【結婚に対する価値観の変化と全廃論の芽生え】第279回

 私達がこれまで「当たり前」と思っていたことを、太平洋戦争が終わって男女の役割が変わったことで、すべてを考え直そうと思ってみますと「結婚全廃論の始まり」に到達してしまいました。かなり極端な内容なので、多くの人々と何回か議論したり考えたりしなければならない問題でしょうが、かなり重要なテーマでもあります。
 そもそも、結婚とは何のために行うのでしょうか。キリスト教徒でもないのに結婚式当日に「神の前で愛を誓う」という虚言を言うためでも無いと思います。かつて結婚というものは「家族のため、集落の為、地域の為、国の為、社会秩序の為」でした。

 もともと日本式の戸籍があるのは、日本、台湾、韓国など旧日本領に限られ、世界でもほとんどありません。ですからまずは法律的な縛りのある結婚というのは世界的に見れば意味はほとんど無いのでしょう。「家族」というのは「(法的裏付けのある)結婚」とは関係がありません。男女がお互いに愛し合い、一緒に生活して「家族」を形成すれば良いことで、別段、結婚式も届け出もいらないでしょう。それは不道徳なことではありません。フランスなどの例を考えても理解できる範疇です。むしろ結婚の届けを出して1年で離婚する方が余程不道徳と思えます。
 つまり、「一人一人の独身」の次には「結婚」がなくて、「二人で家庭人」になるということなのでしょう。また、「家庭」は男女とは限らず、「母と子ども」で家庭を作っても問題はありません。「一人の家庭」もあります。体外受精、体外妊娠も可能になるからです。経済的な問題はここでは記述しませんがこういう形態も許されても良いでしょう。
 また先述のフランスではありませんが、「家庭を持たない男女のペアー」というのもあり得るでしょう。男女で「結婚」はしないけれど、友人ではなく男女の関係としてのペアーであり、たとえば一緒に住むなり、別々に住んでも良いという形態です。

 家庭が大切な人は多いことは事実です。私もそう思っています。しかし、「男女の家庭」、「男女と子どもの家庭」、「親と子どもの家庭」などは良いのでしょうが、だからといって「結婚」が「家庭」と連動しているということはなくなってきているように考えられないでしょうか。

<サイト管理人> 2013年 6月19日記述




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